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ニューヨーク・マンハッタン

 ダイアン・マロリーはマンハッタンの西端、チェルシー地区十番街にあるギャラリーに出かけての帰りだった。
 後援している画家が個展を開くというので、招待状が届いていたからだ。
 一緒にイタリアン・レストランで昼食を済ませてから、車を回し、彼女が気晴らしを兼ねて開いている、五番街の高級ブティックに向かう途中だった。

 夕方になったら学校まで甥のトニーを迎えに行って、今週末を一緒に過ごすつもりだった。この妹の次男と自分はとても馬が合う。聞き分けはいいし、手間もかけない。すっきりと整った顔立ちと洗練された物腰。髪と瞳の色も彼女と同じで、違和感なく親子として通るくらいだった。
 以前から会いに行くたびに、我が子にできたらと考えていた。既に妹夫婦も本人も了解している。
 マロリーと結婚した後も、ダイアンは実家であるフレッチャー家には頻繁に行き来していた。大銀行のオーナーであると同時に、コンチネンタル・エンタープライズの大株主の一人である彼女の父親の影響力を前にしては、さしものマット・エイモスも、この妻には干渉せず黙認していた。
 いや、無関心だと言った方が適切かもしれない。


 既に二人の仲は冷え切っていた。そもそも最初から、恋愛沙汰で一緒になったわけではない。フレッチャー氏の紹介と熱烈な後押しにより14年前に結婚したが、食べ物の好みも趣味も合わなければ、週末の過ごし方も違っていた。
 マットがニューヨーク郊外モントクレヤーにある豪邸を出て、エンタープライズ・本社ビル最上階のペントハウスに移った時すら、彼女は何とも思わなかった。むしろこれで好きに室内の模様替えができると、気持が清々したくらいだ。
 二人の別居は一時新聞のゴシップ欄を賑わせたが、当の本人達は気にかけてもいなかった。
 どこの誰と付き合おうと、お互いやりたいことを自由にすればいいのだ。巨大な企業利益が絡むため、離婚という選択肢がない二人には、それが暗黙の了解になっていた。



 パーキングに車を停めて、三時間前から開店している瀟洒なブランド・ブティックのオフィスに入っていくと、マネージャーのヘレン・ブルックが奇妙な面持ちで彼女に目を向けた。
「少し来るのが遅くなったかしらね、でも何も問題はないでしょう?」
 ダイアンの快活な問いに、ヘレンは黙ってコンピューターの画面を差し示した。何件かメールが入っている。
「何か連絡でも?」
 彼女が覗き込むと、ヘレンはすぐさま一通のメールを開いた。それを読んでいるうちに、ダイアンがいぶかしげな表情になった。
「何ですって? これは一体どういうこと? 差し出し人は誰?」
「さあ、それがわからないんです……、初めて見るアドレスですから。まあ、いたずらでしょうけど。ご主人と付き合いのあった女の一人かもしれませんし。それにしてもねえ、なんて突拍子のない話でしょう?……まさかご主人にお子さんが……」
「まさか。たちの悪い冗談でしょう、ほうっておいたら……」

 首をすくめてそう言いかけ、ふとダイアンは先日オフィスで会った時の夫の様子を思い出した。トニーに対する彼の態度が、今までになく釈然としなかったのは事実だった。何か隠しているとも受け取れた。あの時は単に面倒だからだろうと結論づけたのだが。

 しかし本当にまさかだ……。そんな話は一度も聞いたことがない。
 その時店に二人連れの客が入って来た。ヘレンが応対に出て行く。一人になったダイアンはモニターを眺めながら、考え込んでいた。静かな水面に石が一つ投げ込まれたように、彼女の心の中にゆっくりと、疑惑の波紋が広がり始めた。



 
エンタープライズ・ホテル 53階 スイートルーム


 部屋の窓から、ミッドタウンに連なる高層ビルを眺めていたサマンサは、背後で部屋のドアが開く音に、さっと振り返った。
 カジュアルだがいかにも高価そうなシャツとジーンズ姿のマット・エイモス・マロリーが立っている。窓際に立つ彼女を頭のてっぺんから足の爪先までじっくりと観察しているようだ。オリーブ・グリーンの上品なパンツ・スーツを身につけ、薄く化粧した彼女は、以前部屋で見た時よりも数段美しかった。彼は皮肉な微笑を浮かべ、ドアを閉めてゆっくりと室内に入って行った。


「君はニューヨークは初めてだろう? 本当ならミッドタウンでも案内したい所なんだが、いきなりホテルに直行になってすまなかったね。それはそうと、なかなかいいセンスだな。そのスーツは君の髪と肌の色を、とてもよく引き立てている」
 そう言いながらマットは悠然と室内に入って来ると、手にしたピンクのトルコキキョウの花束を、彼女の前に差し出した。ブルーグレイの瞳に浮かぶ激しい敵意にも、少しもひるむ様子は見せない。
「君にと思って持って来たんだ。この花が好きで、よく買ってやっただろう?」

 二人の以前の関係を仄めかすような言葉だった。だが今の彼女には、こんなゲームに付き合う余裕などかけらもなかった。目の前の花束を完璧に無視して、サマンサはマットを睨み付けたまま、緊張した声で口を開く。
「どうして、あそこまでしなくてはならなかったの?」
 怒りに、思わず声が震える。落ち着きを保つのがこれほど難しいと思うのは初めてだ。
「あの人には何の関係もなかったのよ。それなのにあれこれ裏工作して、Mt−R牧場を窮地に追い込んだ挙げ句、今度は彼を殺すつもりだったの?」
「関係ないだって? これはおもしろい」
 太く黒い眉を釣り上げて、彼は口元を歪めた。彼女に受け取るつもりがないのを見ると、花束を化粧テーブルの上に無造作に投げ出した。少しハスキーな声がゆったりとこぼれる。

「君はここまでの経過を無視してるのか? あいつは余計な手を出し過ぎたのさ。一介の牧場主風情が身の程もわきまえずにね。ターゲットの前に立ちふさがるなら、障害物とみなされ排除されても、文句は言えないと思うがね。自分や牧場のためを思うなら、相手をよく見てもっと注意深く行動すべきだよ」
 聞いていたサマンサの中に怒りの炎が燃え上がった。
「彼はわたし達を、あなたの手から守ろうとしてくれてただけだわ。わたしが彼の元に逃げ込んだから。もしあの人に万一のことがあったら……、あなたを絶対許さない!」
 その声にほとばしった激しい憎しみに、さしもの彼も目を細めた。口元からあざけるような微笑が消える。

「念のために教えておくから、安心したまえ。銃弾は肩をかすった程度だったらしい。奴の命に別状はないし、今はカンザス・シティの病院で手当てを受けているそうだ。さほど心配はいらないよ」
 彼の言葉に思わずほっとして、少し肩の力が抜けた。それを信じたかった。だが額面通り信じる根拠はあまりに薄いと考え直し、なおも鋭く言い募った。
「それは、わたしが確認します。牧場に連絡させてちょうだい」
「いいとも。君の返答次第では、今すぐそうしてもらっても構わないと思っているんだ」
「わたしの何ですって?」
「平たく言えば、君がマシューの親権を僕に引き渡すと言う書類に、サインしさえすればいい」
 マットはあっさり譲歩して、結論を先に提示した。
「わたしがそんなサインをすると思うの? 気が狂ってるとしか思えないわ」
「何故だい? 僕の方が君よりも、もっとよい生活環境と富をあの子に提供できると思うが。教育も十分に受けさせてやれるし、あの子も豪邸に住んでしたいことは何でもできる」
「そして、あなたのその素晴らしい道徳観念を植え付けるというわけかしら? 冗談じゃないわ。そんなくだらない話を聞かせるために、あんなご大層なことまでしたって言うの? 絶対にお断りします。さあ、返事はしました。帰らせて下さい!」
「そうせっかちに言い切るのは、まだ早いんじゃないかな? 僕の提案を聞いて、よく考えてみて欲しかったから、君達に会いたかったんだ。君が素直に僕に連絡して、自分でここへ来れば何一つ問題なかったものを、厄介なことになったのは、全部あの男のせいだろう? それは自業自得じゃないか」
「そうやって責任を摩り替えるつもり? だったら無駄だわ、マット。今度のことは何事もなく済むと思ったら大間違いよ。クリフは必ず警察に届けているはずだから」

 それは確かに少々面倒だな、と声には出さずに彼はちらりと考えた。
 この件に関して唯一の証人は彼女だが、今の調子では懐柔するのは少々骨が折れそうだ。だができないことはあるまい。またもや彼持ち前の傲慢さが頭をもたげてきた。女にノーと言われたことが今まであっただろうか。第一この女は自分の息子の母親なのだ。彼は両手を広げて、仕方ないさ、というジェスチャーをして見せた。

「もう一つ付け加えさせてもらえるなら、こっちとしても彼に危害を加える気など毛頭なかったんだからな。僕はただ君達を迎えに行くように指示しただけだ。そもそもオースティンの奴こそ、君がこちらに来るのを繰り返し妨害した上、僕の差し向けた運転手に先に手を出してきたそうじゃないか。その結果こんな不幸な事故になったとは、全く残念でたまらないよ」
 顔をそむけたまま、マットの言い分を黙って聞いていたサマンサだったが、再び唖然として彼に向き直った。

「繰り返し妨害? 先に手を出した? それに事故ですって? 図々しい。あの状況をよくそんなふうに言えるわね。わたしは見てたのよ。わたしを脅しつけた上、ご丁寧に武装までしていたくせに、ただの運転手ですって? 彼がわたしをさらおうとしたから、クリフは……」
「まあ、そこが見解の相違だよ」
 彼は言葉を切ってゆっくりした足取りで、奥の応接セットに近付いた。
「こんな話を、これ以上立ち話でするのもなんだろう? 君も座り給え。何だ、食事もとってないんだな。うちのホテルのシェフの料理は超一流だよ。まあ、食べてみたまえ。このワインはどうだい? 貯蔵室の秘蔵品を特別に運ばせたんだ」
 睨み付けているサマンサに、マットは笑顔で言い、料理を乗せたワゴンをテーブルの前に押して来た。

「焦ることはない。もつれた見解を解く時間はたっぷりあるんだ。今日はこの後ずっと君といられるように、スケジュールを調整させてある。話し合う時間は十分あるさ」
 サマンサの背筋を冷たいものが伝い降りた。途端に無力感に襲われそうになる。この男と二人きりで、この部屋に何時間も閉じ込められるのだろうか? 
 冗談ではない。例え彼が手出ししてこなくても、神経が参ってしまいそうな気がする。

 だが、出口は今の所見つからなかった。



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