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 わたしの息子!? 息子だって?

 それでは……、彼女には子供がいたのか? ということは、……ミセスなのか?

 頭の中でめまぐるしく考えながら、彼は言葉を失っていた。口では言い表せないほど大きなショックに襲われ、とっさに急ブレーキをかける。
 路面の雪を跳ね上げながら、車はその保育所の少し手前に急停車した。サマンサの身体が前のめりになり、驚いたように小さな声がもれたのが聞こえたが、もはや詫びる余裕すらなくしていた。彼はサマンサに顔を向けた。ハンドルを必要以上に強く握りしめ、緊張した声で問いかける。

「……すると……、君は結婚しているのかい?」

 長い沈黙があった。サマンサは無言のまま、堅い表情で前を見ていた。思わず肩に手をかけたが、その手は彼女にさっと振り払われてしまった。
 挑戦的に彼の顔を見つめ、その表情と同じくらい堅苦しい声で言った。

「ミスター・オースティン。今日は思いがけず随分お世話になってしまいました。お蔭様で思ったよりずっと早くここまで来ることができたわ。送って下さって、本当にありがとう。もうあとは大丈夫ですから、気をつけてお帰りください。コーヒー、ごちそうさまでした」

 サマンサはロックを開けて外に出ようとした。だが彼女が助手席のドアを開くより早く、さっと伸びたクリフの手が、その手を掴んで押しとどめてしまった。
「待ってくれ。これだけはどうしても知っておきたいんだ。教えてくれ。君はミセスなのかい?」
 彼は華奢な左手を取りあげて、しげしげと眺める。
「君が指輪をしていないから、僕は……てっきり……」
 その瞬間、クリフのハンサムな顔に、苦々しい色が浮かんだ。軽蔑された? 彼女はつかまれた手をさっと引くと、やや強張った微笑を浮かべ、きっぱりと言い切った。
「今日偶然、お店でお会いしただけのあなたに、いちいちそこまで説明する義務はないと思います。それじゃ、さよなら」

 そしてバッグをつかむなり外へ飛び出すと、勢いよく車のドアを閉めてしまった。ダウンジャケットの襟をかき合わせながらディ・ケア・センターの建物の中に駆け込んで行く。

 やがて、タクシーが来て、サマンサともう一人の小さな影を乗せて運び去っていくのを、クリフは、さっきよりやや後方に車を停めて確認していた。
 二人が行ってしまうと、深い吐息をついて、暗い表情のまま再びエンジンをかける。
 牧場に戻る道は、雪でたいそう滑りやすくなっていた。空虚な喪失感を抱えながら、何とか運転に集中しようと努力する。
 だが、たった今受けた打撃からは、しばらく立ち直れそうもない気がした。



「ボブ、ちょっと話がある」
 翌日の午後、クリフはショッピングセンターのマネージャーをしているハイスクール時代の友人、ボブ・アンダーソンのオフィスにむっつりと顔を出した。
「なんだ、やぶからぼうに。仕事中だぞ」
 ボブは机に座ったまま、怪訝な顔で突然入ってきたクリフを眺めた。
「何があったか知らんが、陰気この上ない顔だな。陰気でくそ寒いのは天気だけでたくさんだぞ。そうだ、お前知ってるか? この前ヘンリーの奴が」
「サマンサ・バークスのことを聞きたい」
 くだらない話には取り合わず、クリフはずばりと問い掛けた。
「サマンサ? 赤毛の新入りか? あの子がどうかしたのか?」
 面食らったように言いかけてから、ボブはしたり顔で幾度も肯きながら大声を上げた。
「なるほど! そういう話なら、わからなくもないな」
「じゃ、教えてくれ。お前なら知ってるだろう?」
「何をだ?」

 答えながら彼は、クリフの切羽詰まった表情に内心驚いていた。こいつが女のことで、こんな顔をするのは、初めて見たぞ。だがそれでもあえて、はぐらかそうと試みる。
「他人のプライバシーに首を突っ込むのは、あまり感心しないな」
「悪かったな。だがこっちは、そんな悠長なことを言ってる場合じゃないんでね」
 そう言ってクリフはデスクに手をつき、マネージャーのわし鼻の先に、顔を近づけるように更に身を乗り出した。
「教えるまで、お前は絶対仕事に戻れないからな。何としても聞き出すぞ」
 開いた口がふさがらないという表情で、ボブは頭を左右に振った。



 それから数日間、サマンサは何となく暗い気持でレジに向っていた。バレンタインが近い折から、売り場には色とりどりの包装紙に包まれたチョコレートや菓子、その他のプレゼント類が並んでいた。それらを毎日のように計算しながら、彼女は幾度もクリフを思い出していた。
 クリフォード・オースティンはあれから一度も顔を見せない。あの日はしつこいくらいモーションをかけてきたくせに、自分をミセスだと思い込むや、さっさと手を引いたというわけだ。

 これで片がついたと、大いに喜ぶべきだと思うのに、子供のことでショックを受けていた彼の顔が、なぜか忘れられなかった。

 簡単に女に声をかけて、自信たっぷりに余計なおせっかいをしようとするからよ。これであの人も少しは懲りたでしょうね。
 それとも……、もうすでに、誰か別の人を探してアタックしてるかもしれないじゃない……。

 無理にユーモラスに考えようとしたが、なかなか割り切れなかった。今彼女はどちらかと言うと、惨めな――、そう、とても惨めな気持になっていた。自分では決して認めたくなかったけれど。


「ここのところ、何だか浮かない顔してるわねぇ。どうしたの?」
 ランチの時間、同じレジスターのレイチェルに問われ、サマンサは素早く作り笑いを浮かべて見せた。
「このお天気のせいかもしれないわ。ずっとこんな感じなのかしら?」
「まあ、二月になったから、もう少しマシになると思うけどね。それにしても、何かあったんでしょう? もしかして誰かいい人でも見つかったの? それでうまくいってないとか」
「とんでもない!」
 いつもクールなサマンサが珍しく過剰反応を示したのを見て、レイチェルは、ははーんと納得したように肯いた。
「バレンタインも近いんだから、頑張って仲直りするチャンスなんかいくらでもあるわよ。売り場にはあれだけバレンタイン用のプレゼントがあるじゃないの。素敵なプレゼントで仲直りしたら、あとは彼と二人で飛びきりロマンチックな夜にすればいいのよ」
「それはあなたの話でしょ」
「やれやれ、本当にお堅い人ね、まったく何が楽しくて生きているんだか」

 ソフトドリンクとサンドイッチをつまみながら、彼女は呆れたように両手を広げた。サマンサは笑って、あなたの方こそどうなのよと言い返す。

 この店のマネージャーは、彼女の事実を知っている数少ない人間だったが、それ以外に自分の子供のことを知っている者は、ここカンザスには誰もいなかった。そう、ただクリフをのぞいては。彼女自身、聞かれもしないのに、あえて他人に話そうとは思わなかった。
 けれど、決して両親が言ったように子供を『恥』だと思っている訳ではない。一人息子のマシューこそ、今のサマンサにとっては唯一の生きがいであり、誇りであり、愛だった。たった一人で出産したこと――、シングルマザーになったことを、後悔したことは今まで一度もなかったし、これからも決してしないだろう。だが、そのことを興味本位にあれこれ詮索されるのは、まだとても耐えられそうになかった。

 午後の仕事もようやく終り、五時になった。その日は、比較的寒さも和らいでいた。子供へのささやかなバレンタインプレゼントを買い、車に向って歩いていると、背後で軽くクラクションが鳴った。
 はっとして振り向くと、停車した車の窓からクリフが笑顔で手をあげていた。意志とは裏腹に思わず立ち止まると、彼は車から降りてきた。

「やあ、ミズ・バークス。久し振り。また会えたね」
「何のご用?」
 用心深く、問いかける。そこで『ミズ』を使った彼の言葉の意味に気づき、思わず顔をしかめた。
「わたしのこと、聞いたの?」
 彼を睨みながら、サマンサは棘のある声になった。だが、それには答えず、彼は優しくうながすように、彼女の右肩に手を置いた。
「ここで立ち話もなんだから、コーヒーでも飲まないか。六時までならいいんだろう?」


「君のこと、マネージャーから聞いたよ」
「あなたに、そんな権利はないのに……」
 二人は人気の少ない店のカウンターの隅に座って話していた。彼の言葉にサマンサは咎めるような目を向ける。
「うん、そうだろうな。だけど、これだけはどうしても知りたかったんだ」
 あっさりと、彼は認めた。
 実際のところ、彼とマネージャーとの間には、かなりきわどい真剣なやり取りが交わされていた。そしてその結果、ついに彼女が未婚で子供を出産している事実を知った時、クリフは先日の彼女の態度について、ようやく納得がいったのだった。どんな男と何があったのかはわからないが、そんな過去を抱えているなら、男に対して必要以上に慎重になり、敵意めいた感情さえ抱いているのも肯ける。

 だから彼は余計なことは何も言わなかった。ただ、この数日間、幾度かここに立ち寄りながら彼女を眺めていて、心に感じたことだけをありのまま、伝えることにした。
「正直言って、とても感心したよ。女性が一人で子供を産んで育てるっていうのは、まだまだ並大抵の気持じゃできないことだと思うから。それに君は、生活に疲れてもいないし、くじけてもいない。いつも水仙の花みたいに、冷たい雪の中で顔をしっかりと上げている。そんな君に、僕はとても興味が湧いたんだ」
「………」
「だから、僕は君と友達になりたいと思う」
 彼の瞳が優しくサマンサを見つめた。
「友達?」
「そう、友達だ。色々相談にものるし、君に男手が必要なときはいつでも力になれて、春になったら晴れた日曜日、君の坊やといっしょに、三人でランチボックス持ってピクニックにも行けるような、そんな友人になれたらいいとね。この提案、どうかな? 嫌かい?」
「……ええ、いいえ、そんなこと……」
「どっち?」
 サマンサは顔を上げた。青い瞳が依然微笑をたたえて、穏やかに自分に注がれている。

 友達としてなら……。そう、友達としてなら、きっとこの人と肩肘はらずに楽しくお付合いできるだろう。直感的だが、不思議に確信が持てた。だから彼女も余計なことは言わずに、率直にこう答えた。
「いいわ」
「よし。じゃあ、合意だ。僕らの友情成立」
 握手の手を差し伸べられて、思わず差し出したサマンサの右手は、クリフの大きな両手に包み込まれた。少し恥かしげに目を上げると、不意に彼の顔が近づいてきた。はっとする間もなく彼女の唇に、軽くかすめるように彼の唇が触れる。しばらくの間、二人は無言で、見つめ合っていた。

「さて、明日はバレンタイン・ディだ。夕方この時間にまた迎えに来るから、三人で食事に行かないか? 君の坊やにも会ってみたいんだ」 
 サマンサはしばらく考え込むように黙っていたが、やがてためらいがちに肯いた。クリフの顔に、今はもう見慣れてしまったあの夏の空のような笑顔が浮かぶ。
 それでは明日は、特別注文の花束とカード、それにおもちゃを用意することにしよう。夕食はプラザのレストランに予約をねじ込むことに決めた。子供連れだろうが、べつに構うものか……。

   そう、時間はいくらでもある。あせらずに、ここから一歩ずつ始めればいいさ。
 いつか。そう、たぶん、いつか……。この手に……。

 サマンサの左手をとって外に出ながら、クリフは心のうちで、こう呟いていた。


〜Fin〜


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04/2/14 更新