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 マウント・リバー牧場のオフィスは、牧場のゲートから入って最初に見える平屋建ての建物だった。
 中に入ると、板張り床の広いスペースが、ついたてでいくつかに仕切られている。一番奥にパソコンやファックスが置いてあるクリフのデスクスペース、その横に忙しい時だけ応援を頼むことにしているパートタイム事務員の机、そして、一番ドア付近には来客用の応接セットとキャビネットが置かれていた。
 まだ午前八時半を回ったばかりだ。その日はいつもより一時間も早くから、クリフはオフィスで、デスクに向かっていた。今彼の前には、まだ顔をはらしたサムとホルトが、夕べの勢いもどこへやら、しょんぼりと立っている。

「で、夕べの件は誰に頼まれた?」
 彼らを鋭く一瞥し、やおら不機嫌な顔でクリフが問う。ギクッとしたように身動きし、二人は落着かなげに顔を上げた。
「あれは、どんな奴に頼まれたかと聞いてるんだ。隠しても無駄だぞ。時間がもったいない。さっさと答えて欲しいんだが」
 ボスの機嫌の悪さは一目で見て取れた。引きつった口元に、いつもは夏の青空のように晴れやかな瞳も、今は嵐をはらんだ雲のように険悪な雰囲気を帯びている。
 こういう時に逆らっても、いい結果など出ないことは、鈍い彼らにもたちまち見て取れた。
 一瞬顔を見合わせ、恐る恐るサムが口を開く。

「すんませんでした。実はその……、ミリアムさんなんで」
「ミリアム?」
 予想外の答えに思わず拍子抜けして、クリフはオウム返しに口にした。
「へい、そうなんです。夕べ俺達二人に、彼女がここにいては牧場のためによくないと言って、逃げ帰るように仕向けてくれって。俺達もうかなり酔ってたんで、憧れのミリアムさんのためだ、なんて、つい調子に乗っちまって。だけど俺達、あの人がボスのいい人だなんて、知らなかったんで」
 再び氷のような視線を受け、サムは身を縮めて思わず口をつぐんだ。

 クリフは呆れたように二人を凝視してから、もう二度とするなと厳重に注意し、持ち場に戻らせた。


 再びオフィスに一人になると、まだ不機嫌に引き出しから取引先の顧客リストを取り出した。電話をかける先の番号を探しながら、夕べちらりと見かけたミリアムの表情を思い出していた。それにしても実にくだらない話だ。どうしてミリアムがそんな馬鹿げた真似を……。

 そこまで考えて、案外サマンサの勘が、当たっているのかもしれないと思い当たった。あまり考えたくもない話だったが。
 まったくミリアムは時々度が過ぎることがあるようだ。隣の牧場の一人娘で幼馴染という立場上、どうしても態度が甘くなってしまうが、それを彼女が、ここで好きなようにできる権利と誤解しているなら、一度はっきり言ってやる必要があるかもしれない。

 チェックが済むとパソコンのスイッチを入れ、昨日の状況を調べて行く。まだそれほどの大損害は、出ていないようだ。だが、これが続けば確かに頭が痛いことになるだろう。



 サマンサは、朝食をコーヒーで流し込んでからも、部屋に座っていた。
 子供向け番組を見ながら、マシューが隣で手を叩いている。やはりこんな所でただじっとしているのは、性に合わなかった。それにこのまま居候でいるのも心苦しい。とにかく何か仕事をし、役に立ちたいと思った。自分にできることなら何でもいい。

 まず厨房に行ってみた。本気で皿洗いでもと思ったが、コックから人手は足りているし、ボスのお客さんにそんなことをしてもらうわけにはいかないと断られてしまう。
 やはりクリフに会いに行くしかなさそうだ。

 だがそこで、また挫けそうになる。昨夜と今朝、彼と交わした優しくそれでいて激しかった愛の行為を思い出すと、今も全身が熱くなる。あれは起こってはいけないことだった。でも起こってしまったものは、もう取り消せない。そしてわたしの気持も同じ。もう自分でもどうしようもないくらい、彼を愛してしまっている。
 どう言い繕っても仕方がない。これ以上、自分を欺くことはできなかった。

 今朝のクリフの機嫌が悪かったことを思い出すと、辛さも蘇ってくる。あの言葉が彼を怒らせてしまったの? 彼のためにも、一番よかれと思って言ったことだったのに。それとも、彼の方こそ、後悔しているのかもしれない。
 そう考えただけでも、苦痛が込み上げてきて、胸が締め付けられるようだった。

 だがセンチメンタルな感傷は、この際置いておかなければならない。そんなものは、昼の光の中で持ち出すべきではない。そう自分に言い聞かせつつ、ようやくマシューの手を引いて、クリフのオフィスを探し当てた。


 ノックに返事が無いので不在かと思いつつ、ドアを開けて見る。彼はついたての向こうにあるデスクの前にいた。こちらに背を向けて、電話で熱心に話し込んでいる。その姿をちらっと見ただけで、心臓が止まりそうな気がした。
 彼の前では、何食わぬ顔をしていられますように、と祈りつつ、サマンサは幼な子を抱き上げ、いい子にしているよう言い聞かせてから、中に入って行った。

 クリフは時折かなり激しい調子で、やり取りしている。話が終るのを待ちながら、最初は聞き流していたサマンサだったが、その会話の中のコンチネンタル・エンタープライズという単語が耳に入り、ギクッとした。途端に礼儀も何もかも飛んでいってしまう。マシューが声を上げそうになるのを、必死であやしながら、今度は全身を耳にして、つい立ての陰でクリフと電話の主とのやり取りを聞き取ろうとした。
 契約がどうのという内容は半分しかわからなかったが、クリフが重いため息をつきながら受話器を置いた頃には、その内容をつなぎ合わせ、今ここで何が起きているか、ようやく理解することができた。

 ショックだった。だが同時に、これで全てに納得が行く。そう言えば昨日のミリアムの発言もそうだった。だから夕べ、あんな嫌がらせを受けたに違いない。それでは、何も知らないのは、自分だけだったの? サマンサは自分の鈍さに呆れ果て、腹立たしく思いながら、彼の前に出て行った。



 受話器を置いて苦い表情で振り返ったクリフの前に、青ざめたサマンサが、突然子供を抱いて現れた。驚いて、クリフも立ち上がる。
「やあ、何か用事でも?」
 あんなことがあった後なのに、何一つ感情のこもらないそっけない言葉。内心傷つきながら、サマンサは苛立しげに言った。
「クリフ、お願いだから正直に教えてちょうだい。マットがあなたに何をしたの?」
「何の話かな」彼は座り直すと視線を下げ、手元の書類に目を落とす振りをした。
「クリフ!」
 再び顔を上げ彼女の必死の表情を見るなり、彼は少し優しい口調になった。
「別に、君が気にすることじゃない。こちらでももう対策は考えてあるんだ。何も心配しなくていい」
「………」
「それよりマシューを連れてどうした? どこか買い物にでも行きたいのかい?」
「わたし、何か仕事がしたいと思っていたんだけど……」

 もはや、それを言い出すことにさえ、ためらいを感じた。やはりマットは手段を選ばない冷酷な男だ。コンチネンタル・エンタープライズの社長を相手にやり合おうとするのは、牧場主として、とても賢明とはいえない行為に違いない。
「仕事?」彼の眉が上がった。
「そう、わたしにできることなら何でも……。お世話になっている上、毎日子供と遊んでいるわけにはいかないと思って」
 大きくため息をついて、クリフは椅子の背に上体をもたせかけた。
「まったく、義理堅い性格だな」小声で呟くと、強い視線で彼女を見据えた。
「だが、僕はそんなことを君に期待してはいないんだ。何も気にしなくてもいいから、この際のんびりしていることだね。退屈なら、マシューと一緒に乗馬でも習えばいい」
「馬鹿にしないでちょうだい!」サマンサは怒って言い返す。
「自分の面倒くらい自分で見られるわ。あなたがわたしを子供みたいに扱うつもりなら……」
「子供だって? とんでもない。僕は君を、そんなふうには扱わなかったつもりだがね」

 クリフは彼女の剣幕に少し驚いたようだった。一瞬陰ったブルーの瞳が熱っぽくなったような気がした。じっと見つめられて、再びサマンサの心臓の鼓動が早まる。だが、再び口を開いた彼の口調は、ビジネスライクそのものだった。
「それなら聞くが、仕事をしている間、マシューはどうするつもりだ?」
「横で遊ばせておくとか……」痛い所を突かれ、返事に詰まる。
「それは却下だな。話にならないね。仕事中に、子供の面倒は見られないよ。さあ、僕は忙しい。よかったらもう行ってくれないか」

 取り付く島もない態度に、サマンサは唇を噛んだ。
「シティに出かけて来ます。夕方まで戻らないわ」
 こう言うなり子供を抱き上げ、きびすを返してオフィスを後にした。

 音を立てて閉まったドアを、クリフはしばらく見つめていたが、やがてうめき声を上げて、頭を抱えた。


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