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 つけっぱなしのテレビから、歌謡ショーの演奏が流れている。
 マットが足音も荒く立ち去った後しばらく、二人は動かずにお互いを見つめていた。それはほんの数十秒足らずだったかもしれない。サマンサは放心したようにその場に突っ立っていた。

 クリフは帽子を置くと、ゆっくりと彼女の前に来た。彼はマットが落として行ったメモを拾い上げて眺め、まだ身体を震わせて立ちすくんでいるサマンサに目を移す。
「今にも気絶しそうな顔だ」
 彼女の顔を見ながらクリフはつぶやくように言った。おびえたように見開かれたブルーグレイの瞳を覗き込み、再びさっきの闖入者への激しい憤りが、身体の奥から突き上げてくるのを感じた。

「わたしなら、大丈夫……」
 こう言いながらサマンサは目を閉じ、何とか震えを静めようと両手を身体に巻き付けた。クリフがためらうようにゆっくりと手を伸ばし、彼女をそっと抱き寄せると、思わず彼にもたれかかり、たくましい胸に頭をもたせかけた。さわやかな香りとぬくもりに包まれた時、思わずサマンサの目から涙が溢れ出した。声を殺してすすり泣く彼女を、クリフは両腕の中にしっかりと包み込んでいた。

しばらくの間、二人はそのままじっとしていた。ようやく少し気持が落ち着いてきた。彼のシャツの胸元がぐっしょり濡れてしまっていることに気付き、サマンサは慌てて顔を上げた。
「ごめんなさい。あなたのシャツが台無しになって……」
 だがその言葉はクリフの目を見た途端、引っ込んでしまった。彼はサマンサがこれまで見たこともないような表情をその青い瞳に浮かべて、彼女をじっと見つめていた。
 目の奥に雷鳴が閃くのを見たと思った瞬間、クリフの唇が彼女の唇に重ねられていた。


 彼の唇は、引き締まっていて暖かだった。取り乱した彼女をなだめ、慰めるようにゆっくりとした動きで、サマンサを優しく覆い包み込む。その動きにつれて彼女の緊張した心がほぐれ、和んでいくのを感じた。

 今まで誰にもこんなふうにキスされたことはなかった。かつて夢中になったマットのキスは、奪い取るように荒々しくて性急だった。こんなふうに、水の中に心地よく、漂うような感覚になったのは初めてだ。
 その感覚に足元をすくわれそうになって、思わず彼女の手がクリフの肩をつかんだ。



 その時突然、クリフが何かつぶやきながらサマンサの身体を押しのけた。

 ハッとしたように、サマンサも肩から手を離す。だが彼はそのまま、彼女を再び抱きかかえるようにしてソファーに座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「大丈夫かい?」気遣わしげに彼が尋ねる。
「あいつは何をしに来たんだ?」
その言葉にさっきの悪夢のような対面を再び呼び覚まされて、彼女は手で顔を覆ってしまった。
「子供のことでってそう言ったわ。あの人調べたんだわ。わたしのことを全部。それにマシューのことも……、あの子の出生証明書まで……」
 サマンサは絶望的な眼を向けた。
「親権について話があるって……言うのよ。クリフ、信じられないわ。今更のこのこと出て来て、あんなことを……四年前、あんなに手ひどくわたしを裏切っておいて、今更……もうこりごりなのに」
 クリフは真剣な表情で、サマンサの興奮した途切れ途切れの短い説明に耳を傾けながら、それを繋ぎ合わせマットの真意を探ろうとしていた。マット・エイモス・マロリーのような男なら、こうと思ったことは必ずやってのけるに違いない。目標を達成するためには手段を選ばないワンマン社長――不動産・ホテル業界ではそのことを知らないものはいない。
「マシューの出生証明書に、あいつの名前を記載していたのか?」
 驚いたようなクリフの鋭い声に、サマンサは力なくうなだれ、うつむいた。
「わたしが馬鹿だったわ。でもあの時は他にどうしたらいいかわからなかったの。まさか後からこんな事になるなんて、思っても見なかったし……」
「あいつに見つけて欲しかった、と言うわけじゃなく?」
 クリフに疑わしそうな顔で問いかけられて、胸が痛み出した。
「もちろんよ」
 きっぱり言い切っては見たものの、自分でも心の奥底を覗くのは怖い気がする。
「だが、それは話をややこしくしたな」彼は深刻な表情になった。
「彼が父親だと認める、法律上のれっきとした証拠があるわけか。それであいつは親権を欲しがってるようなことを言い出した、と言ったね?」
 確認するように問われて、力なくうなずく。それだけでなくわたしも……。今やサマンサの全身に、強い虚脱感が広がり始めていた。

「実は僕もこの一週間、あいつのことを色々調べていたんだ。あれくらい有名人なら、それほど難しいことでもないからね」
 クリフはそう言いながら、シャツのポケットから小さく折りたたまれた紙片を取り出し広げて見せた。細かい字でプリントされた文字が見える。
「コンチネンタル・エンタープライズは、ニューヨークのパークアベニューにビルを持っていて、そこが本社になってる。あいつはそのビルの最上階のペントハウスに住んでいるようだ。妻とは二年前から別居状態だが、まだ離婚はしていない」
 一瞬言葉を切って、彼は反応を伺うようにちらりとサマンサに目を走らせた。そしてまたすぐに続けた。
「あいつとその妻の間に子供はいない。そしてあの時レストランで連れていた女性が、奴の今の恋人だという噂があるファッションモデルだな」
 メモを見ながらこれだけ口早に言うと、ショックを受けていないかどうか確認するかのように、クリフはサマンサに再び目を向ける。そのぼんやりした表情を目にして、彼女がもはや限界に達していることが分かった。他にもっと詳細なこともわかっていたが、今日はこれ以上言うまいと考え直した。


 無理もない。何もない平穏な生活が突然変わってしまったのだ。それに関しては、クリフも責任を感じていた。あの日もしあの店に行かなければ……。
 だが済んでしまったことをあれこれ思っても、益の無いことだ。
 今、サマンサには、考えて自分の行くべき方向性を出す時間が必要なのだ。思いもよらない偶然から、今再び接近して来たマット・エイモス・マロリーとの関係をどうしたいのか。よりをもどすのか、それとも戦うのか。それこそが彼女自身が囚われている、過去のくびきを破って新しい一歩を踏み出すために、是非とも辿らなければならない道なのかもしれない。

 だがもし彼女がマットを選んでしまったら……自分はどうするのだろう?
 あのレストランでの様子から考えれば、それも十分にあり得ることだった。

 クリフォード、お前は底抜けの大間抜け、大馬鹿だ。まったく何て危険な賭けをしようとしているんだ? 彼女を愛しているなら、そんなチャンスを与えるべきではないだろうに……。

 クリフはささやきかける声と必死で抗った。目の前で青ざめて俯いている頼りなげな姿を見ると、胸が衝かれる思いがする。思い切り抱きしめて、慰めと一人ぼっちではないということを解らせてやりたかった。

「サマ……」クリフはためらいがちにそっと呼びかけた。
 彼女がビクッとしたように顔を上げ、苦痛に満ちた大きな瞳で彼を見た。
「こうなった以上、君がどうしたいのか、それを考える時間が君には必要だと思う。だがとにかく今夜はおやすみ。何も考えずにね。また来るよ」
 そう言って立ち上がろうとする彼を、サマンサの手が引き止めた。
「クリフ……」  とっさに彼の名が口をついて出たものの、自分が何を言いたいのかどうしたいのかさえ、よく分からなかった。だがそのすがりつくようなブルーグレイの目を見返した時、彼はそれ以上自分を抑えることができなくなった。

 小さなうめき声とともに、クリフの両手が彼女の顔を包み込んだ。そっと彼女の顔の輪郭を辿りながら顔を近づける。サマンサは目を閉じた。再びゆっくりと覆い被さってきた唇は、さっきと同じように優しかったが、そこには抑制された強い情熱の火花も見え隠れしていた。
 クリフの唇は、彼女の頬から敏感な耳元、そして顎へと時間をかけて移り、さらに彼女の閉じた唇を舌で刺激し彼女の唇を押し分け侵入する。心に秘めて長い間、ただ焦がれてきた彼女を深く探り味わった。
 いつしかサマンサも、彼に身体を押し付けるようにしながら、夢中でキスを返していた。クリフが彼女の身体をソファーの背に強く押し付けた。喉元から再びうめき声が漏れる。ようやく、どうにか身体を引き離した時には、二人とも呼吸が乱れていた。

「サマンサ……」
 言うべき言葉を探しながら、彼女の顔を覗き込む。まったく突然自制心が吹っ飛んでしまった。彼女は今のキスにショックを受けなかっただろうか。それでなくても大変な状態なのに。

 だが彼女自身、自分の行動にどう説明つけたらいいかと困惑している有り様だった。目を伏せ、右手で落ち着きなく髪をかき上げる。
「ごめんなさい。今日はちょっとどうかしてるみたい」
 クリフはほっとしたように微笑んだ。
「いや、謝る必要はないさ。そういうことなら僕の方はいつでも大歓迎だ」

 そう言いながら彼女の身体をもう一度軽く抱擁すると、再び真剣な口調になった。
「この件は、君がどうしたいかに懸かってるんだ。今日は帰るけどもし僕に何か相談したいことがあったら、僕はマウント・リバー牧場にいる。いつでも来てくれて構わないよ」
 最後にそっと彼女の額にかかる髪をかき上げ、そこに優しいキスを落とす。

「おやすみ」
 クリフは帽子を取り上げて、振り返りながら部屋を出て行った。



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