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 クリフが小型トラックを運転し、サマンサのささやかな荷物と家具が、Mt・リバー牧場のランチハウスに運び込まれたのは、その日の夕刻だった。

 午前と午後の数時間かけて荷物を整理したあと、サマンサは保育園に子供を迎えに行き、しばらく休ませると園長に告げた。理由をどうにかごまかして車に戻ると、彼女はマシューを抱き締めしばらくじっとしていた。
「ママ、どうしたの?」
 子供がかわいらしい表情で訊ねる。何が起こっているか全く知らない無邪気な顔。思わず涙が出そうになるのを堪えて、にっこり微笑みかけた。
「なんでもないのよ。わたし達今晩からしばらく、クリフ小父さんの家に泊まるの」
「クリフ小父さん! じゃあお馬が見られるの?」
 嬉しそうなその声に思わず子供の顔を見る。いつもクリフから馬や牛の話を色々聞いているが、まだ一度も行ったことがなかったので、期待に目が輝いている。彼女は、強いて明るい声を出した。
「ええ、もちろんよ。クリフおじさんのお家はとっても広い牧場だから、馬も牛もいっぱいいるわ。あんたも大きくなったらカウボーイになりたいの?」
「うん!」
 元気いっぱいの返事が返ってきた。サマンサは思わず息子の柔らかな髪を、手でくしゃくしゃにしてから前を向くと、ハンドルを握りアクセルを踏んだ。

「この子を守るためなら、何でもするわ」
 運転しながら、彼女は心中の決意を声にしていた。



 牧場に二人がついた時には、午後七時を回っていた。夕食を済ませてきた方が良かっただろうかと思いながら、ランチハウスの中に入っていくと、ちょうどクリフが階段を降りて来た所へぶつかった。

「やあ、来たね」二人を見てにっこりする。
「荷物は全て、ゲストルームに運んでおいたよ」
「ありがとう……」
「食事は?」
「食べてこれたら良かったんだけど」
 サマンサがためらいがちに答えると、クリフは至って気楽に言った。
「先に食事にするかい? それとも部屋で着替えてからにする?」
「着替えたいわ」
 こう答えると、彼はいつものようにマシューを抱き取って、今降りてきた階段を再び上がっていった。

 馬や牛のことを興奮しながら問いかけてくる小さなマシューに、優しく答えながら「明日見せてあげよう」と約束しているクリフの様子を後ろから見ていると、思わず微笑が浮かぶ。
 何だか本物の親子みたい。ふとそんな考えがよぎり、急いでそれを抹消した。

「ここだよ」
 そう言われて通された部屋は、通気の良い大きめの客室だった。清潔な白いシーツを掛けたセミダブルのベッド、木目のクローゼットに椅子とテーブル。彼女の荷物は部屋の隅にまとめて置かれていた。彼が部屋に入って行って、中のドアを開ける。
「バスルームはここだ。タオルも入ってる。何か足りないものがあったら、持ってこさせるけど。マシューのベッドも要るだろうね」
「い、いえ。もう十分よ。本当にありがとう、クリフ。迷惑かけてごめんなさいね」
 少し赤くなって口ごもるサマンサの額を、クリフは指先で突ついた。
「少しも迷惑なんかじゃないさ。遠慮するなよ。じゃあ、8時の食事に間に合うように降りておいで」



 サマンサは、子供を寝かしつけた後も長い時間寝付けなかった。忙しいクリフにあまり迷惑をかけてはいけない、その思いから夕食を一緒にするのを断り、簡単にトーストとマーマレード、そしてコーヒーをもらってきて、部屋で済ませたのだ。

 子供の隣に横になって安らかな寝息を聞きながら、ベッドの上で幾度も寝返りを打った。これから、どうするつもり? そう自分に問いかける。
 ここから職場に通うには、マシューを別の保育園に預けなければならないが、ここは町から随分離れている。付近には、このMt・R牧場と同じような牧場しかないようだ。
 マットの目は誤魔化せるかもしれないが、自分の生活手段も失うのではないだろうか。やはり無謀だったかもしれない。だが、あのままフラットにいては、マットがいつまたやってくるかもしれない。それが何よりも怖かった。

 マットに腕力では到底太刀打ちできない。また、あの強引に迫られた四年前の二の舞を踏むようなことになったら……。あの時は彼が結婚しているとも知らず、彼の甘言を真に受けて、強引で性急な行為を愛の表現だと誤解してしまった。
 サマンサは長い間締め出してきた忌まわしい記憶を、恐る恐る引っ張り出してみる。当時恋に夢中でした甘い行為も、今では胆汁のような苦い記憶に変わっていた。だがまだ心のどこかで、マットに魅力を感じる部分が残っているのも事実だった。だから余計にもう二度と会いたくなかったのだ。


 クリフ……。

 サマンサの思いが最後にたどり着くのは、なぜかいつもクリフの青い瞳だった。
 彼の笑顔。そしてキス。その熱さをいつの間にか思い浮かべて身体がほてっている自分にはっとする。何なの? これではまるで……。
 思わず頭を左右に振って締め出そうとする。しっかりするのよ。ティーンエイジャーでもあるまいに、子持ちの女に甘い考えを抱くことは許されないのだから。

 だが今まで自分にそう言いきかせて一人で頑張ってきた自分が、とうとう彼の優しさに頼ってしまった。
 マシューが生まれてから今日まで、誰にも頼らず生きてきたし、それが誇りでもあったのに。一度そういう甘えを自分に許すと、腰砕けになってしまいそうで怖かった。

 とりあえず、クリフに何とか生活費だけでも支払おう。あるいは……。彼女は密かに決めた。いつのまにか、眠気に襲われ、彼女は眠り込んでいった。



 目を覚ましたとき、時計は午前8時を指していた。朝寝坊してしまったことに気付いて、飛び起きる。
 急いでTシャツとジーンズを着て鏡を見ると、そこには化粧っ気のない、思いつめた青い顔の女がいた。自慢のストロベリーブロンドもくしゃくしゃだ。
 急いで髪にブラシをあてる。このままでいいかしら。化粧してから行くべきかしら。ふとミリアムの顔が思い出され、少しむっとしながら、関係ないわと自分に言い聞かせる。

 子供がまだしばらく起きそうにないので、先に階下に降りて行った。クリフの姿は見当たらない。食堂を覗くと十数人の男達でにぎやかだった。一緒に食事をするのも抵抗があったので、引き返すと、ハウスから外に出てみる。


 今朝も空には雲一つなく気持ちよく晴れていた。風もあまりない。暑くなりそうだ。
 何気なく隣の納屋の方へぶらぶら歩いて行くと、突然ヒステリックな女性の声が聞こえてきた。思わず立ち止まった彼女の耳に、その言葉が耳に飛び込んできた。

「だからってどうして、あなたが抱え込まなくちゃいけないのよ!? そんなのあなたには、まったく関係ないことじゃないの!」

 もしかして、自分達のことを言われているのだろうか。ぎくりとしてさらに耳をそば立てる。低い声が何か答えているが、こちらは聞き取れなかった。
「どうなっても知らないわよ! パパが心配していたけど、まさかと思ったのに」

 声を荒げながら、納屋から出てきたのはミリアムだった。今日は昨日とはうって変わって、首元に細いストラップでつった濃い黄色のサマードレスを着て、鳶色の豊かな髪も解いたまま、背中に波打っている。
 サマンサが呆然として立ち尽くしていると、ミリアムは彼女に気付き、怒りの矛先をこちらに向けてきた。
「あなたね。自分のせいでクリフに損害を与えてもいいっていうの? 何てひどい人!」
「ミリアム、いい加減にしろ!」
 背後から厳しい声が飛んだ。二人が一斉に振り返るとクリフが上半身裸でジーンズだけという姿で立ち、ミリアムを睨みつけている。
「彼女のせいじゃない。もういいから行ってくれないか」
 クリフがやや落ち着いた声でそう言うと、彼女は一瞬ためらった後、唇をかんで車の方に走り去った。それを見送ってから、クリフはサマンサに目を向けた。


「やあ、おはよう。朝っぱらからすまないね」
 青ざめた顔で、サマンサはクリフから目を背けたまま訊ねた。
「何かあったの……?」
「べつに」
 彼は無表情に小屋に戻ると中を片づけ、チェックのシャツを羽織って再び出てきた。
「彼女は時々ああなるんだ。急にヒステリーの発作にでもかられたんだろうよ。君は気にしなくていい」
 彼女はクリフのボタンの掛けていないシャツから覗く、日焼けしたたくましい胸をちらりと見やった。
 さっき二人が納屋で何をしていたのかと想像し、思わず頭をガツンと殴られたようなショックを受ける。
「ご、ごめんなさい。あの、わたし、お邪魔したんじゃなきゃいいけど……」
 無言のまま不信そうに問う彼の目を避けるように、サマンサは視線を遠方へさ迷わせた。だが近付いてきた彼の手によって、簡単に顔を彼の方に向けられてしまった。

「何か妙な誤解をしてないだろうね? 念のために言っておくが、彼女とは別に何でもないよ」
「そうかしら?」
 小さく呟くと、彼女を見つめる彼がさらに訝しげな顔になった。

 その時突然、辺りの空気がピンと張り詰めたような気がした。さっきの会話の意味を理解して、小さく叫び声を上げると、クリフに向き直り慌てて問いただす。
「何かあったのね。もしやマットがあなたに何か?」
「何でもないって言ったろう。それより夕べどうして食事に来なかったんだい?」
「クリフったら!」
「それで、朝飯にはつきあってくれるんだろうね?」
 軽い口調とは裏腹の真剣な眼差しで、サマンサの顔をじっと見つめていたクリフはふいに、身をかがめて彼女の口に強く唇を押し付けた。いつもの彼にそぐわない荒々しいキスだった。
 その奥に潜む切羽詰まった緊張感が、彼女にも伝わってきた。それを追い払おうとするように、さらに熱く彼女の唇を探り侵入する。侵略に堪え切れず、サマンサが思わず目を閉じて小さくうめき声をあげた時、ようやくクリフは顔を上げた。

 赤らめた彼女の顔を見て、少し微笑むと手を取って歩き始めた。口を開いた時はもう、いつもの彼に戻っていた。
「今日は、うちの牧場で月に一度の野外バーベキューパーティがある日なんだ。君達はついてるよ。全体が仕事を早めに切り上げるから、午後6時くらいに外へ出ておいで。ダッヂオーブンで焼いたケーキを一度食べてごらん」
「まあ、本当に?」

 サマンサは思わず期待の目を向けた。今日一日くらい、このまま彼に甘えていても許されるだろうか。
 サマンサはクリフの手を強く握り返した。


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