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 再び沈黙が流れた……。

 既に日は西に傾き始め、夕日がカーテン越しに、まぶしく部屋に差し込んでいる。

 呆然としているサマンサの横で、クリフは子供を床に優しく抱き下ろすと、いとも平然とした様子で、スーツのジャケットを脱いでソファーの背に掛けた。さらにネクタイを緩め、ワイシャツのカフスボタンをはずすと、袖を肘まで捲り上げた。日焼けした逞しい腕が現れる。

 サマンサは、クリフを信じられないという目で眺めていた。人生の一大事を、食事に誘う時と何ら変わらないことのように、あっさりと口にするなんて。きっと自分の耳がどうかしてしまったに違いない。あるいは彼が、たちの悪い冗談を言っているのだ。

「聞こえたかい?」
 彼女が何も言わずにただ突っ立っているのを見て、クリフは眉を上げ、重ねてこう問い掛けた。
「……聞こえてるわ。面白いジョークよね。でもクリフ、今は冗談を聞くような気分じゃないのよ」
 たっぷり一分以上の間をおいて、ようやく顔に弱々しい微笑みを浮かべ、サマンサは彼の向かいに置かれた椅子に、へたり込むように腰を下ろした。
 全身の力が抜けてしまったようで、とても頼りない感じだ。それでも彼女の神経は、彼が自分の一挙一動を、注意深く見守っているのを痛いほど感じ取っていた。

「いや、ジョークじゃない」
 落ち着き払った声がした。見上げると射るような深いブルーの眼差しが彼女をしっかり捕らえた。彼の表情は思いがけないほど真剣だった。
「君がマシューのことでマロリーより弱い点があるとしたら、それは経済力の問題ときちんとした家庭がないということだ。僕はこの二つを一度に解決できる唯一の方法を、君に提案しているのさ」
「あなた、本当にそのためにわたしと……、結婚……までしようって言ってるの?」
 信じられないと言いたげに大きく見開いたブルーグレイの瞳。
 その声がだんだんと、消え入りそうにかぼそくなっていった。
「そうだ、と言ったら?」
「とんでもないわ! 絶対にだめよ!」
 サマンサは大きく頭を振って、再び立ち上がった。そのまま落ち着かなげに室内を歩き回りはじめる。マシューがびっくりしたように動きを止めて、母を見上げべそをかき始めた。慌てて抱き上げてあやしながら、サマンサは自分がどうすべきか、考えをまとめようと必死になった。
 クリフは黙ってそんな彼女を見つめている。精一杯落ち着こうと努めながら、彼女はまた口を開いた。

「ねえ、クリフ……。わたし達のためにそこまで言ってくれて、本当にありがたいと思うわ。でもあなたがわたし達のために、そこまでしなければならない理由は一つもない。何一つね。今まででも、もう十分迷惑をかけているのに、これ以上あなたを巻き込むなんて、とてもできないわ。あなた、自分ではわかっていないみたいだけど、あなたにならどんな名家のお嬢さんでも、夢中になるのよ。そんな同情心でわたしなんかと結婚しなくても、どんな素敵な女性とでも、素晴らしい家庭を持てるんだもの」
 こう言いながら、胸が激しく痛んだが無視することにした。
「同情心?」
 クリフの目が細められ、表情が険しくなった。マシューが落ち付いてきたので再び下に降ろすと、サマンサはようやく重い気持を奮い立たせた。
「わたし、やっぱりニューヨークへ行ってマットに会うわ。そして何としてもこの牧場とあなたから手を引かせる。本当に最初からそうすべきだったのに」
「今突然、そうしたくなったのか?」
 さっと声が緊張した。彼女がその変化に気付く間もなく、突然ソファから立ちあがったクリフの大きな身体が、サマンサの前に立ちふさがった。
「ここが退屈で我慢できないから、あいつの所に行きたくなったのか? そしてあいつと一緒に暮らしたい?」
「まさか! そんなはずないでしょ!」
「だったら、そんなことは絶対にだめだ!」
 サマンサがまだ言葉を終えないうちに、肩をつかまれぐっと引き寄せられた。気がつくと彼の腕の中にいた。クリフの両腕に包み込まれ、その男らしい胸に頭を預けた時、サマンサは我知らず身体が震え出すのを感じた。自分が女であることを、そして自分の弱さをどうしようもなく意識させられてしまう。

 それはクリフも同じだった。彼女の細い柔らかな身体をぴったりと抱き寄せながら、大きく一つ息を吸い込んだ。自分の腕の中で緊張した身体がピンと張り詰めているのが感じ取れる。声が思わずかすれた。

「僕がむざむざと君を行かせると思うかい? 今頃そんなことになるくらいなら、最初から手出しなんかせずに黙って傍観していたさ。もちろん君が、ここに居るのに嫌気がさして、ニューヨークの大都会に住むあいつの所へ、行きたくなったのなら話は別だけどね」
「そんなこと、ありえないわ」 
 彼女が弱々しい声で呟くと、その答えを聞いて、クリフはほっとしたように少し手の力を緩めた。

「サマ……、僕と結婚しないか?」
 サマンサの瞳をじっと見つめながら、もう一度、今度はやや緊張したようにこう言った。
「僕は君のこともマシューのことも、とても大切に思っている。本当はこんなことになるずっと前から、僕は君達と本当に家族になって、ずっと一緒に暮らしていけたらいいと思っていたんだ。牧場の仕事は目が回るくらい忙しいし、僕も働き通しだ。それにここはご覧の通り牧場しかないから女性にはとても退屈だろうし、この実用的なランチハウス以外、君が夢見るようなものは何一つない。だけど僕は君達を、精一杯守りたいと思うよ」

 彼の腕の中で黙って聞いていたサマンサの瞳が、驚いたように大きく見開かれた。
 飾らない心のこもったプロポーズの言葉には、クリフの誠実な思いが溢れている。だが彼は、一番大事なことを見落としているのではないだろうか。

「でも……、結婚生活ってそれだけじゃないはずよ。たとえば……」
「たとえば?」

 どうしてこの人の腕の中は、こんなに気持がいいのだろう? 何もかも忘れて全てを委ねてしまいそうになるくらい。サマンサはおぼれる前に、その抱擁から何とか身を引こうとした。こんな風に離さないというように抱きしめられていては、彼に愛されていると誤解して、期待してしまいそうになる。それが一番怖かった。
 サマンサは答えにためらい口ごもった。どう言えばいいだろうと言葉を探しているうち、彼女の気持を見透かすように、いともたやすくクリフが口に出した。
「ベッドとか?」
はっとして見上げると、彼は口元にいたずらっぽい微笑をたたえている。
「最近の僕らの経験によれば、それも悪くないんじゃないかな。君はどう思う?」
 身を引きはなそうとした途端、回されていた彼の腕に更に力がこもった。
「動かないで。君の返事を聞かせてくれないか」
 サマンサの顔を覗き込むように問いかける。頬が赤らむのを感じ、思わず目を伏せてしまった。呟くような声で答える。

「本当に……本気なの? 牧場がこんなことになって、厄介に思われてると思っていたわ。あなたが後悔してるんじゃないかって、とても心配だった」
「本当に、本気さ。後悔なんかしていない」

 短いがきっぱりした答えを聞いた途端、もう止めようもなく涙が溢れて来た。クリフはそれを指先で拭ってやりながら、彼女が自分の前で泣くのはこれで二度目だと思い出した。
 一度目はマットが突然やって来た夜だった。初めて抱き合って眠った一昨日の夜以来、どうにか自制していたサマンサへの愛しさと欲望とが、自分の身体の奥から再びうねるように突き上げて来るのを感じた。彼は唇を重ねようと、片手で彼女の顔を上げさせた。

「キッスするの?」

 その時、二人の下から無邪気な声がした。マシューが足元に立って不思議そうに見上げている。クリフはぎくりとしたように慌ててサマンサを離した。一瞬の沈黙の後、二人の顔に同時に笑いが広がった。

「結婚するね」
「ええ」
「だったら早い方がいい。できれば明日にでも簡単な式を挙げよう。それから弁護士を頼んで本格的にこの訴訟の対策を練らなくてはならない。こうなれば僕も単なるオブザーバーではなく、れっきとした当事者になるわけだからね。ところで、急な話だけど準備は何とかできそうかい?」
「ええ、大丈夫だと……思うわ」

 幸福感が津波のように押し寄せ、まるで夢の中にいるように、身体がふわふわ浮き出してしまうのではないかと思った。囁くような自分の声が答え、クリフの顔に満足そうな表情が浮かぶ。彼は足元にいたマシューを抱き上げた。

「僕が君のパパになるよ」
 そう言いながら両腕で高く差し上げる。マシューの甲高い笑い声を聞きながら、サマンサはまだ信じられない思いで、この世で最も大切な二人を、交互に見比べていた。



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