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「ほら、サマンサ。挨拶をしたらどうだ? ミスター・オースティンは怪我をされているにもかかわらず、僕らの息子を連れて、わざわざ、カンザスから来てくれたんだよ」

 思いがけないクリフの出現に、呆然と立ちすくんでいたサマンサは、マットの猫なで声を聞いて、はっと我に帰った。
 しばらく経ってようやくその言葉が脳裏に達する。僕らの息子を連れて……ですって? では、クリフはマシューを彼に引き渡すつもりで来たのだろうか?
 そんな! それではもう、どうすることもできなくなってしまう。
 絶望的な思いで、彼女はこわごわ愛する男に目を向けた。

 クリフの目元と口元には、先日の争いでできた傷がまだ生々しく残っていた。表情を硬くこわばらせたまま、身動きもせずこちらをじっと見つめている。氷のような青い目には普段の優しさのかけらもなかった。

 たった二日会わないうちに、彼が婚約者から赤の他人になってしまったようだった。
 だが、あんな目に合わせた後なのだ。それも当然ではないだろうか。ジャケットで隠された彼の左腕にちらりと目をやり、思わず顔を背けると、また膨らんできた涙を隠すために、幾度も目をしばたかせた。

 クリフもまた、美しく変わった彼女の姿を見て衝撃を受けていた。ゴージャスな黒のイブニングドレスを身につけたサマンサに、マット・A・マロリーが我が物顔で腕を回している。
 彼女が自分から目をそらした瞬間、思わず歯を食いしばった。
 やはり来ない方がよかったのだろうか。もし彼女が変わってしまったのなら、そんな姿を見たいとは思わなかった。



 マットの合図で近づいてきたウエイターが、三人を食事のテーブルに案内した。そして熟練した手つきでグラスにワインを注ぎ、次々と料理を並べて行く。
 いくら豪華な料理が並んでも、サマンサはそれを味わうどころではなかった。目の前にいるクリフが、こんなに遠く感じるのは初めてだ。

 彼は左手が使えず、右だけでナイフとフォークを持ち替えながら、どうにか食事をしていた。時々どこか痛むのか、顔をしかめている様子を見て、ますます何も喉を通らなくなる。
 いたたまれなくなって思わず席を立ちかけたが、マットに腕を掴まれ引き戻された。
 誰も話そうとしない中、沈黙を打ち消すのは、室内に流れているゆったりしたピアノの曲だけだ。

 気まずいディナーがようやく終わると、コーヒーを飲みながらマットは葉巻を取り出し火をつけた。一服しながらクリフにも進める。彼はそれを断ると、初めてマットに向かって静かに口を開いた。

「ミズ・バークスと二人だけで、話をさせてほしい」
「その必要はない。それよりこの姿を見て君も安心しただろう。では食事も済んだところで、そろそろ僕らの息子を引き渡してもらおうか。時間がもったいないのでね。さあ、今すぐその友人とやらをここへ呼んでくれたまえ。そうしたら君は、自由にお引き取りいただいて結構だとも。何なら空港までお送りするが」

 クリフは上着のポケットを探りながら、尋ねかけるようにサマンサに目を向けた。彼女が思わず顔色を変え口に両手を当てるのを見て、手が止まる。

「サマ、君はどうしたい?」
「何も話す必要などない! さっさとしろ!」
 彼の問いに対し、マットが代わって大声でどなったが、ノーというように無言で首を激しく振る彼女の反応に、ようやく安心したようにクリフは少し緊張を解いた。
 そして今度はためらわずに、携帯電話を取り出しどこかへかけはじめた。

「止めて……、お願い」
思わず声を上げたサマンサの顔に浮かんだ苦痛を見て、彼は目を細め安心させるように肯くと、再びマットの方を向いた。
「今、来る」
 二人の男の間に、見えない緊張の糸が張り詰めた。




 わずか十数分が、何時間も経ったように思えた頃、静かにドアが開く音がした。
 クリフが振り返り、ゆっくりと席を立った。マットとサマンサも食い入るように見つめている。
 そこへクリフと同じくらいの年齢の、ビジネススーツを着た男が、新しい服を着た小さなマシューの手を引いて入ってきた。マシューはおどおどとあたりを見回していたが、サマンサを見つけた途端、男の手をぱっと放して泣きながら夢中で走り寄ってきた。
 サマンサも椅子から弾かれたように立ち上がり、首筋に小さな手ですがりついて泣きじゃくる子供を、夢中で抱きしめた。

 その二人の後に続いてもう一人、サマンサの見知らぬ、見るからに上流階級と分かる中年の女性が入ってきた。スーツの男は中の様子を確認した後、一歩退いて背後の女性を先に通した。

「ダイアン!」彼女を見るなり、マットは絶句した。
「貴様、余計な真似を……」
 続けてクリフに向かい激しく悪態を突きはじめた。その女性は美しかったが、どことなく刺々しい雰囲気をもっていた。途中で立ち止まり、尊大な態度でその場を一瞥する。中央テーブルの脇に立つ夫の姿を見つけると、火のような怒りの眼差しを向けた。

「これはいったい、どういうことなの?」
 ダイアン・マロリーは四人の方に、つかつかと歩み寄ってきた。
 その時、黙って見ていたクリフがマットに向かって言った。

「この件は、最初からこうすべきだったんだ。あなたもつまらない画策などせず、もっと早くにきっちりと話し合うべきだったと思わないか?」
 そして、近づいてくるダイアン・マロリーに目を向けながらテーブルを回り、初めてサマンサのそばに立つ。

「ミセス・マロリー、突然不躾なメールを差し上げたことをお詫びします。僕が差出人のクリフォード・オースティンです。今日はわざわざお出でいただき感謝します。そして改めてご紹介しましょう。彼女がミズ・サマンサ・バークス、そしてこの子がその息子、マシュー・バークスです」
「僕の息子でもある」
 マットが子供を見ながら荒々しく言葉を継いだ。ダイアンはそこに立つ四人の顔を順々に見渡すと、最後に夫に再び冷たい目を当てた。

「マット、これはどういうことかしら。説明して下さる? それとも昨夜あなたがもったいぶってほのめかしていたのは、このことだったの?」
「……ああ、その通りだ」
 ダイアンは呆れ果てたように、冷たく口を継いだ。
「それでは、この女の子供をわたし達の息子として、認めて受け入れろと、あなたはそう言うつもりだったの? 冗談言わないでちょうだい。とんでもない話だわ。そんな子を認めるだなんて、絶対お断りよ!」

 その時、一同から少し離れた場所に立ち、事の成り行きを見守っていた見知らぬ男が静かに口を開いた。

「ミスター・マロリー、今のミセス・マロリーのご意見を伺うと、一体どうやってお子さんを引き取られるおつもりなのか、皆目見当もつきませんね。これでは親権訴訟で裁判所に持ち込まれても、到底難しいように思われますが」
「君は誰だ?」マットが彼をにらみつける。
「マイケル・トーリー。クリフォード・オースティンの友人で、弁護士です」

 一瞬、沈黙が流れた。次に口を開いたのはクリフだった。
「そう。だから、あなたはサマンサにしつこく付きまとって、脅迫まがいのことをしたんでしょう? 彼女を自分の思い通りにしようとして」
 抑えた口調にも、隠しきれない苦々しさがこもっていた。
「脅迫まがいだと? つまらん言いがかりは止めてくれ。僕が一体何をしたというんだ」
「ミスター・マロリー」
 トーリー弁護士は一歩前に出たクリフを目で遮り、マットの前に封書を持って立った。
「ここにカンザス・シティのブラッドレー保安官からの捜査書類があります。マウント・リバー牧場並びにその取り引き先に対する脅迫行為、並びに、ミスター・オースティンに対する傷害容疑。これらの証言は十分証拠能力を持ちます。彼はあなたを告発することも可能ですよ」
「そんなもの、もみ消してやるまでのことだ」
「しかしながら、あなたへの刑事告発がなされれば、警察の連中は喜ぶかもしれませんね」

 弁護士の言葉にマットは奥歯をかみ締めた。最近の取引だけでも、トラスト法に関する危ない橋が幾つもあったのは事実だ。
 確かに市警の上層部が、さっそく同行を求めてやってくるだろうことは、容易に察しがついた。そしてその後は、もっとやっかいなことになるだろう。くそっ、俺がこんな立場に立たされるとは……。何ということだ! こいつを甘く見過ぎていたのか。まさかこんなに早く、手を打ってくるとは……。

 彼も今、自分の敗北を悟りはじめていた。


 意外な成り行きに呆然としていたサマンサは、そっと肩に手を置かれて、初めてクリフが傍に来ていることに気がついた。
 恐る恐る目を向けると、物問いたげな青い瞳とぶつかった。途端に彼に触れたいという思いが、嵐のように湧き起こってくる。
 そして、次々と変化する事態のめまぐるしさに混乱しきった頭にも、ようやく今の状況が飲み込めてきた。

 マットは悔しそうに顔を歪めていたが、やがて弁護士に鋭い目を向け、疲れたような低い声で問いかけた。
「それで、俺にどうしろというつもりだ」
「それは、こちらの二人が決めることですね」
「いや、僕でもない。これは彼女の権利だ」
 クリフが静かにそう言うと、その場の全員の視線が自分に集まるのを感じ、サマンサはごくりと唾を飲み込んだ。まずクリフを見、マットを見、そして彼女の手にしがみついてる小さなマシューをじっと見つめた。考えながらゆっくりと口を開く。

「クリフの怪我については、わたしにどうこう言う資格はないわ。クリフが決めることだと思います。でも、マット……わたし達二人のことでは、お願いがあるわ」
 マットを静かに見つめる。
「あなたがこの子から完全に手を引くと、もうこれで忘れてくれると約束してくれるなら、わたしも今までのことは忘れます。もう二度と会うこともないし、わたしにも子供にも関わらないと、約束して。わたしの望みはそれだけよ」
「だが……、それでは養育費だけでも……」
 沈黙の後、こう言いかけたマットに、彼女はただ黙って首を振った。
「クリフォード、君からは?」
 続いて弁護士が尋ねたが、クリフも彼女に賛同すると言ったきりだった。
 トーリーは肯き、アタッシュケースから書類を取り出す。それから約十分後、全ての片がついた。
 あっけないほどに、短い幕切れだった。


「その子を抱かせてくれないか」
 サインし終えたマットは、ゆっくりとサマンサとマシューに近づき、ドレスに半ば顔をうめた子供の前に片膝を突いた。
 誰も一言も発しなかった。マットはゆっくり子供に手を伸ばすと、丸い柔らかな頬に触れ、その小さな身体をそっと抱き寄せた。

 過去に、もしもはありえない。だがもし四年前のあの時、ダイアンと別れる覚悟があったなら、自分のこの不毛な灰色の人生も、全く違う色彩を帯びていたかもしれない……。そう、もしかしたら……。

「おじさん、だれ?」
 あどけない顔で小首をかしげて問いかける幼子の頬に、これまでしたこともないほど優しくキスして、マットは微笑んだ。
「君が生まれる前に、君のお母さんと友達だった。君に会えて、とても嬉しかったよ」
 そしてダイアンを伴い、静かに部屋から出て行った。



 部屋に再び沈黙が流れた。トーリー弁護士がたった今作成したばかりの書類を鞄にしまい込む。
「これを三通作って、一週間後にはお届けしますよ。彼から話は聞きました。大変だったでしょうね。だが、これですっかり終った。もう大丈夫です。……おい、大丈夫か?」

 トーリーが、クリフに向って叫ぶのとほとんど同時に、大きくひとつ息を吐き出すと、彼はよろめいてそのままくずれ落ちるように椅子に座り込んだ。

「クリフ! 熱があるわ」
 慌てて駆け寄ったサマンサは彼の額に手を当て、驚いたように叫んだ。
「大したことはないさ。それよりよかったよ、君が無事で」
 クリフは彼女の手を取り唇に持っていく。だが、トーリーは眉をひそめて彼に近づいてきた。
「すぐ病院へ行くほうがいいな。車まで歩けるか? 全く信じられない真似をするもんだ。ミズ・バークス、こいつは手術直後で安静中だというのに、無理矢理病院のベッドから抜け出してきたんですよ。あなたのためにね。もう一度入院させたら、また無茶しないように、しっかり見張ってて下さい」

 こう言って、サマンサに軽くウィンクしてから、クリフに肩を貸した。

「抜け出すなんて、人聞きが悪いことを。医者の許可なら、ちゃんと取ったさ」
 再び大きく息をついて、一緒に歩き出したクリフの顔は疲れきっていたが、そこには満足そうな微笑も浮かんでいた。

 エレベーターを待ちながら、彼は突然思い出したようにサマンサを振り返り、上から下まで見降ろして笑顔になった。
「まだ言ってなかったな。サマ、そのドレス、最高に似合ってる」
「そんなこと言ってる場合じゃ……。あなたったら本当に……、信じられないこと……するんだから……」

 また溢れてくる涙をぬぐうことも忘れ、人目さえも忘れて、サマンサは思わずクリフの頭を抱き寄せ唇を重ねた。

 二人の傍らでマシューが、嬉しそうに声を上げた。