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 カンザスシティ市街地を出ると、辺りの風景は一変する。

 周囲はどこまでも続くだだっ広い牧草地に変わり、ただハイウェイだけが東西に延びている。コロラド州へ続くI−70に入る手前の、インターチェンジから幹線道路に入り、四十分ほど車で北西へ走って行く。 やがて、牧場の存在を示す白塗りの木の柵と、Mt・Riverと書かれたゲートが見えて来た。ここがオースティン家代々の、マウント・リバー牧場だ。
 とにかく広い。現代的な風車が三基、爽やかな朝の風を受けながら、ギシギシと音を立てて回っていた。向こうの青々と広がる牧草地に向かって、外に放された牛の群れの間を縫うように、カウボーイ達が数人、馬で駆け抜けて行くのが見える。
 場所だけは以前から知っていたものの、サマンサはMt・リバー牧場に、今まで足を踏み入れたことはなかった。ゲートをくぐって更に数百メートル行くと第二ゲート。そこから前方に幾つも並ぶ建物が見える。
 あの中のどこにクリフが居るのだろう。

 そう考えながら、私道にゆっくり車を進めて行くと、ひずめの音と共に馬が一頭後方から駆けて来るのがミラーに映った。聞いてみようと車の窓から顔を出す。
 細身のジーンズにコットンシャツ、カウボーイハットといういでたちだが、どうやら女性らしかった。
「おはようございます。この牧場に何かご用でも?」
 カウボーイハットから長い鳶色のポニーテールが揺れ、明るい声がした。顔を上げると、きれいな女性が立っている。年はサマンサより二、三歳年上かもしれない。向こうも値踏みするようにサマンサをじろじろ見ているのが分かった。 「あの、ミスター・オースティンにお会いしたいのですが……」
「ミスター・オースティンなら、多分今はまだお食事中ね。母屋の方にいらっしゃいますよ。ご案内しましょう」
 余裕の笑みを浮かべて、彼女はまた馬に跨ると、前に立って道を進んで行く。その後に付いて車を徐行させながら、サマンサは何となく場違いな所に来てしまったような、居心地の悪さを覚えた。


だがもう後には引けなかった。あれから毎日サマンサ宛に赤いバラの花束と言付けをよこすマットが、それだけでなく、今度は子供の保育園にまで、手を伸ばして来たからだ。マシューを預けている保育園の園長から、マシューの写真を撮りに男が来たと告げられ、園長が断ると手紙を押し付けて去って行ったことを聞かされた時には、背筋が寒くなった。
 よくよく聞いて見ると、やって来たのはマット本人ではなく別の男だったらしい。震える手で渡された封筒を開いて見ると、簡単なメモ風に、「俺に会いに来い。あと期限まで二日だ。君を待っている。 M・A・M」とだけ書かれていた。
 この五日間、花もメッセージも受け取りを拒否し、何とか無視しようとがんばって来た。マットは気まぐれにあんなことを言ったに過ぎない。本気じゃなかったのよ。無視していれば、そのうち飽きるわ。必死にそう思い込もうとしていた矢先、それを覆すようなこのアプローチに会い、もう放っておけないと思った。
 そのために今朝、勇気を振り絞ってここまでやって来たのだ。今の自分にはクリフ以外頼れる人は誰もいない。相談に乗ってもらおうとようやく決心して仕事を休み、朝子供を預けてすぐクリフに会いに来たのだった。
 それにしてもこの人は一体誰だろう? クリフの牧場の人だろうか。女性の牧童がいるとは知らなかったけど。そんなことを考えているうちに、大きな二階建てのランチハウスの前に案内され、車を停めた。オースティン家の歴史を表すような白塗りの木造で、昔風のポーチには建物を囲むように円柱の柱がついている。
 この家のことをよく知っているらしいその女性の後について、サマンサは家の中に入って行った。飾り気のない実用的な内装だ。廊下の突き当たりに、大きなテーブルのある台所があった。東向きの壁いっぱいにとられた窓から眩しい朝の光が、さんさんと降り注いでいる。クリフはそこで一人新聞に目を通しながら、食後のコーヒーを飲んでいる最中らしかった。


「おはよう、クリフ」 少し離れた所から女性が声をかける。
「やあ、ミリアム、今朝はやけに早いな」
 こう言いながら顔を上げたクリフは、ミリアムに続いて入ってきたサマンサを見るなり、驚いて立ち上がり、足早に二人の方へ近寄って来た。
「サマ! 来てくれたのか?」
「あなたも相変わらずね。まったく隅に置けないプレイボーイだこと」
 ミリアムと呼ばれたその女性は、揶揄するようにこう言うとクリフの頬に手を伸ばして触れ、二、三度軽く叩いた。それからサマンサを冷たい目でちらりと見つめ、さっさと立ち去って行った。お礼の言葉を言いそびれ、その後ろ姿をぼんやりと眺めていると、クリフが傍らに立つのが感じられた。
「おはよう」
 彼は嬉しそうに笑顔でこう言った。
「君に朝の挨拶をするのは、つき合い出して以来、初めてじゃないかな」
「ええ、そうかもね」
 彼の顔が何だかまともに見られず、サマンサは伏し目がちに あいまいな表情を浮かべた。そのまま、クリフが引いてくれた椅子に浅く腰を下ろす。
「朝食は? もう済ませた?」
 黙ってうなずく彼女を見て、クリフはコーヒーをついで彼女の前に置き、自分ももう一杯お代わりをした。入れたてのコーヒーのよい香りがサマンサの鼻をくすぐった。
「彼女――ミリアムさんて、誰なの?」
 こんな質問をするつもりではなかったのに、言葉が勝手に口をついてしまった。彼はにやりと笑った。
「ミリアムは、幼馴染みなんだ。隣の牧場主の娘でね。小さい頃から毎日のように出入りしてるから、ここのことなら何でも知ってる。気になるかい?」
「まあ、別にそんなつもりでは」
「それはともかくとして……。世間話がしたくて来たって顔じゃないな。あいつのことかい? 何かあったのか?」
 クリフがふいにまじめな顔になった。サマンサは、黙ってマットのメモをクリフに手渡した。それを受け取って読み、再び彼女を見る彼の視線は、突き刺さるように険しくなっていた。
「他にも何か言って来てるのか? この六日の内に」
 低い声で問う。
「毎日、バラとメッセージが届いてるわ。もちろん全て受け取り拒否してるけど」
 疲れたようにつぶやくと、彼が小声で悪態を付くのが聞こえた。
「それで、君はどうするつもりなんだ? もう考えたのかい?」
「考えるまでもないことだわ。彼が何と言ってこようとわたしは動く気もないし、ましてマシューの親権なんて論外よ。ただ、これから彼がどういう手を使って来るのか、見当もつかなくて。わたしそういうことには全く疎いから。それにうちには弁護士を頼むような余裕もないのよ。どうしたらいいのかしら」
「そうだな」
 彼女の返事を聞き、心底安堵していることに気付かれたくなくて、クリフはコーヒーを口に運んだ。
「とりあえず、君は今のフラットを出た方がいいんじゃないかな」
 サマンサのうつむきかげんだった顔が、ピクリと上がった。
「何ですって?」
「あそこで君一人でいるのは、あまりにも無防備だ。こんなことになった以上君達だけでいたら、またいつ何時でも、あいつはやってくるかもしれない」
「まさか」
「いや、冗談じゃないよ。たとえば突然車がフラットに乗り付けて、君達をさらったりしたら? あり得ない話じゃない。そこまでしなくとも、毎日のようにプレッシャーをかけるくらいは、朝飯前だろうな。一か月も経たないうちに君の精神は、ボロボロになってしまうかもしれない」
 ごくりとつばを飲み込み、引きつったように答えていた。
「でもそんなこと……」
「あいつならやろうと思えば何でもやるだろう。不動産業界でも成功の背後でかなりダーティな手を使ってるという話だ。いずれにしても僕も以前から心配だった。女性の一人暮らしにはね」
「じゃあ、どうしたらいいって言うの? 別のアパートを捜して引越す? そんなお金ないのよ」
 目を閉じてこめかみに手をやる。思わずきつい口調になってしまった。
「だったら、しばらくの間、ここへ来るかい?」
 クリフは真顔で言った。
「君とマシューと二人で。歓迎するよ」


 一瞬あっ気に取られて、目を見開いた。ぽかんと口が開く。
「まさか。冗談でしょう」
「どうして?」
 彼の瞳が、意外そうに細められる。
「あなたにそこまで迷惑をかけられないわ」
 クリフの青い瞳が更に険しくなる。
「まだそんな他人行儀なことを言ってるつもりかい? マシューや自分を守りたいと思うなら、そんな場合ではないと思うがね。今の君に他にどんな自衛手段がある?」
 サマンサは口をぎゅっと引き結んだまま、もう一度彼を見た。確かに彼の言う通りだ。だがどうしてそこまで言ってくれるのだろう。自分達二人を抱え込んでも、彼にメリットなんて何もないはずなのに。
「だけど、なぜそこまで言ってくれるの? わたし達なんか、あなたに迷惑をかけるだけでしょうに」
 言うべきでないと思いながらも、とっさに頭の中に浮かんだ疑問が、口をついてしまっていた。彼の目が細められる。
「友達だろ。それとも僕に何か、魂胆があるとでも言いたいのかい? だったら、君の好きにするといいさ」
ため息をつきながら、クリフは立ち上がった。
「僕はもう行くよ。午前中に片づけておきたい仕事があるんでね。君はゆっくりしてってくれて構わない」
 彼がそのまま部屋から出て行こうとした時、サマンサは追いかけて彼の腕に手を触れた。
「待って」
 彼が硬い表情のまま振り向いたので、サマンサは急いで手を離した。
「悪かったわ。あなたの言うとおりなのに。ありがとう、クリフ。そこまで言ってくれて」
 そして唾を飲み込んで、一気に言ってしまう。
「それじゃお言葉に甘えて、しばらく居候させてもらっても構わないかしら」
「もちろんだとも。そう来なくちゃ」
 フッと彼の緊張がほぐれる。いつもの笑顔を見せると、彼女についてくるように促し、二人は食堂から外へ出た。



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