nexttopmenu



16



カンザス・シティ

 翌朝、看護婦が来て手術跡の消毒と包帯の交換、そして注射という一連の作業を済ませると、クリフはベッドから起き上がった。
 顔の腫れは随分引いた。肩の傷はひどく響いたが、ゆっくりと歩く分にはどうやら支障がないのを確認すると、すぐさま退院手続きをとり始めた。
 医師は大層渋い顔をしたが、彼の決意が固いことを見て取ると、何枚もの薬の処方箋を出した後、なるべく安静を心がけ左腕は動かさないように、そして痛み出したらすぐ診察に来るようにと言い渡した。

「服を着るのが、これほど大仕事だとは思わなかったな。いっそ袖を切ってしまおうか」
 連絡を受け、心配そうな顔で迎えに来た牧童頭のジョーに、冗談交じりに言いながら、クリフは顔をしかめてシャツと格闘した。
 右腕はともかく、包帯で固定された左は袖が通らず上から羽織るしか着ようがない。こんな無様な格好であのマロリーと対決しなければならないとは……。
 また込み上げてくる怒りを飲み込むと、胸の半ばまでボタンをとめ、更に左腕を隠すように薄手のデニムジャケットをはおった。


 照りつけ始めた陽射しの中、ジョーの運転するワゴン車に乗ってMt-R牧場に戻ってみると、ランチハウスの玄関先には、ミリアムが怖い顔で待ちかまえていた。
 クリフは表情を曇らせ、車の窓からこちらに近づいてくる彼女を眺めた。

 ジョーはそんな二人を交互に見て肩をすくめると、「それじゃ俺は仕事に戻るから」と言って、荷物の入ったスポーツバッグを取り上げ、さっさとランチハウスに消えてしまった。
 ゆっくりと車から降りたクリフは、ミリアムに向き合うはめになった。

「おはよう、ずいぶんと早いじゃないか」
 どうにか気軽に声をかけるが、ミリアムの強張った表情は動かない。
「本当に今朝帰ってくるなんて……。無茶だわ。かなりの怪我だったのよ」
「医者は大袈裟に言うものさ。僕はこの通り」
 大丈夫だというように右手を広げて見せる。
「クリフ、あなた本気なの?」
「何がだい?」
「ドクターは、まだ安静にしてた方がいいとおっしゃったのよ。それなのにあの人のために、どうして? まだ懲りないの?」
「心配かけてすまないと思うよ。だけど左肩だけさ。他はどうもない。薬も山ほどもらってあるし、うまく行けば明日かあさってには帰れるよ」
「クリフ、お願いよ、やめて。もう充分じゃないの!」

 ミリアムはこう叫んで思わず彼がよろめくほどの勢いで飛び込んで来ると、彼の胸に顔を埋めた。傷に響いて思わず顔をしかめながら、クリフは自由な方の手で彼女を抱きとめた。
 勝ち気でプライドの高い彼女がもらした、懇願するような今にも泣き出しそうな声を聞くと、胸が傷よりも痛んだ。
 幼い頃から当たり前のように行き来していながら、昨日まで彼女の本心に気が付かなかったとは、全く大間抜けだったと思う。期待をもたせるようなそぶりをした覚えはなかったのだが。

 右手を彼女の背中に回し、そっと優しくさすってやった。何と言えば一番与える傷が少なくてすむだろうか。だが、彼女の気持に応えられない以上、どんなに言葉を飾っても、結局は同じことかもしれない。

「すまない……。だが、僕は彼女を愛してる」
 彼はミリアムの顔を上げさせ、真剣な顔でそれだけ言うと、額に優しくキスした。
 彼女のショックを受けた目をしばらくじっと見つめていたが、やがて身体をそっと押しのけ、後はもう振り向きもせずに、ランチハウスの中に入っていった。



 家の中に入るや否や、今度は幼いマシューが階段を転がるように駈け降りてきた。
 続いて降りてきたミセス・グレイが、ほっとしたように会釈する。
「泣いて大変でしたよ」
 しみじみ言う。クリフは礼を述べてマシューを引き取った。
「おじさん! おじさん! ねえ、ママは?」
 べそをかきながらクリフに小さな手を差し伸べ、彼の背後に母親の姿を探そうとする。そのあどけない顔に浮かぶ必死の表情に心打たれ、クリフは子供の前に跪いて安心させるように小さな肩に右手を置いた。

「ママは? ママ、どっか行っちゃったの? ボクを置いてったの?」
 なおも繰り返すうちに、涙声になりしゃくりあげ始める。幼い身にはどれほど大きなショックだったろう。朝目覚めたら、突然母親が忽然と姿を消していたのだ。おまけに自分までいなかった。この二日間、どんなに心細かっただろう。
 サマンサはこの子を僕に預けて行くつもりだった。いっしょに連れて行き、奪い取られる危険を冒したくなかったのだろう。だが今は……。

 クリフはその時、ついに心を決めた。

「マシュー、おいで。今から僕と二人でママを迎えに行こう」
「うん! あれ、おじさん、お手てどうしたの? 痛いの?」
「いや、大丈夫さ、ほら」
 彼の腕に気付き不思議そうに尋ねる子供を片腕で抱き上げると、笑顔であやしながら、クリフはゆっくりと階段を昇りはじめた。



 マンハッタン トーリー弁護士事務所

「実のところ、昨日突然連絡をもらった時は全く驚いたよ。何年ぶりかな? それにしてもどうしたんだ? 怪我をしてるとは一言も言わなかったじゃないか」
「今から話すよ。実は突然こうして君を訪ねたのも、プロの意見と協力が必要だからなんだ」

 クリフはマシューを伴ってNYに到着するとすぐ、マンハッタンで弁護士事務所を開業している学生時代の友人、マイケル・トーリーのもとを訪れた。
 事務所の応接室で、向かいに座るクリフの話をじっと聞いていたトーリーは、いつのまにか身を乗り出していた。
 クリフは話し終えると、ブラッドレー保安官の手紙を内ポケットから取り出し手渡した。
 分厚い事務用封筒には、カンザスでの捜査結果をまとめた報告書のコピーが入っていた。正規の用紙に書かれた保安官のサインを確認すると、興味深げに目を通していたが、終わると傍らで大人しく座っている子供にじっと目を向け、次に再びクリフのデニムのジャケットで隠している左肩から腕のあたりを見た。

「お前も大変な目にあったもんだな。傷はもういいのか?」
「正直言うと、かなりこたえる。やることなすこと全てになかなか骨が折れるね」
「それでも、これからその女性に会いに行くつもりか? だが、お前の言うとおりだとして、マロリーがそうあっさりと彼女を出すかな?」
「それはわからない。だが、この子がいる。できれば交渉のカードにしたくはないが……」

 クリフはさっき買ってもらったおもちゃの飛行機で機嫌良く遊ぶマシューの頭を撫でながら、呟くように言った。目を細めて再びトーリーを見る。

「それで、協力してもらえるかい?」
「いいとも。だがな、クリフォード。一つ忠告しておくぞ。この件はもし法廷に持ち込むとすれば、その女性、ミズ・バークスの証言に大きなウェイトが懸かる。しかし、この二人は昔関係があった訳だろう? しかも子供までいるときている。もし、今回の事件をきっかけにまたよりを戻したなんてことになったら、不利になるのはむしろ……」
「ああ、そうだな。実際、それは全て彼女次第さ」
 クリフは陰気な表情で肯いた。胸にナイフを突き立てられたような気がしたが、顔には出さなかった。そう、その時には……。潔く負けを認めるしかないかもしれない。



エンタープライズ・ホテル 


 早くも摩天楼の上空は黄昏の色を帯びていた。あと少しでまた悪夢のような夜になる。
 サマンサはなす術もないままに、ただぼんやりとソファーに座っていた。昨晩はすんでの所だった。だが、今日という今日は、もうどうにもならないのではないだろうか。

 昼間セキュリティー・チェックをしに来た男の隙を狙ってみたが、部屋の入り口に警備員が立ちふさがっていてとても出られなかった。そのうえ、うさんくさげな目でじろじろ見られ、ポケットに入れていたナイフまで取りあげられてしまった。後はどんなに部屋中を探しても、身を守れそうなものは何も見つからない。
 神経が擦り減って食欲も出ず、昼食の豪華な料理もほとんど手つかずだった。

 この状態が続けば、とても神経がもちそうにない。マシューがきっと泣いているだろう。子供のことを思うといても立ってもいられなくなる。
 そしてクリフ……。彼の怪我の程度も、結局分からないままだ。
 こんな状況の中で一日を、ただぼんやりと過ごすしかないというのも一種の責め苦だった。何か打開する途はないかと頭を絞ってみたが、部屋から出られない以上どうすることもできない。やるせない思いでサマンサはテレビを付け、見るともなしに幾度もチャンネルを変えた。

 そうしているうちに時間は刻々と過ぎていく。結局自分にできることはただ一つ、彼があきらめるまで、プライドを捨てずに毅然としていること。そして何の反応も見せずにいることかもしれない。それ以外にさしたる防衛方法も思いつかなかった。



 午後7時過ぎ、マットは再びやってきた。
 今日はダークなビジネススーツを着ている。どうやら会社から直行してきたようだ。サマンサが緊張した面持ちで立ちあがると、彼はそのいでたちを見て顔をしかめた。

「二十分だけ時間をやろう。もっとドレスアップしたまえ」
 彼女は自分のパンツスーツ姿を見おろして、これで十分だと言い返したが、マットは承知しなかった。自らクローゼットを開けて短いボレロのついた黒のイブニングドレスを取り出すと、彼女に向かって放ってよこした。
 その態度にどこか、奇妙な緊張のようなものが感じられ、サマンサは不思議に思った。マットに、着替るから部屋から出て行くように言うと、あっさり承知したので、訝しく思いつつも、仕方なくそのドレスを手に取った。

 黒シルクのイブニングは、細いストラップを首の後ろで結び、背中も胸元も大きくくれていた。タイトな足首までのスカートに、上品なスリットが入っているとてもセクシーなものだ。着てみるとバストラインがさらに強調されて、とても趣味に合わなかった。だが、新しく選んでもう一度着替える時間もない。
 仕方なくそのままパールのイヤリングとチョーカー、腕輪をとめ、クローゼットの下から取り出したハイヒールを履いた。最後にボレロを羽織ると、ちょっとほっとする。それにしてもなんて派手な格好だろう。パーティにでも連れて行くつもりかしら? 
 突然、希望を感じた。隙を見て、逃げ出すチャンスが見つかるかもしれない。まず精いっぱい従順に振る舞って、彼を油断させることだ。

 それならばとサマンサは髪とメイクもドレスに合わせてきれいに整え、きっちり二十分後に再び入ってきたマットに、無理にあでやかな微笑を向けた。

 マットはサマンサをしばらく眺め回してから、満足そうに肯いた。
「女は服一つで随分変るものだ。今時間がないのが実に残念だな」
 一瞬、彼の目に露骨に男の欲望が浮かんだ。だが、まだ紳士的にサマンサの片手を取ると、ソファーに座らせる。

 出かけるんじゃなかったの? がっかりしたが、脅えた顔を見せまいと懸命に平静を装う。内心ではすっかり青ざめていた。彼は片手を取ったまま、性急に口を開いた。
「昨日の返事は、考えてくれたか?」
「何だったかしら?」
「とぼけるのもいい加減にしないと……」
「どうするの?」
 マットがじれったそうに唸り、肩をぐいと掴んだので、精いっぱい愛想のいい笑みを浮かべて答えた。
「思い出した。あなたと一緒に暮らすっていう話だったわね? そう、わたしをここから出してくれるなら、考えてみてもいいわ」
「それはどうも。実はこちらも必要があって、君をどうしても連れて行かねばならないんでね」
「………」
 息を詰めてマットの顔を見つめ、次の言葉を待つ。彼は脅すようにサマンサの顎を捕らえ、顔を近づけると低い声で言った。

「我々に客が来ている。いっしょに来たまえ。ただし僕から離れるな。そして絶対に余計なことをしゃべるんじゃないぞ。客に無事に帰ってもらいたいならな」
 どういう意味なの? またもや不安に襲われる。相変らず威嚇的な口調だが、その中に、かすかな変化が感じられた。客ですって? でも自分の所在は誰も知らないはず……。

 そのとき肩を強く抱き寄せられて、思わず身体が強張った。だがマットは意にも介さず、長身にサマンサの身体をぴったりと寄り添わせ、そのまま部屋を出ると強引にエレベーターに乗せた。
 無言のままホテルの地下一階まで降りる。タキシードを着たウェイターがそのフロアにある、瀟洒な扉を開くと、そこはどうやら小パーティ用のビュッフェという感じだった。室内には煌煌とシャンデリアが点りぜいたくな食事の支度が整っている。

 二人が室内に入って行くと、奥の椅子に座っていた唯一の人影がゆっくりと立ち上がった。その途端サマンサの肩に回っているマットの手に、更に力がこもる。

 だが、彼女は驚きのあまり、マットの態度にまったく気付かなかった。その男の顔を見た途端、たちまち目が涙で霞み、足ががくがくと震えはじめる。

 だが二人に向けられたクリフの表情は、まるで氷のように冷やかだった……。