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 部屋に戻ってからもサマンサはまだ興奮していた。
 彼女がプロポーズを受けてからのクリフの対応は迅速だった。すぐさまカンザスシティの市役所に電話を入れ、必要な結婚許可証を大至急発行してもらうべく職員に掛け合った。翌日中には何とかなりそうなことが分かると、今度は家政婦のミセス・グレイに電話し、慌ただしくてすまないが、と断った後、牧場で簡単に披露パーティをやるための手配を頼んだ。
 ミセス・グレイは驚きつつも、二人に心からの祝いを述べ、準備も喜んで引き受けてくれた。


 まだ実感が湧かなかった。思いがけない彼からのプロポーズを受け、しかも明日とは言わないまでも、明後日には本当にクリフの妻になろうとしているのだ。彼の行動力に驚きながらも、寸分の迷いもない青い目を見ていると、心に幸福感が溢れてくる。
 その夜は長い間寝付かれなかった。これは一晩眠って起きてみたら覚めてしまう、束の間の夢ではないのだろうか。
だが、そのたびに抱きしめてくれた彼の腕の温かさを思い出す。彼の言葉を幾度も心の中で反芻し、そのたびにこれは現実なのだと喜びを新たにするのだった。

 両親に電話をかけようかと思ったが、やめておいた。今突然、結婚の話をすれば、マットとのこの一連の問題も話さなければならなくなるかもしれない。それよりは全て終って、完全に落ち着いてから報告した方がいいだろう。その時には、両親とも和解できるかもしれない。



 翌朝、まぶしい陽射しが部屋に差し込む頃、部屋にそっとノックがあった。
 サマンサが急いでベッドから出てドアを開けるとクリフが顔を覗かせた。ジーンズと洗いざらしの古いシャツを着ているところを見ると、朝の仕事に出かける前なのだろう。
 彼はドアを閉めるなり、寝間着姿の彼女をきつく抱き締めた。
「おはよう。今朝になって気が変わってはいないだろうね?」
 つややかな唇に熱いキスをして、彼女の目を覗き込む。
 微笑む口元と裏腹に、ブルーの目に浮かぶ火花を見て取って、思わずサマンサの顔に笑みがこぼれた。
「もちろんよ。あなたこそ一晩眠って冷静になってみたら、どんなお荷物を引き受けようとしているのか分かって、ぞっとしたんじゃない?」
「そんなことは絶対にありえないね。僕の身が持つ限り喜んでお引き受けするさ。さて、それじゃ今日は忙しくなるぞ。朝食後支度したら出かけよう。判事に式の予約を入れる前に、色々面倒な手続きをすませてしまわなくちゃならないからね。マシューはおいて行っても構わないかな? ミセス・グレイが引き受けてくれるそうだから」
「まあ、そう。ありがとう」
「じゃ、あとで、食事の時に」
 クリフは再び彼女の頬に軽くキスして、階段を降りて行った。



 朝食後、二人は彼の車に乗ってシティに出かけた。クリフはピンストライプのカッターシャツとベージュのスラックス、サマンサはシンプルなオフホワイトのサンドレスを身につけている。
 まず血液検査を済ませてから、市役所の窓口に行って必要事項を記入し提出すると、結婚許可証が程なく発行された。
「おめでとう、お幸せに」 
 係りの男がウィンクしながら手渡してくれた書類を持って、建物から出て来た時、二人の顔には微笑みが浮かんでいた。

「こんなふうになるなんて、思ってもみなかったわ」ビュッフェに入り昼食を摂りながら、サマンサが満足げにため息をついた。
「マットにお礼を言いたい気分よ」
 クリフがからかうように眉をあげた。
「これからうんざりするような裁判が待っていることを思えば、それはまだちょっと早いんじゃないかな。だが、これで明日結婚式を済ませれば、問題はほとんど片が……」


 その時、外に駐車していた彼の車の方から、どなるような大声が聞こえて来た。店内でウエイトレスがトラブルになった車のナンバーを読み上げている。振り向いたクリフは怪訝な顔で立ち上がった。
「僕の車じゃないか。一体どうしたって言うんだ? ちょっと見て来るよ」
 そう言い置いて、彼は出て行った。


 心配そうに窓から車の方に目を向けていたサマンサの傍らに、背後から突然、見知らぬスーツ姿の男が立った。サングラスをかけているため、人相はわからない。
 ぎくりとする彼女に、男は耳元で低くささやいた。
「ミズ・バークスですね。ミスター・マロリーのご命令により、明日ニューヨークまでご同行願います。さもないとミスター・オースティンの牧場は、あと一週間以内にお終いですよ」

 瞬時に青ざめた彼女の顔を見て、男はほくそえむように付け足した。
「ボスは本気です。あの方が本気になったら、あんな牧場の一つや二つ、数日で干上がります」
「マットなの? あの人がわたしをさらうっていうの?」
 男は口元に薄笑いを浮かべた。
「さらうなどとは、とんでもない。あなた御自身の意志でお出でくださるはずですよ」
「……お断りよ。もう二度と会いたくないわ。絶対に、行くもんですか」
「おやおや、もう一度ボスの伝言を、繰り返す必要がありそうですね」
「わ、わたしにどうしろっていうの?」

 段々と息が詰まり、かろうじて歯の間からこれだけ声が漏れる。
「誰にも見つからないよう、子供を連れて今夜午前二時、Mt−R牧場の南端のゲートまで出て来てください。今夜の午前二時、もちろん他言は無用です。よろしいですね」

 男は、青ざめ口も聞けずにいるサマンサを威圧するように数秒間無表情に凝視した後、ドアから足早に立ち去って行った。

 ああ、神様……。

 残されたサマンサは息もできずに、その悪夢のような後ろ姿を呆然と見送っていた。

 耳元で全ての希望が粉々に砕け散る音が、聞こえたような気がした。



 クリフが駐車場から戻ってきた時、サマンサは表情を固くしたまま、テーブルの食べ掛けの皿を見つめていた。
「どうしたんだい?」
 不信そうに眉をひそめるクリフに、サマンサは引きつった笑みを浮かべて見せた。今あったことを彼に気付かれてはならない。絶対に。

「いいえ、何でもないわ。それより車がどうかしたの?」
「いや、とんでもない言い掛かりをつけてるとしか思えなかったね。全然筋が通らない。一体何だって言うんだ? おかしな男だ」

 やはり……。サマンサはもう完全に食欲を失い、最後に出されたコーヒーも一口すすっただけで、席を立った。クリフが怪訝な顔で見上げている。

「何かあったのか? ひどい顔色だよ」
「ええ、ちょっと突然気分が悪くなってしまったの……。食当たりかもしれないわ。悪いけど、もう牧場に帰ってもかまわない?」
「本当に?」
 彼は不信そうに見つめながら、少し身体がふらつく彼女を車まで支えて慎重に歩いて行った。ようやく乗り込んでしまうと、頭をシートにもたせ掛け、ぐったりと目を閉じている。
「大丈夫かい? あの店でそんなおかしな物が出るとは思えないが、君に合わないものでも食べたのかもしれないな。医者に行こう」
「いいえ、少し休めば平気よ。お願い、早く牧場へ戻ってちょうだい!」

 目に涙を浮かべて懇願するサマンサに、クリフは表情を曇らせて車を出した。途中で、大丈夫だと抵抗する彼女を強引に引っ張って、内科医の診察を受けさせる。
「奥さんは、何か強いショックでもお受けになったようですな」
 医師は簡単に言って、処方箋を書いてくれた。薬をもらい、牧場へ向かう。その時ですら、一言も口を開こうとしないサマンサに、クリフはついに業を煮やし、ハイウェイから降りてすぐに車を停めると、彼女に向き直った。

「どうしたんだ? どうして何も言わない?」
「………」
「サマ! いったい何があったんだ?」
 クリフの声が段々と切羽詰まり、彼女の両肩を掴んで激しく揺さぶった。
 だがどんなに聞かれても言えるはずがない。言えばマットは今度こそクリフの牧場をつぶしてしまうだろう。
 もうこうなれば、自分に残された選択肢は一つしかない……。

 目を閉じて黙って首を振るサマンサに、クリフの苛立ちは激しく募っていった。だが、当人が頑として口をつぐんでいるのを見て、今はどんなに聞いても無駄だと分かった。
 何か見たのか? まさかマロリーの奴が来ている? いや、それは可能性としては低そうだ。それなら……。
 あれこれ考えを巡らせても、結局は憶測にすぎない。
 だが自分が席をはずしていたあの僅かな間に、決定的に何かが変わり、彼女はぱったりと心を閉ざしてしまった。

 突然のもどかしくやり切れない事態に、彼は苦いため息をついて、ゆっくりと彼女の肩から手を放した。
 Mt−R牧場に到着するや、心配そうなクリフの視線をさけて、彼女は部屋へかけ上がって行った。ドアを閉めた途端、それまで懸命にこらえていた涙が一度に溢れ出す。彼女はドアの前にくずおれ、声を殺して泣き始めた。

 追いかけてきたクリフは、ドアの外で呆然と突っ立ったまま、その泣き声を聞いていた……。



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