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 それから一週間が何事もなく過ぎ去っていった。

 マットが何らかの出方をして来るのではないかと、警戒していたサマンサもようやくほっと胸をなで下ろした。
 だがクリフまでが、あれから一度も訪ねて来ないのは、意外だった。
 今まで三日と開けずここに立ち寄っていたのに。やはりマシューの父親のことで、ショックを受けたに違いないと、サマンサはわびしく考えた。

 彼は厳格なモラルを持った良家出身の男だ。ついに自分を軽蔑し愛想を尽かしたのかもしれない。仕方がない。いつかは話さなければならないことだったのだ。
 突然ぽっかりと空洞が開いたような寂しさに耐えながら、クリフのためにもこれでよかったのだと、彼女は自分に強く言い聞かせていた。

 マシューを妊娠していることは、マットと共に夢のように舞い上がった三週間の後、地面に叩き落とされてからわかった事実だった。
 ショックと狼狽と悲しみに一度に取り囲まれ、サマンサはどうしていいかわからず、身動きもできないほどだった。
 マットが結婚していたという事実を知った時のあの衝撃! どうして忘れられるだろう。
 彼女はブルッと身震いした。コンチネンタル・エンタープライズ……。
 いまいましい多額の小切手の紙片と共に現実を告げられた時は、一瞬頭がどうかしてしまったのではないかと思った。彼女が神のようにあがめ、崇拝していた年上の男性は、結局ただの卑しい偶像に過ぎなかったのだ。

 話がようやく飲み込めて来ると、彼女はヒステリックに笑いだした。実際こういうことはよくある話だ。だがこの自分がまさかそれに引っ掛かってしまうとは……。
 小切手を切れ切れに破り捨てながら、自分の無防備さと愚かしさにどんなに歯噛みしても、もうあとの祭りだった。


 だが、衝撃は容赦なく続いた。毎月定期的に来ていた生理がなくなり、まさかと思いつつ がくがく震えながら検査した。そして妊娠が判明した時、サマンサはそのパニックを自分の中に完全に閉じ込めてしまった。
 ひと月の間、気が狂いそうな感情の奔流と戦いながら、誰にも相談することなしに、黙ってこの子供の出産を決意したのだった。

 この一連のショックの中で、マットへの熱い炎も一瞬にして冷水を浴びせられたように消えてしまった。少なくともそう思っていた。彼を再び目にした一週間前までは。彼にまだ自分を刺激する力があるとは思いたくもない。もう決してそんなことがあってはならないのだ。


 時計は午後九時を少し回ったところだった。母親が神経過敏になっているにもかかわらず、マシューは今日も一日元気に遊び、疲れて早々に寝付いてしまった。
 がらんとしたリビングには、テレビのニュースキャスターの声だけが響いている。別に見てもいないが、静けさに耐えられないため消さずにいた。

 クリフに会いたい……。
 突然無性に彼の訪問を待ち受けている自分に気付いてはっとする。
 今まで大抵この時間は 彼とたわいもないおしゃべりをして過ごしていた。あるいは無言でテレビを見ていた時もある。
 だが、いつも暖かな陽溜まりのような彼の存在自体が、サマンサの孤独を限りなく癒してくれていたのだ。こんなことになってからそのことに気付いても、もう遅い。
 なんだかもう随分顔を見ていないような気がした。

 彼のことをどう思っているの? 突然心の中で小さな声がささやく。
 わたしが彼をどう思っているかですって?
 もちろん彼はまたとない素敵な友人、頼り甲斐のある素晴らしい友達よ……。


 ふいにドアのベルが鳴った。
「クリフ、クリフね」
 我ながら驚くほど急いで玄関に飛んで行き、サマンサは笑顔でドアを開けた。その途端さっと表情が凍り付き、顔色が変わった。

「マット・エイモス!」
 そこに立っていたのは、彼女が待っていたクリフォード・オースティンではなく、あのマット・エイモス・マロリーだった。

「やあ、入っていいかな」
 彼はゆったりした動作で、開いたドアにもたれかかりながら、こう尋ねた。半分閉じた目に余裕の笑みを浮かべている。今日の彼はこの前とは打って変わってカジュアルなアイボリーのポロシャツとキャメルのスラックス姿だった。

「何の御用かしら?」
 最初のショックが少し静まると、サマンサは大急ぎで防御姿勢に入った。氷のような声と視線で彼をにらんで問いかける。
「冷たいな。四年ぶりじゃないか」
「わたしはもう二度と会いたくなかったのよ。今すぐ帰ってちょうだい、マット。コンチネンタル・エンタープライズの社長が、今時分こんな場所にいたと噂になっても構わないのかしら? 週刊誌の記者が大喜びで飛んでくるわよ」
「それは願い下げだな。中に入れてくれよ。話がある」
「何のお話でしょう? よろしかったらここでどうぞ。そしてさっさと帰ってください!」
 彼はにやにや笑いを引っ込めた。目に怒りの表情が現れる。
「子供のことだ。わかったら中に入れてくれ」
 サマンサは顔から血の気が引くのを感じた。気がつくと身体を引いて彼を通していた。マット・エイモスは、がっしりした大きな身体をドアの中に入れると、彼女のリビングを見渡した。

「結構いい家に住んでるじゃないか。未婚のシングルマザーにしては」
 彼の皮肉の意味を理解するのに、数秒間かかった。思わず強い怒りが沸き上がった。
「わたし達のこと、調べたのね」
「あのレストランで一緒だった奴は、別にご亭主でもなんでもないってことをかい? ああ、調べたとも。君達のことは全部ね。一週間もかかったよ」
「いったい何のために?」
 怒りと不安で息が詰まりそうな気がしたが、気丈に持ちこたえた。震え声になるまいと、唇を噛みしめた。
「今言っただろう。子供だよ。それに君もね」
「あの子が何か?」 思わず声が鋭くなった。
「あれは、僕らの子供だな?」
 彼女の方に鋭い視線を投げかけながら、彼はゆったりと問いかける。
「いいえ! とんでもないわ」
 反射的にこう叫んだが、サマンサは今度こそ震え始めた。顎に手をかけられ、顔を上向かされる。彼の眼差しは、彼女の隠し切れない激しい動揺から、言わずもがなの真実を確認したようだ。
「しらを切っても無駄だよ。あの子の出生証明書の記載を見せてもらった」マットはサマンサの身体に手をかけたままで、つぶやいた。 「僕には息子がいたわけだ。名は何と言うんだった?マシューだったかい?」
 彼女が目を閉じたまま頑なに答えずにいると、彼はそっともう片方の手を上げて、その顔の輪郭を辿り始めた。
「僕の記憶の中にある君よりも、数段美しい。あの頃はまだ少女から大人になったばかりというイメージだったが」
 身体をもぎ離したいのに、力が出せず、彼女は半ば放心したようにされるままになっていた。だがマットの唇が降りてきた時、彼女はハッと我に帰った。
「あうっ」マットが鋭く叫んで唇を離した時、彼の唇から血が流れていた。
 サマンサの目が敵意を込めてきらりと光る。
「こいつ!」マットは怒って彼女を殴ろうとするように手を振り上げた。



 その時もう一度ドアのベルが鳴った。二人が硬直したように身動きできずにいると、鍵をまわす音がしてクリフの声がした。
「サマ、いないのかい?」
 帽子を脱いでリビングに入って来るや、クリフは驚きと緊張の眼差しでその場を一瞥した。彼の青い目が細められ、ハンサムな顔に苦々しい表情が現れる。

「これはどうやらお邪魔したようだ。失礼するよ」
 低い声でこうつぶやくなり、カウボーイハットを再び被り直すと、回れ右をして出て行こうとした。サマンサは 金縛りが解けたように身動きし、急いで彼に駆け寄った。
「だめ、クリフ、お願いだから行かないでちょうだい!」

今まで聞いたこともない、哀願するような彼女の声の調子に、クリフはビクッとしたように足を止め彼女を振り返った。
「帰るのはあなたの方よ、マット。さもないと本当に警察を呼ぶわ」

 サマンサは静かに、だがはっきりと言った。マットは腹立たしげにクリフを数秒間見据え、もう一度彼女にこう告げた。
「よかろう。だが次は君が僕を訪ねて来る番だ。子供の親権について話がある。これは僕のオフィス直通の番号だ。一週間以内に連絡がなければ、僕は事を起こす」

 彼がサマンサの前に放ったメモが、ヒラヒラと空を切って落ちた。マットはそのまま荒々しくドアを閉め、家から出て行った。


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