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 夜半から降り出した春の小ぬか雨が、今も窓辺を音もなく濡らしていた。


 なんとなくすっきりしない寝覚めだった。8ヶ月になった愛娘が、夕べは何故かご機嫌がよくなかったうえ、珍しく夜泣きをし、なかなか眠れなかったせいだろう。
 寝心地のよい大きなベッドからゆっくりと這い出す。寝室にソンウォンの姿はすでになかった。
 ドレッサーの鏡に映った自分を見て、唯は少し顔をしかめた。我ながら、まったく冴えない顔をしている。近付いて細かい所を点検し始めた。近頃、肌につやがなくなってきているような気がする。そういえば、先回パックしたのもかなり前のことだっけ。


 向こうでドアが開く音がして、はっと時計を見た。
 いけない、もうこんな時間になってるのに……。
 ぼんやりした頭を振ると、背中の中ほどまで伸びたストレートの髪をカチューシャで留め、シルクのパジャマの上にゆったりしたカーディガンだけ羽織って、急いで寝室から出た。



 向かいの子供部屋を覗くと、ベビーベッドでセナが丸い頬をばら色にして、すやすやと可愛い寝息を立てていた。
 夕べあれほどむずがっていたのが嘘のようだ。具合が悪いのかと心配したが、別に異常もなく安堵する。

 隣からバスルームを使う音がかすかに聞こえてくる。
 ソンウォンの日常はそれこそ結婚した当初から仕事中心に回っていた。
 今年に入り、さらに彼の父、大宝グループの会長から二つの部署を実質的に任せられるに及んで、一層多忙さを増している。
 30歳にして、彼女の夫はすでにグループ経営の中枢に確固たる位置を占め、押しも押されもせぬ韓国経済界の寵児の一人になってしまっていた。


 だが……。
 その結果は、圧倒的な仕事量となって二人の家庭生活に即座に跳ね返ってきた。

 彼の帰宅時間はますます遅くなり、連日深夜にかかるのが普通になった。
 国内はもとより、中国や日本への海外出張にもたびたび出向くようになり、毎朝、朝食もそこそこに出かける日々が続いている。
 今では彼の休日以外、夫と夕食を共にすることなど滅多になかった。
 負担が過ぎるのでは? と時に心配するほどだが、彼はその重責を双肩に担いながらも、いつもポジティブに前進していくタイプだった。その精神力にはひたすら感心するばかりだ。

『毎日お疲れ様……。普通の人ならとっくにダウンしてるわ。すごいと思う、本当に』
 ある夜、時計が1時も回った頃にようやくベッドに入ってきたソンウォンに、目を覚ました唯が心からそう言ったことがあった。ベッドサイドの小さな灯りに、まるで褒められた子供のように嬉しげな表情が浮かび上がる。
 手にした携帯をサイドテーブルに置くなり、彼は唯の方に寝返りを打った。不意打ちに思わず驚きの声を上げた彼女をそのまま組み伏せるようにのしかかると、じっと見下ろしこう呟くのが聞こえた。
『君がいつもここにいてくれるから、僕もまた頑張れるんだ……』
 乱暴なほど激しく性急に唯のすべてを奪ったあとで、彼はようやく顔をあげ、おそらく彼女とセナしか知らない、はっとするほど魅力的な微笑を見せた。



*** *** ***



 そう……。
 彼が会社と自分達のためにこんなにも頑張っているのに、自分に文句などあるはずがない。
 頭ではよくよく理解していても、感情はどうやら全く別物らしい。広くてゴージャスなこのマンションの12階にいつも娘と二人きりでいると、時折、世間からぽつんと取り残されてしまったような隔絶感さえ覚えるのはどうしようもなかった。

 夫がそんな自分の思いに気付いているのかどうか、唯にはわからなかった。
 それでも忙しい日々の合間のたまの休日には、家族水入らずの外食やドライブにも積極的に連れ出してくれる。

 家でゆっくりしたいんじゃない? と気遣う唯を、相変わらずまじめ過ぎるな、とからかい、小さなセナをあやす瞳は切なくなるほど優しくて、もう何も言えなくなってしまうのだ。


 本当に、贅沢な話よね……。
 たまにメールや電話で連絡を取る日本の友人達からは異口同音、玉の輿だとうらやましがられているし、自分でもそう思っているのに……。

 キッチンに立ち、棚からコーヒーを取り出しセットしながら、唯は思わず一つため息をついた。
 唯より一年遅れて去年の暮れに結婚した日本電気サービス時代の友人に、このもやもやした思いを電話で打ちあけてみたが、即座にこう言い返されただけだった。
「却下ね。なーに贅沢なこと言ってるの! わたしなんて、仕事やめたくてもやめられないのよ。子供だって、まだとても作れないし。あくせく働いてローンの返済してるこっちの身にもなってよ。あなたの旦那様なら、奥さん役いつでも代わってあげるわよ」
 いえ、それはご遠慮します、とちょっと苦笑して受話器を置いた。確かにそのとおりだけれど……、と思わず笑ってしまう。

 僅かな期間だったが、夫と同じ職場にいたお陰で、業務内容や現場の様子もある程度理解しているつもりだ。新年度に入り更に多忙になっているのもよくよく頷ける。
 だから自分にできるのは、つまらない愚痴をこぼして、この上彼を煩わせたりしないことだけ。
 そう決心し、彼の前では無理にも明るく振舞っていたが、時折無性に息が詰まるような気がするのはどうしようもなかった……。



*** *** ***



『もう少し休んでいればよかったのに。あまり眠れなかったんだろ、夕べは……。まったくセナの奴、ぐっすり眠っていれば天使だが、ああなるとまるで小悪魔だな。おかげでこっちまでかなりのダメージを喰らう』
 ガラスのサーバーにコーヒーが落ちていくのをぼんやり眺めていると、ふいに背後から夫の声がして、ほとんど同時に光沢のあるオーダーメイドスーツの袖がふわりと身体に回された。気が付くと彼の腕の中に引き寄せられてしまっていた。
 振り向いた途端、暖かい息が頬にかかる。唯が顔をあげるタイミングを見計らったように唇をふさがれて、とっさに目を閉じてしまう。

 出勤前に交す朝の軽いキスにしては、いささか穏当さに欠けるほど長く熱いキスだった。しばらくしてようやく顔を上げたソンウォンの眼にある表情を見て、思わずどきりとする。
 その黒い瞳の奥にはくすぶるような情熱が確かに顔を覗かせていた。唯が喘ぐように息を継ぐと、まだ彼女を抱き寄せたまま、彼は口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
『これで三日も君を抱けなかったんだぞ。ったく、我慢にも限度ってものがあるとは思わないか?』
『そ、それって、ゼッタイ朝一番に話すようなことじゃないと思う。もう時間でしょ、寝坊しちゃってごめんなさい。トーストでもいい?』
『いや、もう出ないといけないんだ。そのコーヒーだけもらうよ』
 ソンウォンは唯から手を離すと、首の後ろを二本の指でもんだ。やはり疲れているのだろう。気遣うようにそっと肩をさすると、彼は小さくため息をついた。
『今夜もかなり遅くなりそうだ……。業績が伸び悩んでる支社へのてこ入れに行かなきゃならない』
『え、また出張? 日帰りで帰ってこれるの?』
『ウルサンだから、それは大丈夫さ』
 ウルサンは半島の南端、プサン市の隣に位置する新しい広域市だ。国内便に乗れば一時間ほどで着く。やれやれと言いつつも彼の頭の中には、すでにその『てこ入れ』のプランも万端出来上がっているのだろう。さぞ手厳しい内容に違いない。自分の経験を思い出し担当者達が気の毒になる。

『でも、海外じゃないだけ、まだマシと思わなくっちゃね……』
『唯……?』
 ふと滑り出た言葉に、少し心配そうに彼が唯の名を呼んだ。
 何でもないと言うように、急いで淹れたてのブラックコーヒーをカップに注いで手渡すと、唯は自分を抱き締めるようにリビングの窓辺に近寄った。滴り落ちてくる雨だれを眺め、呟くともなしに呟く。
『今朝も雨ね……。春先って雨の日が本当に多いのね。日本もそうだけど』
『ああ、春雨ポムピッって言うくらいだから』
「ポム(春)ピッ(雨)ね……、日本語にもあるわ、まったく同じ言葉」

 彼もカップを手に頷きながら歩み寄ってきた。眺望のよい一角に建てられたそのマンションの広い窓から、ソウルの市街地がかなり遠くまで見渡せる。そぼ降る雨の中、街並みのそこここにピンクや黄色や白の花枝が煙るような彩りを添えていた。寒さ厳しい冬がようやく過ぎ去る四月の半ば、春の訪れと同時に街角や住宅の庭に植えられた木の花々、すなわち木蓮、レンギョウ、そして桜がいっせいに花を咲かせるからだ。

「せっかく咲いたばかりの桜が、雨であっという間に散ってしまいそうね。そういえば不思議に思ってたんだけど、韓国の人ってお花見はしないの? もったいないような気がするわ。ヨイドあたり、日本とおんなじくらい桜がきれいなのに」
「お花見?」
 聞き覚えがある、というようにその日本語をオウム返しに繰り返した夫に、そう、お花見よ、と唯は熱心に頷いた。
「日本ではね、毎年桜が咲く季節になるとお花見するの。名所に行けばそれはきれいだけど、もっと近くの公園とかでも別にかまわないわ。金曜日の夜なんか会社からいっせいに繰り出すのよ。満開の桜の木の下にござを敷いて、お酒飲んだり食べたり、とにかく楽しく大騒ぎするわけ。でもどこの会社も一斉だから、有名どころだと場所をとるのもケッコウ大変でね。今日は花見だって言うその当日は、朝から場所取りに営業あたりから新人が行って陣取ってたり……」
『……唯、日本が恋しいのか?』
 ソンウォンが目を細め、ふいにこう問いかけた。はっとして口を閉じてしまう。自分が日本語で長々としゃべっていたことに、ようやく気が付いた。
 わたしったら……、忙しい時間にいったい何を言ってるのかしら。しっかりしなくちゃ。
 慌てて首を振って、早口の韓国語で言い繕った。
『やだ、ううん、別に何でもないのよ、気にしないで。ソンウォンさん、朝から変なこと言ってごめんなさい』

 少し考え込むように彼は唯の頬を指先でそっと撫でると、いいからゆっくりしてろよ、と呟いた。
 だが、ブリーフケースを取り上げドアから出る直前、急に思い出したように振り返る。少し言いにくそうにこう付け加えた。
『……夕べお袋から電話があったんだった。セナの顔が見たいから今日家に連れて来いってね』
『こ、この雨の中を?』
 思わず真顔になって再び窓を見やる。ソンウォンが苦笑した。
『車を使えばいいだろ? もっともあのお袋のことだ。あとで迎えでも寄越すかも知れないな。まぁ、もし行ったらゆっくり食事でもして休んでくればいいさ。お袋の相手は適当にしておけばいいよ』

 もう少し明るい気分の時なら笑って『そうするわ』とでも言えたに違いない。だが今はお世辞にも嬉しそうな顔はできなかった。
 この前、ユ家の邸にセナを連れて行ってから、まだ一週間しか経っていないのに……。
 だが、すでに十二分に重責を担っている彼に、つまらないことでこの上わずらわせたくはなかった。どうにか口の端に笑みを貼り付ける。
『わかったわ、気をつけていってらっしゃい』

 夫を送り出したあと、またもや一つため息をつくと、唯はリビングのソファーに座りこんだ。




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