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 午前二時前、サマンサはぐっすりと眠る我が子を、愛情を込めて見つめていた。

 時間は刻々と容赦なく過ぎ去って行く。もう行かなければならない。
 涙が止めようもなく溢れ、どうすることもできなかった。たとえ僅かな間でも、この子から完全に離れなくてはならないのは、身を切られるように辛かった。
 だが、この子をマットの手に渡す危険は絶対に侵せない。連れて行くことができない以上、息子を安心して預けられるのは、クリフしかいなかった。

「マシュー、ほんの少しだけ、ここでいい子にして待っていてね。ママは必ずあなたの所に帰ってくるわ」
 呟きながら丸い小さな顔に頬を寄せ、額に頬に顔中にそっと幾度もキスする。
 既に傍らのバッグに、小さな荷物がまとめてあった。僅かな着替えと化粧品、お金などだ。どれくらい時間がかかるか見当もつかないが、決してマットの言いなりになるつもりはない。彼が何を言おうとどうしようと、あきらめるまで、持ちこたえるしか道はない。
 まさか、殺されはしないだろう。

 クリフには簡単な手紙を書いた。朝になったら見つけてもらえるように、マシューの枕の横のサイドテーブルに置いた。二度愛し合った後、クリフはサマンサが何も言わないと決意しているのを見て取ったように、黙って衣服を身につけると、夕食に降りて来るように、とだけ言い残して部屋から出て行った。
 それきり、彼には会っていない。だが、それでよかったのだ。
 例え何が起こっても、もう自分の心は決して動きはしない……。

 さあ、いよいよ戦いに望まなければ。これまで向き合うのを避けてきた忌まわしい過去と、今こそ決着をつける時だ。着ているコットンパンツとノースリーブのシャツブラウスの上に、パンツとおそろいのジャケットを羽織ると、サマンサはもう一度息子を振り返った。
 安らかな寝顔を瞼に焼き付けるようにじっと見つめ、身を切られるような思いで部屋から出た。ドアを閉めると、息を殺して奥のクリフの部屋の様子を伺う。彼は自分の様子がおかしいと気付いていた……。

 だが、暗い廊下は物音一つなく静まり返っている。
 ほっとして、窓から差し込むかすかな月の光を頼りに、足音を忍ばせそっと階段を降りて行った。ようやくエントランスまで辿り着き、外へ続くドアに手を伸ばす。


 その刹那だった。パッと頭上の灯りが点いた。はっとして反射的に振り返ると、ジーンズにシャツ姿のクリフが、ホールの向こうから怒りに燃える眼差しで、こちらを睨み付けていた。
 こんなに怒り狂った彼を見るのは初めてだった。

「何のつもりだ、サマンサ、君は!」
 嵐の前の緊張をはらんだ静かな低い声が、彼女の耳に突き刺さる。獲物を追いつめたライオンのように、彼はゆっくりとこちらに近付いて来た。
 今捉まるわけにはいかない! 咄嗟にドアノブをひっ掴むと、開いたドアからころがるように外へ飛び出した。月明かりの中、ゲートに向かって闇雲に駆け出したサマンサを追って、クリフが猛烈な勢いで外へ飛び出して来る。サマンサは夢中で走ったが、所詮彼の相手にはならなかった。
 ランチハウスから少し離れた私道の上で、両手を取られ無理矢理振り向かされる。はずみに手にしていたバッグが地面に滑り落ちた。
 両手首を締め上げるように掴まれ、痛さに思わず喘ぎ声が漏れた。

「痛いわ……」
 顔を歪めてすすり泣くような声で囁く彼女に、クリフは掴んでいる手の力を少しだけ緩めた。二人は荒い息をつきながら向き合った。
 淡い月明かりの中、クリフが歯を食いしばって、何とか激情をセーブしようとしているのが感じられる。

「クリフ、お願いよ……。手を放して」
「どこへ行くつもりだった?」
「だめなの、わたし行かないと」
「だから、どこへと聞いてる!」
 ぎりぎりの忍耐。思わずきしるような声になる。
「……NYのマットの所よ。彼と会って話し合うわ」
「もちろん、そうだろうとも。だがどうして突然、そうしたくなった? こんな、黙って姿を消すような真似をしてまで」
「彼にどうしても会わなくちゃいけないの。お願い、クリフ」
 サマンサが顔を逸らしたまま、観念したようにつぶやいた。

聞かずもがなの返事だと、思ってはいた。それでも直接彼女の口から漏れると、やはり激しい衝撃が身内を貫いた。とっさに彼の顔が歪む。その答えを、彼女の口から――数時間前あれほど情熱的に自分に重ね合わせ、何度も愛の言葉を囁いていた、その同じ唇から――聞かされるとは……。
 彼は掴んでいた手首をさっと放した。

「やっぱり君は、あいつのことを……? ああ、それなら何故もっと早く言わなかった!? 僕らの関係がこんなに深みにはまり込んでしまう前に。それなら最初から、そう言えばよかったじゃないか!!」

 叩きつけるような言葉が彼の口から飛び出した。その声は痛恨の苦さに溢れている。
「違うわ! そうじゃない、そうじゃないの!」
 サマンサがたまりかねて激しく首を振って否定すると、クリフがさらに畳みかけるように大声でどなった。
「ならどうして、こんな夜の闇に紛れて、こそこそ逃げ出すような真似をしてるんだ? 説明してみろ。君は自分が何をしているかわかってるのか? 君一人で奴に会って、ちょっと話すだけで無事に済むと本気で思っているのか! 子供でもあるまいに……。それにマシューはどうする気だ? 僕達の結婚式は? さあ、答えてみろよ!」

 立て続けに問い詰めるクリフのハンサムな顔が、まるで苦痛をこらえるように歪んでいる。彼の全身から上っている冷たい炎に、サマンサは身体が焼き尽くされそうだった。

「だからこそよ!」
 我知らずサマンサの声も高くなった。その場に泣き崩れそうになって言葉を止め、一呼吸置く。二度深呼吸してからようやく、再び口を開いた。
「ごめんなさい。でも、そんなことぐらい分かってるわ。わたしが四年前のことを忘れたと思うの? いいえ、とんでもない。だから今まで決して会うまいと頑張ってきたのよ。何とか……」
「だったら、今更どうして?」
「でも、わたし、分かったの」 きっぱりした顔を上げて、彼を見つめた。
「明日という日を迎えるためには、昨日を整理しないといけないんだって。あの人とのことに完全に決着を付けてしまわなければ、わたしやっぱり……、あなたとは、どうしても結婚するわけにいかないんだわ。この先もこんなふうに、どこから飛び出して来るかわからない彼の影に脅えながら、日々を暮らして行くことなんて絶対にできないもの。そんな生活、始める前から破綻するのが目に見えているわ」

 一瞬、クリフの目が細められた様な気がした。
 しばらく沈黙した後、再び彼は強く彼女の両肩を掴んで引き寄せた。漠然と察したのかもしれない。少し気持が落ち着いたように、その口調も穏やかになっていた。

「そんなことはないんだ……。それに奴に会うなとは言っていない。だが、君一人では絶対に駄目だ。会うなら結婚した後で、僕と一緒に行くほうがいいに決まってる。そして今度こそ、二度と手出しできないように、マシューのことも法的にきっちりと片を付けてしまおう。わかったね。だから今は家に戻るんだ」

 それ以上有無を言わさず、彼はうなだれるサマンサの肩を抱きかかえ、ランチハウスに戻ろうとした。


 その時だった。

 暗闇の中から一台の大きな車がライトもつけずに、二人の方に猛烈な勢いで突っ込むように走って来た。反射的に、クリフはサマンサの肩を抱いたまま道の脇に身をかわす。少し先に急ブレーキをかけて止まった車から飛び出してきたサングラスの男は、突然クリフを力一杯殴り付け、隣で呆然として声も出ないサマンサの胴を掴んで引き立てた。

「畜生! この女……。面倒な真似をしやがって」
 耳元で荒々しく毒づく声がした。
「何をする!」
 すぐさま態勢を立て直し、クリフは反射的に男に手をかけた。その腕を掴んで引き倒す。一緒にサマンサの身体も再び地面につんのめった。闇に悲鳴が上がった。屈強な二人の男は取っ組み合い、激しい殴り合いを始めた。打ち合う胸も悪くなるような音が聞こえる。やがて先によろりと身を起こしたのは、どうやらクリフのようだった。
 彼は侵入者を打ち倒し、激しく息をあえがせながら立ち上がった。近付くと目元が腫れかかり、切れた唇の端から血が出ているのがわかった。彼はまだ呆然と跪いていたサマンサの手を取って助け起こし、かすれた声で命じた。
「ランチハウスに戻って、電話でジョーとカウボーイ達をここへ呼ぶんだ。それからシティの警察に通報してくれ。早く!」

 彼女が肯いて走りだした矢先、地面に這いつくばっていた男の手元で轟音と共に拳銃が火を吹いた。
 突然背後から銃弾を浴び、左腕がちぎれるような衝撃を受けて、クリフはよろめき、がくんと膝を突いた。
 その瞬間、サマンサはまばたきもできなかった。たった今何が起こったのかよくわからない。振り返って肩を押さえて膝をついたクリフを見るや、反射的に駆け戻ろうとしたが、走り寄ってきた男の手に遮られ、捕まってしまった。

「クリフ! クリフ!」

 サマンサは男の手から逃れようと、めちゃくちゃに拳で叩きながら絶叫した。だがやすやすと車の後部シートに押し込められ、外から遮断されてしまう。

 静かな夜空に突然響いた一発の銃声を聞きつけ、少し離れたカウボーイ宿舎のコテージに灯りが点った。たちまち騒然としたのが見て取れる。
 ばたばたと走り出て来る多くの足音を聞きつけて、男は激しく悪態を吐きながら急いで車を回転させると、アクセルを力いっぱい踏み込んだ。

 クリフは激痛の走る左腕を無事な方の手で押さえていた。吹き出すぬるぬるした熱い血の感触。最後の気力を振り絞り、必死で立ち上がろうとしたが、次第に頭の芯までしびれ、視界が霞み始める。黒い車の影は彼を嘲笑うように、全速力で牧場から遠ざかって行く。

 近付いて来る声と足音を聞きながら、ついに彼は意識を失い、その場に倒れこんでしまった……。