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 翌日の午後、一台のレンタカーがマウント・リバー牧場のゲートをくぐり、事務所の前に停車した。
 グレーのスーツを着た男が中から降り立ち、ドアをノックするが誰も答えない。車は再び動き出し、今度は木造ランチハウスの前で停まった。


 クリフは朝からシティに外出していてまだ戻っていなかった。二日に一度やって来る家政婦のミセス・グレイは、シーツやクロス類を取り替え、ランチハウスを塵一つなく磨き上げた後、満足気に帰って行った。厨房では、数十人分のカウボーイ達の夕食作りに余念がない。

 サマンサはその時マシューと共に部屋で、退屈凌ぎ用にと昨日シティで購入してきたペーパーバックや雑誌を、見るともなしに眺めていた。
 自分の名を呼ぶ声に階段を降りて行くと、見知らぬ眼鏡の男が、玄関ホールから自分を値踏みするように見上げている。この暑い日差しの中、牧場を訪問するには場違いな服装だ。

 いやな予感に心臓がはね上がった。それとも自分は、この時を待っていたのだろうか。
 無言で見つめ返しているサマンサに、男は愛想笑いを浮かべると、握手を求めて近付いてきた。

「ミズ・サマンサ・バークスですね? わたしはニューヨークの弁護士事務所から来ました。チャールズ・リンドマン、弁護士です」

 差し出された名刺を受け取り眺める。背筋に冷たいものが走った。じっと立ち尽くしているサマンサに、更に追い討ちをかけるように、男は穏やかな表情で丁重に告げた。

「今日は、ミスター・マロリーの代理人として伺いました。少々お時間を頂きたいのですが」

ああ、ついに……。来るべきときが来たのだ。あのレストランでの出会いの日から、どんなにもがいても、これを回避する術はなかったような気がする。

 目眩がしそうだったが、気丈に持ちこたえ黙って肯いた。今は人気もないハウスの中を応接室に案内する。
 暑さに彼がハンカチで額を拭うのを見て、冷房を入れ、冷たいレモネードを持ってきた。彼女は、至極ゆっくり動いた。まるで聞きたくないことを聞かなければならない瞬間を、少しでも後に伸ばそうとするように。

 折も折、二階からマシューが母親を呼びながら走り降りて来る音が聞こえた。突然部屋から消えたので、探しに来たのだ。
 彼女の顔色が変わるのを見て、リンドマンは一瞬、にやっと笑った。

「あれが、例のお子さんですな?」
 確認するように彼女の表情を見て問う。サマンサは弁護士を睨み付けたが、覚悟を決めて椅子から立ち上がると、マシューを連れて部屋に戻って来た。

 子供をしっかりと抱き締めたまま、顔を強張らせてソファに腰掛けた彼女と子供の顔を、弁護士はしばらくうなずきながら見比べていた。やがておもむろにブリーフケースから、書類の封筒を取り出し彼女の前に置く。
 だが、手に取ろうともしない様子を見て、自ら中を探って該当書類を引き出すと、見やすいように広げて見せた。

「ミスター・マロリーがニューヨーク州裁判所に出された、親権確認および子供引渡裁判の訴状です。昨日提訴されました。これをあなたにご送達しなければなりませんでしたのでね。そしてこちらが裁判所からのあなたへの呼び出し状です。応じられますか? 応じられない場合は、欠席裁判として、不利な扱いをお受けになるかもしれません」

 それではどの途、マットに有利に事が運ぶだけではないか。まるで袋のねずみになったようだ。クリフとこの牧場まで巻き込んでの今までの苦労も、完全に水の泡だ。
 ぼんやりした頭でこう考えながら、引きつった顔にかすかに皮肉な笑みを浮かべた。
「哀れな母親には、選択の余地もないんですか?」
「もちろん、ありますとも」 
 相手は満面の笑顔でこう答える。サマンサはその顔に飲み物をぶちまけてやりたいと思った。
「ミスター・マロリーは、あなたのことも案じておいでです。できれば、こんな泥試合でなく、あなたとの話し合いによる解決を望んでおられます」
「『案じておいで』が聞いて呆れるわ!」

吐き捨てるように言うと、彼女はマシューを強く抱きしめて、弁護士に向かった。
「今さら出てきて子供を渡せだなんて、とても信じられない話だわ。わたしは四年前に彼に騙されたんです。話ならあの時ついたはずよ。それでも飽き足りなくて、今度はまた子供の父親の顔で現れ、この子を奪い取ろうだなんて、あの人にそんな権利はカケラもないわ!」
 つい声が高くなる。

「ですが、それはあなた御自身もお認めになっておられると思いましたがね」
こう言いながら弁護士は、マシューの出生証明書のコピーを示して見せた。彼女は悔しさに唇を噛み締めた。
「あなたはミスター・マロリーに、子供のことを一言も申告されなかった。もし申告されていたら、違った対応を取ったに違いないとおっしゃっています」
「卑怯者!」
「結構ですがね。それでどうなさいますか? お話し合いに応じられるか、裁判に応じられるか、無視されるかの、三者択一になりますな」
「でも、もし無視したら、欠席裁判になるんでしょう?」
 不覚にも声が震えてきた。今までの会話だけでもう疲れきってしまった。意地でも弱さを見せまいと懸命に頑張っていたが、どうやら精神的に限界が近付いていた。マシューが「ママ?」と不安そうに小さな手で、サマンサの顔に触れる。
「そうです」
「それなら選択の余地なんて、全くないも同然じゃないの!」

 彼女は、思わず大声を出した。シングルマザーに裁判に応じる余裕などあるはずもない。それを見こした上でのこのやり口だ。腹が立ったが、彼に対抗するには自分はあまりにも無力だった。


 長い沈黙が続いた。しっかりして。何か返事をしなければならないのよ。でも一体どうすれば……。
 サマンサは唇を湿した。時間稼ぎに目の前の書類を取り上げて読もうとするが、英語のはずなのに書いてあることがさっぱりわからない。
 うかつに返事をして、取り返しのつかないことになったらどうしよう?
 弁護士は椅子の背にもたれたまま、余裕の表情で、こちらを眺めている。


 そうしているうちに、時間がどのくらい過ぎたのかわからなかった。
 ふいに聞こえた車の音に彼女は、はっと顔を上げた。窓からランチハウスの道に入って来るメタリックシルバーの車体が見えた。クリフがシティから帰ってきたのだ。

 その瞬間、サマンサは緊張がすっと引いて行くのを感じた。自分が彼の帰りをどんなに待っていたか、その時初めて分かった。クリフはランチハウスの脇に停められた、見慣れぬレンタカーに気付くに違いない。そうしたらきっと、ここに来てくれるだろう。


 廊下に足音が聞こえ、ノックも無しに突然応接間のドアが開かれた。
 そこに立つクリフを見た途端、彼女は思わず涙ぐんだ。サマンサもはじめて見る、オーダーメイドのグレーのビジネススーツをぴったりと着こなし、いつもは風に吹き散らされているダークブロンドの髪も、きれいに梳かされている。
 今の彼は、どう見てもランチャーと言うより、やり手のビジネスマンだった。

 彼はまず向かい合って座っている二人に、それから書類が広げられたテーブルに目をやり、最後にもう一度、サマンサの蒼白な緊張しきった顔を見た。つかつかと室内に入ってきた彼が発散させている、抑制された怒りの気配に、傲慢な弁護士も一瞬たじろいだように見えた。

 クリフはサマンサの横にドサリと腰を下ろし、冷たい青い目を弁護士に向けて、ゆっくりと口を開いた。

「わたしは当牧場の責任者、クリフォード・オースティンです。誰の許可を得てこの敷地内に入られましたか?」
「いや、それは…。実は事務所でどなたにもお会いできなかったのです。だが、わたしにはミズ・バークスに是非ともお会いしなければならない、重大な用件がありましてね」

 一瞬の動揺の後、弁護士は形勢を立て直した。口早にサマンサにしたのと同じ自己紹介を繰り返し、当然の権利と言うように、裁判所からの書類を示して、文面を読み上げ始めた。

 クリフは黙ってそれを聞いていたが、やがて低い声でこう問いかけた。
「それで、彼女にどうしろというんだ?」
 弁護士はしてやったりとばかり、先ほど提示したのと同じ選択肢を告げる。

クリフは少しの間考えていたが、やがてはっきりとこう答えた。
「ミズ・バークスは、その裁判をお受けすると思いますよ」
サマンサがはっとして彼の顔を痛いほど見つめた。彼女は違う選択肢――話合い、に応じるつもりでいたからだ。
 マットと真っ向から戦うと言うのか? そんなことをしても、勝訴できる見込みは、薄いのではないだろうか。
 だがクリフは、彼女の不安げに見開いた目に、優しく微笑みかけた。
「大丈夫だよ」
 彼の大きな右手が、緊張し膝の上で握り締められているサマンサの両手を、優しく包み込んだ。

 弁護士もあっ気に取られたようだった。だが瞬時に気を取り直して彼女の方に向き直った。
「いや、返事をお聞きしなければならないのは、ミスター・オースティンではなく、ミズ・バークス、あなたの方だ。先に申し上げたとおり、ミスター・マロリーは話し合いによる、穏やかな解決を一番に望んでおられるのです」
「いいえ、彼に裁判をお受けすると伝えて下さい」

 サマンサはクリフの目を数秒間見つめた後で、きっぱりとこう答えていた。答えながら自分でも驚いてしまう。弁護士は苦々しい顔で、手続きの手順と、第一回審理の日時を伝え、自分の連絡先を示して帰っていった。


 弁護士の車を見送った後、二人は再び応接間に戻った。

 クリフはソファに座って、しばらくの間テーブルの上に広げられた書類をいくつか手に取って読んでいた。大人達の緊張をよそに、マシューだけが元気にカーテンの陰やテーブルの下を出入りして遊んでいる。
 サマンサは傍らに立って、そんな子供をぼんやりと見ていた。

 ふいに、マシューが小父さんに駆け寄って、抱きつこうと手を伸ばした。
 クリフは顔を上げ、優しく微笑んで子供を腕に抱き取った。日に焼けた大きな手が、マシューの黒髪をゆっくりと撫でている。
 サマンサはふいに涙が出そうになり、慌てて込み上げてきた熱い固まりを飲み下した。泣くのはあとで部屋に戻ってからいくらでも泣ける。

「どうするつもりなの……? 訴訟を受けて立つだなんて。わたしには弁護士を雇う費用すら作れない。きっと勝てないわ」
 サマンサは、暗い目を彼に向けた。
「確かに今のままなら、勝算は薄いかもしれないがね」
「どういうこと?」
「わからないかい?」
 そう言いながら彼女を見上げるクリフの顔に、昨日とうって代わったような、さわやかな笑みが広がった。サマンサの好きな、いつものクリフの笑顔だ。思わず心臓が高鳴る。だが何のことかは、さっぱりだった。

「わからないわ。わたし昔からミステリーは苦手なのよ」
 困惑したように顔を見返すと、クリフは落ち着き払ってこう答えた。

「君が僕と結婚すればいいのさ」



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