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ミズーリ州 カンザスシティ


 暑い夏の一日も終わりに近付いていた。
 夏時間の午後七時少し前。小型車を運転しながら、小さな息子の今日の冒険を聞くひと時は、サマンサの疲れた心に安らぎを与えてくれる。

 彼女は今、国道沿いのショッピングプラザでレジスターの仕事を終え、保育園に息子を迎えに行っての帰り道だった。子供のたわいないおしゃべりに相槌を打ちながら、彼女はこの幼い息子がいてくれることに心から感謝していた。まだ三歳になったばかりの小さなマシューは、今のサマンサの大きな支えだった。


 サマンサ・バークスは未婚の母という立場で、三年前に子供を産んだ。父親は誰かと回り中から問いただされたが、彼女は決して口を開かなかった。
 ただそのまま現実を受け入れ、生活に追われながら忙しく日々を過ごすうち、あっという間に三年という月日が過ぎてしまった。
 彼女の両親は娘が妊娠したことを知った時、彼女を厳しく詰問した。だが、彼女は頑として沈黙を守り、子供を産むと言って譲らなかった。結果、元々芳しくなかった親子関係は著しく悪化し、ほとんど絶縁状態のまま今に至っている。
 去年の十一月、サマンサもようやくお金を貯めてバージニアのアパートからここ、カンザスシティの小さなフラットに引っ越すことができたのだった。とにかく故郷を離れ、息子と二人きりになりたかった。

 フラットが見えてきた。前まで来た時、道路脇に停まったメタリックシルバーの車に気付いた。
 クリフの車だわ。いつ来たのかしら?
 サマンサは車を駐車場に入れると子供を抱き上げ、急いで玄関のドアを開いた。
 リビングに差し込む夕暮れの日差しの中に、影のように男が一人座っていた。静かな室内にテレビの音だけが やけに騒がしく響いている。

「おかえり、サマ。さっきから待たせてもらってた」
 ソファーから、ゆっくりとした動作で背の高い男が立ち上がった。
「クリフ、今日は随分早かったのね。牧場の仕事、もう終ったの?」
 彼を見るなり、思わず口元に気安い笑みが浮かぶ。
「夕食まだだろう? 君とマシューをディナーに誘おうと思って、早めに切り上げてきたのさ。よかったら今から出かけないか。今度道路沿いに新しい店がオープンしたんだ。うまい海老料理で評判のチェーン・レストランだよ。」
 クリフは『小父ちゃん』に走り寄ってきたマシューを抱き上げ、頬にキスしながら言った。
「まあ、海老なの? それは久し振りね」
 クリフォード・オースティンとはここに来てからずっと、肩のこらない気楽な付き合いだった。日焼けして少し色褪せた長めのダークブロンドに青い目、ギリシャの彫刻を思わせるようなくっきり彫りの深い顔立ち、細いが筋肉質のしなやかな長身は、近付くどんな女達にも 自分の存在を強くアピールせずにはいないだろう。事実、彼とシティを歩いているだけで、何人もの女性から羨望の眼差しを向けられるのだ。
彼は、カンザス・シティ郊外で大きな牧場を経営している若きランチャーだった。カウボーイを何人も雇い、馬と牛を飼育している。そして 乗馬の名手でもあった。もっと若かった頃には、レースや地元のロデオ大会にもよく出場していたらしい。
 クリフは今年二十五歳になるサマンサより七歳年上だが、実際の年齢よりも遥かに世慣れて年上に見えた。余裕たっぷりの物腰や趣味のよさが、彼の育ちの良さを表している。
 サマンサは彼がとても好きだったし、クリフもサマンサに強く引かれていることを、幾度となくほのめかしてはいたが、二人はまだ友達同士だった。
 そう、ごく親しい友人だ。スペアキーを渡すことができるくらいの。けれどそれ以上の関係に進むには、彼女の中に強いためらいがあった。

 もう懲りたのよ。当分は、この子とわたしだけで充分だわ。

 だが今、空腹を抱えながら料理するのも気が乗らない。こういうディナーの誘いなら、乗るのも悪くない。
「行きたいわ。でもあなたもまったく変わってるわね。あなたくらい素敵な人ならそれこそよりどりみどりで、どんな女性でも連れて行けるでしょうに。 どうしてよりにもよって、子連れのわたしなんか誘ってくれるの?」
「実は僕もそう思うんだけどね。物好きだからさ」
 クリフがサマンサの生真面目な返事を受け流してくすっと笑う。彼女もつられて笑い返すと、明るく答えた。
「ありがとう、じゃあ待ってて。この子と一緒にシャワーを浴びて着替えてくるわ」
「何なら僕も一緒にどうだい?」
 ウィンクする彼をちらりと見て、「まさか」とあきれたように言うと、サマンサはマシューを抱いて二階に駆け上がった。


「ほーらいい子ね。ママと一緒にシャワーよ」
 寝室に入り息子の泥だらけのTシャツを頭から脱がせながら、あやすように声をかける。マシューが少しぐずった。
「マミー、ぼく眠くなっちゃった」
「でもママや叔父さんと、今からおいしい物を食べに行きたくないの?」
「行きたい」
「じゃあ、シャワーを浴びて着替えましょ」
 まず息子を風呂に入れ、新しいTシャツとズボンに着替えさせた。子供がさっぱりしたのを見てから、今度は自分の番。タオル地のガウンをはおって、湿った髪を拭いながら、今夜来て行く服を選ぶ。
 シンプルなデザインの白いサンドレスを腰の所で金の細いチェーンベルトで締める。耳にもベルトと同じイヤリングをつけた。ストロベリーブロンドの髪をふんわり梳かして流すと、唇にパールの入ったダークレッドのルージュを引く。 

 ようやく二人そろって階下に降りて行くと、テレビを見ながら待っていたクリフが、振り返るなり、ヒューと口笛を吹いた。
「待ったかいがあったな」
「何が?」
「すきっ腹を抱えて君達を待ってたかいがあったってことさ。最高だよ。サマ」
 クリフがキスしようとするのを、顔を背けて避けた時、彼が傷ついたように顔を曇らせるのがわかり、思わず彼の手に触れた。
「まあ、わたし……」
 弁解の言葉が口から出かかった。だが彼は気にしなくていいと言うように、彼女の手を握り返すと微笑んだ。
「行こう」何気なく彼女の肩に手を置いてから、クリフは先に立って出て行った。


 メタリックシルバーの車体が、オープンしたばかりのレストランの駐車場に乗り入れた。オープン記念イベントが鳴り物入りで催されている。思った以上に人出が多そうだ。

「予約を入れておいてよかったよ。しかしこれではゆっくり食事という雰囲気にはなりそうもないな」
 どうする? と、問い掛けるように向けられたクリフの視線に、サマンサはにっこり笑って明るく答えた。
「席さえあれば構わないわ。もうお腹ペコペコですもの。行きましょう」

 三人は人の合間をぬうように中へ入って行った。ボーイが予約を確認し、席へ案内してくれる。外の喧騒とは打って代わって、店内はゴージャスで落ちついた雰囲気だ。

センスのいいしゃれたテーブルについて、ワインと料理を注文してしまうと、クリフがマシューにと持って来たおもちゃの車を出して見せた。マシューの小さな顔が輝き、たちまち夢中になって遊び始めるのをサマンサは嬉しそうに眺めた。
「本当によく気が利くわね」
「なんだ、今頃気が付いたのかい?」
 軽く微笑みながら、彼はサマンサを改めて見つめる。
 きれいな形のいい顔の輪郭に、すっと通った鼻筋とどこか憂いを帯びたブルーグレイの大きな瞳。やや小さ目の唇はふくよかだ。ストロベリーブロンドの髪はふわっと短くカットされている。ショートヘアも悪くないが長ければもっと似合うだろうに、全く惜しい話だといつも思う。
 サマンサに出会い恋してから、まだ数か月余りだったが、その思いは急速に大きく膨らんでいった。問題は彼女の方に一向にその気が見えないということだ。子供の父親のことも、彼女は一言も話そうとしない。まだ自分を完全に信頼してはいないのだと、寂しく思いながらも、あせってはいけないと自分に言い聞かせていた。
 ひと月ほど前に彼女から合鍵を渡された時は、夢ではないかと思ったくらいだ。
 牧場の仕事は毎日目が回るほど忙しかったが、クリフはできる限り、彼女のそばにいたかった。たとえ、それが彼自身を、精神と肉体の激しい責め苦に陥れるとしてもだ。
 やがて 注文した料理が運ばれてきた。評判通りの味わいを堪能しながら、二人は気楽な会話を楽しんでいた。どこから見ても幸福な一家族の構図だった。


 その時ふいに表が騒がしくなった。
 黒のリムジンが一台店の玄関に横付けになり、中から一組のカップルが降り立った。店の支配人らしき男が奥から急いで出て来る所を見ると、よほど重要人物のようだ。
 人々の好奇の目が集中する中、動じる風もなくその男は店内に入って来た。年は四十代始めくらいだろう。見るからに高級そうなダークスーツを着こなして、身体中から余裕と自信を発散させている。同伴している女性も豊満なボディラインを強調するデザインのイブニングドレスを着ていた。店中の注目を心地よさそうに受け止めながら、男の腕に身体をもたせ掛ける。

 だが、何気なくその男の顔に目をやった瞬間、サマンサは全身が凍りつくかと思った。

 これは悪夢だ。きっと見間違いよ。ゆっくりと目を閉じもう一度開いてみる。だがそこにいるのは紛れもなくあの男だった。
 マット! どうして彼がここにいるの?
 気をしっかり持つのよ。サマンサは自分の震える身体に懸命に言い聞かせた。この動揺を誰にも悟られてはならない。特にクリフには。彼は全てを聞き出そうとするに違いない。もう四年も経っているというのに、まだこんなに平静を保てないなんて……。
 サマンサは 自分のふがいなさに愕然とする思いだった。

 一刻も早くここから出なくては。そう焦る彼女の隣で小さなマシューが水を飲もうとして手を滑らせる。グラスが床に滑り落ちて砕け、さらに驚いて泣き出した。場違いなその泣き声を聞きつけ、こちらに目を向けた男が、低くうなるような声を上げた。その声は慌てて子供をあやしていたサマンサの耳にも届いた。

「サマンサか!」

 彼女は一瞬目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げた。いつかはこんな日が来るかもしれないと、心のどこかでわかっていたのだ。



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