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* 本作品は、sleep dog様主催、2004年度『犬祭』参加作品です 


〜〜 土砂降りの後 〜〜


ミズーリ州 カンザスシティ郊外 マウント・リバー牧場




「どうしてこの犬を飼っちゃいけないの? ぼくが貰った犬なんだよ?」
 少しウエーブのかかった黒髪に、まだあどけなさを残す黒い瞳の少年が、居心地の良いランチハウスの居間で、困りきった顔の母親に向かい、大声で文句を言っていた。
 それは少年の八歳の誕生日も近い、ある初夏の日の午後のこと。

 ことは突然リボンをかけて届けられたバスケットから始まった。その時、ランチハウスにはその少年以外誰もいなかった。少年が目を輝かせながら配達人からそれを受け取り、籠を開けて見ると、中には黒い子犬が丸くなって、すやすやと寝息を立てていた。子犬は血統書つきのイタリアン・グレートハウンドで、かなり高価な犬であることは、その毛並みの艶の良さからも一目瞭然だった。
 外出から帰ってきた母親に、得意気にそれを見せるや否や、なぜか母の顔色が変わった。そして、このどちらも譲らない押し問答が、かれこれ一時間も延々と続いている。
 睨み合う二人の傍らで、四歳になる赤毛の妹が、父親そっくりのブルーの瞳をくりくりさせながら、兄の手元で時々動く黒い子犬を、興味深げに眺めていた。


*         *         *



「だって、ぼくの誕生日のプレゼントにって、このマロリーって言う人から、間違いなく『ぼく』に届いた犬なんだよ。だから、こいつはぼくのものだ。ぼくが頑張ってきちんと世話をするよ。えさもやるし、トイレだってちゃんとできるように教えるから。毎日散歩させて牧場で一緒に遊ぶんだ。どうしていけないの? 理由も教えてくれないなんて、全然フェアじゃないよ」
 小学校で覚えてきたばかりの、生意気な文句を口にするぼくをじっと見つめ、ママは一つ大きなため息をついた。赤い髪の下のきれいな顔が、すっかり青ざめているのが見てとれた。ママが困っているのはわかってる。でも、ぼくだって理由も聞かずに譲れない。
「とにかく、この犬は絶対に送り返さなければいけません。わたしがいたら、受け取らないで持ち帰ってもらえたのに……。それにあなたも犬が欲しかったのなら、パパにお願いして、これと同じのを一匹買ってもらえばいいわ。さあ、いい子だから、それはママに渡してちょうだい」
 いつもは優しいママが、いつになく厳しく断固とした調子でこう言ったとき、ついにぼくの目に涙が浮かんできた。でもぼくも男だ。泣いたりなんかしたくない。
「いやだ! ママはいつだって、ぼくに来たプレゼントを取り上げてしまうんだから。去年だって、その前だって、そうだったじゃないか!」
「マシュー、それはね」
「わかったよ!」
 だんだん興奮し、ついにぼくは大声で叫んでいた。
「ママもパパもぼくのことなんて、ちっともかわいくないんだ! どうせぼくは、よその子なんだから。ぼくだけは、アンやフォードみたいに、パパとママの本当の子供じゃないから! ぼくだけは目も髪も黒くってみんなと違う……」
 その途端、ぴしりと音がして、頬がじーんと痛くなった。
 ママが叩いた……。
 ぼくはショックで、呆然とした。
「マシュー! 何てこと言うの?」
 しかも驚いたことに、ママの方が今にも泣き出しそうになっていた。妹までびっくりしたようにべそをかき出すような有り様だ。

 その時、居間のドアがさっと開いた。ぼくもママも驚いて一緒に振り返る。そこには牧場の仕事を終えて、ハウスに戻ったばかりらしいパパの姿があった。
 パパはぼく達子供の目から見ても背が高くて堂々とした、とても立派なカウボーイだ。この牧場の『けいえいしゃ』、つまり、一番のボスっていうこと。もともとママと大の仲良しの小父さんで、ぼくもずっと大好きだった。小父さんがママと結婚して、ずっと憧れていた、ぼくのパパになってくれた時、まだぼくは妹くらいの歳だった。
 とても嬉しかったし、いつだってパパのことは大好きだ。ぼくたちは今まで、とってもうまくやってきたのに……。



 汗に濡れたダークブロンドの髪が、いつもより一層濃い色になっていた。あの時のパパの顔は、絶対に忘れられそうにない。
 いつも優しい微笑をたたえて、ぼくや小さな妹・弟を見つめる夏の青空のような青い瞳も、今まで見たこともないくらい、悲しそうに陰っていた。
 そして、とても、とても寂しそうに……。

 パパの目を見た途端、後悔の気持がどっと押し寄せるのを感じた。胸がきゅーんと痛くなる。だけどその時は、なんだかさらに意地になってしまった。ぼくの手の中でくんくんと鼻を鳴らす犬を、強い決意のもと、さらにきつく抱きしめたまま、挑戦的な目でパパを見返した。
「あなた、帰っていたのね。ごめんなさい、気がつかなくて」
 ママが慌てて立ち上がって、パパの方に行こうとする。だけど、パパはいつも家に帰ってすぐやるように、ママに近づいてキスするのではなく、ぼくの方にまっすぐ歩いてきて、ぼくの肩を大きな手で包み込むと、足元に膝を突いた。
 「マシュー……、今のは、どういう意味かい?」
 そう言いながら、片手でそっとぼくの顔を上げさせようとする。ぼくは半分べそをかきながら、夢中でその手を振り払った。二、三歩後ずさると、部屋のドアを力いっぱい閉めて、犬を抱きしめたまま玄関から、文字どおり脱兎の如く外へ飛び出してしまった。
 空に真っ黒な雷雲が近づいていたんだけど、ぼくは逃げるのに必死で、そんなことには全く気づかなかった。
 「マシュー! どこへ行くつもりだ? 待つんだ!」
   窓から、パパが大声で呼び止めているのも聞かず、ぼくは一目散に走った……。


 ランチハウスの外は、右手にずうっと広がる緑の牧場への路。左手は牧場のいろんな施設が続いている。もう仕事が終ったのか、カウボーイ宿舎の方からは、戻ってきたカウボーイたちのざわめきが聞こえてくる。
 パパやママに見つかりたくなかったら、誰もいないところに行かなくちゃ。
 そんなことを考えてぼくは、とっさに手近な建物の陰に隠れた。パパやママが捕まえにくると思ったから。やっぱり、すぐにパパがハウスから飛び出してきた。
「マシュー、どこに行ったんだ。まったく、すぐに嵐が……」
 ちょっと焦ったように辺りを見回し、ぼくの名前を繰り返し呼びながら、また走って行って、同じことを繰り返している。
 パパがノースゲートの方へ行ってしまったのを見て、ぼくはイーストゲートに向って走り出した。そっちにはちょっとした木の茂みがあって、隠れるにはとても都合がいい場所だった。
 ぼくは子犬を抱いたまま、その茂みの中に入っていった。



 しばらくそこに隠れながら、黒い子犬とじゃれ合っていた。とても可愛かった。でも心がとても痛かった。さっきのパパとママの顔を思い出すと、また涙が出そうになる。ぼくは目をごしごしこすりながら、子犬に話し掛けた。
「ぼく、あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。それなのに気がついたら勝手に口から飛び出しちゃって……。もうパパもママも、ぼくを本当に嫌いになっちゃうね、きっと」
 その時、上からポツリと雨だれが落ちてきて、ぼくの顔に当たった。突然真っ暗になったと思う間もなく、雷がゴロゴロと鳴り始める。
「うそ、これって、嵐になるの……?」
 カンザス名物とも言われる大嵐。雷が轟いて、すさまじいどしゃ降りが突如スコールのように大地に降り注ぎはじめる。このまま外にいては大変なことになってしまう。
 そう気がついたときは、すでに遅かった。ポツリ、ポツリと落ちてきた雨粒が、たちまちバケツをひっくり返したようにすさまじい音を立てて降り出した。ぼくは慌てて、子犬を抱き上げて立ち上がろうとした。でも、もう本当に遅かった。やがてドサーッと、滝のように雨がぼくらに襲い掛かってきた。とても立っていられない。ぼくは犬をかばうように、その場にもう一度うずくまってしまった。もしかして泣いていたのかもしれない。ひっきりなしに身体を打ち付ける雨に、段々訳が分からなくなって意識がもうろうとし、半分くらい消えかけていた。

 その時背後でかすかに違う音がして、人の気配を感じた。うずくまったまま、倒れていたぼくを、力強い腕が抱き上げてくれる。温もりに顔を押し当てると、雨に濡れてぴったりと張り付いたシャツを通して、暖かい胸の鼓動が聞こえた。全身で嵐からぼくをかばおうとするみたいに、大きな身体を折り曲げながら、ぼくと犬を守ってくれている。ぼくの上にひさしみたいにかぶさっている背中も、どしゃ降りに容赦無く叩きつけられているのがわかった。不謹慎だけど、何だかすごく嬉しくなって、そうっと呼びかけてみた。
「……ありがとう、パパ」
 多分声は出なかったのかもしれない。それきり、何もわからなくなったみたいだ。



「もうこの子ったら、本当に」
 ぼくが目を覚ました時、ママは半分泣いてるみたいな声で、ぼくのほっぺたに、顔を摺り寄せて何回も何回もキスした。
 まだぼんやりした意識の中から一生懸命浮かび上がって、目をこじあけると、目の前にママのきれいな顔が見えた。ベッド脇の椅子に座って、ブルーグレイの瞳に涙を浮かべながらぼくの手を握りしめ、じっと顔を覗き込んでいる。
 ぼくは、いい気持だった。
 気がつくと自分の部屋のベッドにいた。もう夜みたいだ。とても大事なことを忘れてるような気がして、ぼくは慌てて起き上がろうとした。
「あんまり急に動いちゃ駄目だぞ、まだ熱があるんだからね」
 ベッドの裾から、パパのあったかい、ゆっくりした響きのいい声が聞こえた。
 そっちに顔を向けると、パパの心配そうな微笑があった。
 思わず、ぼくも微笑みかえす。
 その時、パパの足元で、くんくんという犬の泣き声が聞こえた。
「犬も……無事?」
「ああ、無事だったよ。こいつの方がお前より、回復が早かった。お前ががんばって守ってやったお陰だ」
「それじゃぼく、この犬、飼ってもいいの?」
「離そうにも、離れそうもないしね」
 パパはそう言いながら、ちょっとママの方を見て肯いた。
 ママは辛そうに、少しためらうように、ぼくとパパを交互にじっと見つめてから、ドアを閉めて出ていった。
 部屋にはパパとぼくと、犬だけが残った。



「気分はどうだい?」
 二人きりになると、さっきまでママが座っていた椅子に今度はパパが座った。
「うん、大分いい」それから、ぼくは思い切って言った。
「さっきは、ごめんなさい」 
 パパはにっこり笑い、手でぼくの髪をくしゃくしゃにした。それからもう一度、さっきよりも真面目な顔になった。
「マシュー、さっきお前が家を飛び出す前にママに言ったこと、覚えてるかい?」
 パパは、ぼくの目を見ながらゆっくりと切り出した。とたんに緊張した。ばかなこと言っちゃったから、パパはもうぼくが嫌いになったかもしれない。
 もしそうだったら、ぼくはどうすればいいんだろう……。
 ぼくが返事もできずにしょんぼりと俯いていると、更に続けてこう言った。
「お前があんなふうに思っているとは、パパもママも今まで考えても見なかったんだ。僕らは気づかないうちに、お前がそう感じるようなことを何か、したことがあっただろうか? 小さなことでも何でも、正直に教えて欲しいんだ」 
「う、ううん、ちがうの、ちがうんだよ、パパ」
 ぼくの目から急に涙が溢れてきた。泣くのは男らしくないと思うから、恥かしかったけど、止まらないから仕方がない。
「コニーとディックがぼくに言うんだ」
「コニーとディック? クラスの友達かい?」
「あんな奴等、友達なんかじゃないや。そいつら、ぼくがパパにも、ママにも似ていないって、お前は拾われてきた子供だろうって、そう言っていつもぼくのことをからかうんだ。ぼくは自分がパパの本当の息子じゃないってわかってるけど、とっても悔しくて……。それにステップファーザーって、やっぱり……どこかファーザーとは違うのかなって。ぼくの本当のお父さんは、ぼくのことなんか知りもしないんだって思ったら、余計なんだか……、よくわかんないけど」
 パパはぼくの言葉を聞いて、またとても悲しそうな表情になった。
 だけど、その口から出た言葉は、やっぱり穏やかで優しかった。
「マシュー、僕の目をごらん」
 ぼくがゆっくり目を上げると、とても真剣な顔で話しはじめた。
「その話も……、いつかはお前にしなければならないと思っているよ。お前がもう少し大人になって、人を愛することの意味がわかるようになった頃にね。だが、今はまだ……難し過ぎてよくわからないだろう。ただ、これだけは、はっきり覚えておくんだ。ママはお前が生まれる前から、お前のことをとっても愛していた。だからお前が生まれたんだし、僕はそんなママとお前を愛していて、だからママと結婚した。お前もアンもフォードも、三人とも僕の大切な子供達だ。お前だけ違うと思ったことは一度もない」
「うん、ぼくもそれ、さっき……わかったよ」
「さっき?」
「雨の中でぼくパパを呼んでたの、ひどいこと言って、ごめんなさい、ごめんなさいって。そうしたら、本当に来てくれたんだもの。やっぱりパパだなって、思ったんだよ。すっごく嬉しかった。でも、どうしてぼくがあそこにいるってわかったの?」
「パパも、この牧場で生まれ育ったんだ。子供の頃の隠れ家は、もちろん全部覚えているさ」
 思わず喚声を上げて、パパの顔を見る。
「それじゃやっぱり、ぼくはパパの息子なんだね」
「ああ、もちろん」
「この犬……、やっぱり返すよ」
 ベッドの上に這い上がろうとする子犬を見ながら、ぼくはそっと呟いた。その時、意外な言葉が聞こえた。
「いや、もらっておくといい。こいつはお前の本当のお父さんも、お前のことは思っているっていう証だから」
「どうしてわかるの?」
ふいにどきどきして、ぼくは次の言葉を待った。
 パパはちょっとの間、ためらっているように、迷っているように見えた。やがて、かすかに顔を歪めて、息を大きく一つ吐き出した。
 それから、一言一言噛んで含めるように言った。
「この犬は、お前の本当のお父さんからお前への、バースディ・プレゼント、だからさ」
「……!」
 ぼくは、目を見開いた。ようやくわかって嬉しいはずなのに、意外にも何も感じなかった。見知らぬ本当の父親が、影のようにぼくの中から離れ去り、ずっと心にもやもやしていたベールがはずれて、本当に大切なものが、ようやくはっきりと見えたような気がした。

「ママが今、夕食を持ってくるから、食べたらぐっすりお眠り」
 パパはぼくの額にそっとキスすると、上掛けを直して静かに部屋から出て行こうとした。
「パパ」
 ぼくはパパを呼び止めた。
「ぼくにおやすみのキスをしてくれるパパは、やっぱり一人しかいないよ」
 振り向いたパパの顔に、ぼくの大好きな、あの夏の青空のような笑顔が広がった。
 ベッドの下で子犬が、くーんと眠そうな声を出した。



               
〜 Fin 〜


* 本作品は blue sketchさんのBLOG《記憶の黴》お薦めオンライン小説vol.2にて、ご紹介いただきました。
  ありがとうございました……


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