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ニューヨーク


 マット・エイモス・マロリーは、オフィスの部屋から朝のニューヨーク街を見下ろしていた。
 時刻は午前9時を回ったばかり。今日の定例報告会が始まるまであと一時間足らずだ。だが今彼の心を占めている関心事は、部下の報告書の薄っぺらな中身などではなく、ストロベリーブロンドの女と、黒髪の小さな子供のことだった。

 四十二歳といえば働き盛りだが、もう若くはない。
 後継者のことなど、息子がいると知るまでは真剣に考えたこともなかった。このまま行けば、自分が引退後は会長職に退き、最もこの会社に貢献した者、それもおそらくは身内の中の誰かを、次代社長に決めていたに違いない。
 だが、今降ってわいた息子の出現に、彼は大きく意識を奪われていた。そして、その母親、サマンサ・バークスにも。
 数年ぶりに見た彼女は、かつてよりもはるかに女らしくなっていた。そのイメージが脳裏に焼き付き、今再び彼の欲望をあおっていた。マット・A・マロリーともあろう者が、感傷的になっているとは思いたくもないが、このターゲットは、次のホテル買収計画よりも遥かに魅力的で、是が非でも、手に入れたいものだった。


 その二人が、フラットから姿を消したという報告を受けた時、彼にはその行き先が容易に予測できた。今、デスクの上には、マウント・リバー牧場とその取引先に関するファイルが広げられている。それを丹念に調べてから、幾つかのチェーン・ホテルに電話を掛ける。受話器を置いた彼の口元に、酷薄な笑みが浮かんだ。

「面白い。俺とやりあって見るがいい。いつまでもつかな。オースティン」
 彼はのんびりと煙草を一服くゆらせてから、会議に出るため部屋を後にした。



 
カンザスシティ



 夕暮れ時になった。Mt・リバー牧場の突き抜けるようなたそがれの空に、食事を知らせる鐘の音が鳴り響いている。
 サマンサが子供と共にシャツとスラックスに着替え、少し遅れて中庭へ出た時には、すでにバーベキューの大台が数箇所にセッテイングされ、大きな固まり肉のステーキが、これまた大きく切られたトウモロコシやキャベツ、ポテトなどとともに、香ばしい音を立てていた。

 皿とフォークを手渡され、ステーキとポテト、サラダを好きなだけとりわける。子供と一緒にあいたテーブルに座って、ぶ厚い焼き立て肉にかじりついた。マシューにも小さく切って与える。お腹が一杯になった頃には、そろそろ夜風が吹き始めていた。


 突然、少し先の方で騒々しい声が上がった。こういった喧騒は、普段仕事にいそしむ男達のフラストレーションの解消法なのだろう。そう考えて気にも留めず、サマンサはマシューに話し掛けていた。その日一日中、母を独占できてご機嫌な子供は、はじめて見る牧場に興奮しはしゃいでいた。

 牧場という場所には、普通女性はあまりいない。ここも例外ではないようだった。男達にじろじろ見られながら、素知らぬ振りをして歩いていた。マシューが眠そうになったので、一度部屋に戻って寝かしつけてから、もう一度外へ出る。
 サマンサはクリフを探していた。クリフに会って、明日から何かここで自分にできる仕事がないか、聞くつもりだった。皿洗いでも何でもやるつもりでいた。居候しながら、毎日ぶらぶら遊んでいるつもりは毛頭ない。
 だが、今朝の納屋での出来事以来、今日はまだ一度も彼の姿を見ていなかった。


 中庭に面した平屋建ての談話室と、カウボーイ宿舎の前にも、幾つかのかがり火がたかれ、大勢のカウボーイ達がたむろしていた。
 ざっと見ただけでも三十名、いや、もっと居るかもしれなかった。熱戦を繰り広げるビリヤード台の周囲にたむろしている男達、あるいは煙草を吸ったり、なみなみとついだビールのジョッキを抱えて椅子に座り、ポーカーに興じている者もいる。皆、筋骨たくましい屈強な男ばかりだ。

 クリフはどこだろうと、あちこち見渡していると、背後から声がかかった。
「ひょっとしてボスを探してるのかい?」
 振り向くと、カウボーイハットを斜にかぶった、あまり雰囲気のよくない男が二人立っていた。年は自分と同じくらいだろうか。傲慢そうに顎を上げ、黒っぽい小さな目が彼女の身体をくまなく検分するように動いている。
 サマンサははっとして、無言のまま急いで通り過ぎようとしたが、先に道をふさがれてしまった。
「ボスを探してるのかって、聞いたんだぜ? 俺はよ」
 二人のうち背の低い方の男が近付いて来る。
「ええ、そうですけど。あなた達に用はないのよ。通していただけません?」
 わざとつっけんどんに答えた。少しでも怖がっているそぶりを見せたら、もっと酷いことになるかもしれない。
「そいつはお気の毒にな。ボスならさっき向こうでミリアムさんに捕まってたぜ。きっと当分出て来れないよ。だからあんたもこっちに来て、俺達といっしょに楽しくやればいいじゃないか?」
 面白半分に相棒にウィンクしてにやっと笑うと、嫌がるサマンサの手を無理矢理引っ張って、ビールジョッキの並んだテントの下に連れて行った。他の男達が口笛を吹き、にやにや笑いながら眺めている。

 男が大ジョッキを手に取った。飲めと言うように、顔の前に突き出され、彼女は腹が立って男の手を振りほどこうとした。そこへ後ろからもう一つの手が彼女の肩を押さえつける。
 はっとした途端、無理に口にジョッキを押し当てられ、ビールを流し込まれていた。突然口に入ってきた大量のアルコールに激しくむせ返る。無理矢理飲み込んだ苦いビールは、焼けつくように口から喉に、さらに気管支にまで流れ込み、突然入ってきた大量のアルコールのせいで頭がくらくらした。

 思わずしゃがみこんでしまった。周りでやじる声が聞こえたが、膝を突いて激しく咳き込んでいるサマンサを心配してくれる者達もいるようだ。


 ふいに、あたりが水を打ったようにしんと静まり返った。まだ口元を抑えてむせ込んでいたせいで、急に静かになったのにも気付かなかった。
 暖かい大きな手が包み込むように背中にかけられ、さすってくれているのに気付いて顔を上げる。
 クリフが顔を強張らせて、彼女の上にかがみ込んでいた。

「サム、ホルト。こっちへ来い」
 ややあって、顔を上げたクリフが厳しい面持ちで、視線の先から逃げ去ろうとしていた二人の男に声をかけたのが聞こえた。それは嵐の前の静けさに似ていた。サムとホルトと呼ばれた男達は、いたずらを見付かった子供のように、顔を見合わせびくびくしながら、しきりに言い訳を口ごもり始める。

「ボ、ボス……、悪気があったわけじゃないんでさ。ただちょっとばかし歓迎の意を表して、ふざけてたんで」
「ここへ来い!」
 いつもの穏やかな彼からは想像もつかないほど、激しい怒声が飛んだ。
 恐る恐るクリフの前に歩み寄ったサムの襟首をつかむなり、強烈なフックを顔面に繰り出した。ふっ飛ばされてサムがどっと地面に転がった。次にホルトも、悲鳴を上げながらよろけ、尻餅をつく。

「女相手に悪ふざけはするなと、いつも言っているはずだ。守れないような奴らに用はない。今度問題を起こしたら必ず出て行ってもらうぞ。いいな!」
 厳しく周りの男達に聞こえるように言い渡すと、彼は人だかりに身振りで立ち去るように示した。


「立てるか?」
 クリフが再び彼女の側にきて、片膝を突いた。
「だ、大丈夫。ちょっとビールを飲まされただけだもの……」
 こう言いながらどうにか立ち上がったものの、足に力が入らずふらふらした。元々アルコールは苦手で、ビールでさえいつもせいぜい小さなグラス半分位しか飲まない。だが、さっきはいきなり、大ジョッキに半分くらいのビールを、喉に流し込まれたようだ。下を向くとこぼれたビールで胸元が濡れて、白いTシャツから下着が透けていた。
「ひどい目に会わせてすまなかった。あいつらがまさかこんな真似をするとは……。歩けるかい?」
 彼女の足元がおぼつかないのを見てとり、クリフは彼女の片腕を自分の肩にかけ、支えるように歩き始めた。挑発的なサンドレス姿のミリアムが、少し離れた所に立って、怖い顔でこちらを睨んでいる。彼はそれに気づいたが、無視して通り過ぎた。

 母屋に入り、サマンサが使っているゲストルームまで連れて行く。まだ厳しい表情のままサマンサを抱き上げ、眠っているマシューの隣に降ろした。

 外からの光だけの暗い部屋の中でも、彼女が自分をじっと見つめているのがわかった。ベッド脇に立って見下ろしたまま、クリフはその視線に絡め取られたように動けなくなる。
 沈黙したまま、しばらく二人は身じろぎもせずに見つめ合っていた。

 その時ノックの音がした。身体をもぎ放すように、クリフは部屋から外へ出ていった。


 ドアの前には、ジョーという黒人の男が立っていた。クリフはこの先代からの忠実な牧童を、廊下の隅に引っ張って行った。彼はMt・リバー牧場の牧童頭であり、クリフの忠実な友でもある。

「あんたは、どう思う?」
「サム達のことかい? あいつらは阿呆だが、普段はこんなことはしないな。誰かに頼まれでもしない限りはね」
 クリフの顔が、さらに険しさを増した。
「誰かにこうするよう頼まれた、とでも?」
「ああ、さっきあいつを少し締めてやったら、そう白状した。彼女をちょいと脅かして、逃げ帰るように仕向けてくれ、とでも言われていたようだ。誰に頼まれたのか聞いたが、それはごまかしてとっとと逃げやがった。心当たりはあるかい? あんたも何だかんだと辛いな、クリフ」
「わかった。もう行ってくれ。世話をかけてすまなかった」

 クリフは苦い表情で、しばらくその場に立って考えを巡らせていたが、やがて再び廊下を戻り、客室のドアを開いた。


 サマンサは、眠っているマシューを包み込むようにして、ベッドに横になっていたが、クリフが入って行くと、はっとしたように身体を起こした。
「シャワーを浴びて、寝間着に着替えた方がいいだろうな」
 そう言いながらボード上のスタンドの灯りを点けて見た途端、クリフはみぞおちに、強い一撃をくらったような気がした。

 サマンサの顔は、酔いのために紅潮し、とろけそうに見えた。まだ濡れて幾分透けて見える胸元に、否応なく目がすい寄せられる。彼女は、こんなにもセクシーで無防備な女性だっただろうか?

 サマンサが醸し出す強い誘惑の香りに抗うように、クリフは乱暴にクローゼットを開いた。引き出しをかき回し何とか着替えを探しだすと、急いでサマンサに放り投げる。
「寝る前にシャワーを浴びてそいつに着替えるんだ。僕はもう行くから」
「クリフ……、怒っているでしょう?」
 かすれた、心配そうな声。
「怒ってなどいないさ。少なくとも君に対してはね」
「じゃあ、どうしてそんなに怖い顔で見ているの? わたしにもどうすることもできなかったのよ。あの人達が突然……」
「わかってる。すまなかった。僕がそばについているべきだったんだ。ほら早く。バスルームまで歩けるかい?」
「クリフ……」
 サマンサがベッドから立ち上がりながら柔らかな声を出し、彼に向かって両腕を広げた。誘うように唇が少し開いている。
 見つめているうちに、手のひらがじっとりと汗ばんで来るような気がした。
 今すぐこの部屋を出て行け。クリフの頭の中で理性が激しく警告する。これ以上ここにいたら、頭がどうにかなってしまう。だがその警告とは裏腹に、彼の身体はまるで吸い寄せられるように、サマンサに近付いて行った。
「サマ……」
 ベッド脇に立つ彼女の顔を見つめながら、クリフもつぶやくようにその名を呼び返した。


 ふいに、彼女の両手が彼のダークブロンドの髪に差し込まれた。そのまま優しく引き寄せる。柔らかな唇が彼の口に重なった時、ついにクリフの自制心は、ぷつりと音を立てて切れてしまった。
 力強い腕で、彼女の身体を思い切り抱き締める。最初は彼女の方がからかうように舌を使っていたが、彼の高まりと共にたちまち形勢は逆転し、激しく求めて行くのはクリフの方になった。

 彼女の唇からは、かすかにアルコールの匂いがした。彼女の額、頬、耳たぶ、顔中にキスの雨を降らせ、次には唇に襲いかかると、飢えたような激しさでそれを開かせる。
 だがそうしながらも、彼はまだ自分の中で激しく葛藤していた。
 彼女は今酔っている。酔っているからこそ、こんなにまで無防備で大胆に自分の欲求に対して正直になっているのだろう。
 かつて交わした幾度かのキスの合間に、クリフも彼女の無意識の求めには気付いていた。子供中心に生きるシングルマザーとしての彼女の下には、彼女自身も気付いていない情熱的な女としての彼女がいる。
 だが、それを今こんな風に満たしてしまったら、朝になり、正気にかえった時、傷ついて後悔し自分を恨むかもしれない……。


 その時唐突に、彼の全ての思考が途絶えた。
 サマンサの手が彼の手を掴んで、自分の胸に押し当てたのだ。その柔らかな丸みを持った感触に、彼は気が狂いそうになった。

「サマ、だめだ。こんなことをしては……」
 最後の力を振り絞って、クリフはかすれた声で抗議しようとする。だが彼女はなおもその大きな潤んだような瞳でこちらをじっと見つめている。その眼差しは言葉以上に雄弁に、彼女の欲求を物語っていた。
 下腹部に、刺すような痛みが走る。ついに、嵐のような肉体の感覚に襲われ、クリフは目を閉じてしまった。
 もう常識なんかくそくらえ。今、二人とも同じ気持なのだ。

 再び目を開いた時、彼の手がサマンサの身体をさらうように抱き上げた。
 紅潮した頬にさっとかすめるようなキスをすると、そのまま部屋を出て暗い廊下を歩いて行く。つきあたりにある自分の寝室のドアを足で蹴り開け、奥にある大きなベッドに彼女を降ろした。
 彼のたくましい胸が激しく波打つように上下しているのを、外から差し込む薄明かりの中で、サマンサはぼんやりと感じていた。


 ベッド脇にかがみ込み彼女を見下ろしながら、もう一度顔を寄せて行く。
 唇が重なると、さっきよりもっと深く舌を差し入れて探り、彼女の舌を絡め取った。サマンサの喉から切なげな喘ぎが漏れる。
「本当に……いいんだね?」
   やがて彼は顔を上げ、もう一度確認するように静かに問い掛けた。
 サマンサがかすかに肯いて、彼の頬に細い指先をはわせる。もうどちらにも止めることはできなかった。

 クリフが彼女の肌の至る所に、絶え間なくキスを繰り返しながら、染みのついたシャツとスラックスを優しく取り去っていく。ついで自分ももどかしげにシャツとジーンズを脱ぎ捨てた。ついにお互いを隔てる障害が何もなくなった時、熱い吐息とともに、二人は身体を合わせ固く抱き合った。

 クリフが手と唇でサマンサの身体を熱く覆い尽くし、さらに激しく燃え立たせる。
 窓から差し込む薄明かりの中、二人はお互いの肉体の織り成す甘い陶酔の世界に、そのままどこまでも深く深く落ちて行った。



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