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〜 【君が見たいから】サイト150万打記念番外編 3 〜




後  編



 頭が冷え始めると、我ながら馬鹿みたいだ、と思えてくる。
 せっかくの貴重な時間を、自分で台無しにしてしまったも同然なのだから。

 わびしい気持でベッドから立ち上がると、唯は傍らのドレッサーに向かった。一番下の引き出しから、自分の履歴書と語学院の採用通知を取り出して眺めてみる。
 先日、新聞の求人広告欄を見て衝動的に応募したものだ。面談に呼ばれて内定、その後正式に採用を貰えたのは嬉しかったが、夫が何と言うかわからず、伝えるのをためらっていた。
 今日こそ話そうと機会を待っていたのに、いざ話し始めた途端あの電話のせいで……。
 だから、余計に爆発してしまった。

 それにしても……。
 さっきの態度を彼はどう思っただろう。怒ってしまったかもしれない。それとも、ただのかんしゃくと決め付けて、気にもかけず今ごろ出かける準備でもしているのだろうか。
 それもあり得そうな気がした。やっぱり世間で言われる通り、結婚して三年も経つと、どんな夫婦でもこういう時期を迎えてしまうようだ……。


*** *** ***



 書類を手にぼんやり考えていると、前触れもなくノブを回す音がし、次に苛立ったようにノックがあった。
 慌てて引き出しに封筒と紙片を戻す。少し間があり、すぐにドアは開かれた。

 ドアと夫に背を向けたまま、唯は硬い表情でドレッサーの鏡を見つめていた。閉めた扉にもたれかかり、こちらをじっと眺めるソンウォンが映っている。無表情な顔は、何を考えているのか計り難かった。

 夫の皮肉な眼差しに合った途端、謝ろうと思っていた気持が再び強張ってしまった。唯は軽く唇を噛み、彼に背を向け続けた。ソンウォンがゆっくりと近付いてくる。唯の後で、深いため息が聞こえた。
『……ったく、君らしくないことをするんだな。いったいどうした?』
『別に何でもないわ。わたしのことなんか気にしないで、さっさと出かければいいでしょ?』
 感情を抑えた声で冷たく答える唯に業を煮やしたように、ソンウォンが突然動いた。背中と膝にいきなり彼の手がかかる。抵抗する暇もなく抱えられ、傍らのベッドにどさりと投げ出されてしまった。
 気が付くと、唯は目をバチクリさせて、仰向けに引っ繰り返された蛙さながらに横たわっていた。口元にうっすらと笑みを浮かべたソンウォンが、頭の脇に片腕を付いて唯の顔を覗き込んでいる。
 冗談はやめて、と起き上がろうとしたが、肩を押さえられて動けなくなった。髪をまとめていたバレッタがはずされ、長い黒髪がシーツに扇情的に広がる。
 間近に迫った彼の表情は怒っているようでも、少し悲しそうでもある。

「ソンウォ……」
 ごくりと唾を飲み込んで、口を開こうとしたときには遅かった。彼の唇はまるで罰するように、唯の唇を言葉もろとも乱暴に飲み干し始めた。思わず目を閉じ、その荒っぽく甘美な懲罰に身を委ねてしまう。
 顔を上げたソンウォンは、片手で唯の着ていた厚地のシャツブラウスのボタンを弾き飛ばすようにはずすと、シャツを彼女の両腕もろともぐっと引き上げた。え? と思ったときには、手首をシャツでゆるく縛られた格好になっていた。腕を引こうとしてもベッドのヘッドボードに引っかかっているらしく動かせない。
「な、何をするの……?」
 慌てて手を引こうとしながら驚きの声を上げたが、ただ皮肉に微笑み返されただけ。彼は楽しむように、手のひらで唯の柔らかな二の腕からわきの下に続く滑らかなラインをじっくりと辿っている。ぞくっと来る快感に心ならずも震えては、余計に焦る唯を可笑しそうに見下ろしながら、さらに薄いブラのフロントホックを引きちぎるように胸をはだけた。

 窓から、午後の日差しが燦燦と差し込んでいた。これでは全てが目に露になってしまう。
 もちろん以前にも明るい中で何度も愛し合ったけれど、こんなのは嫌だと思った。
 だが、手を振り解こうともがいても、じっとしてろ、と押さえる夫の手に力が篭るだけのことだ。
 露になった豊かな乳房の先端が、外気と彼の黒々とした目に晒され、たちまちぴんと張り詰める。
 唯が息を呑んだのとほとんど同時に、焼けつくような口が我が物顔にそれを押し包んだ。敏感な二つの蕾を交互に幾度も熱い舌先で洗われるうち、次第にあられもない声が漏れてくる。それでもまだ手は頭の上に拘束されたまま。
 予期せぬ事態になすすべもなく、ただあえぎ、のけぞった。唯のささやかな抵抗などものともせず、彼はスカートを下着もろとも引きずりおろすと、滑らかな腹部から下半身の敏感な部分に至るまで、たっぷりと時間をかけて濡れた道筋をつけていく。
 身をよじって呻いても、嫌だと訴えても、行為は容赦なく続いた。唯の快感の要所を、とうの昔に彼女以上に知り尽くした手と唇と舌は、彼女の最も敏感な部分を探し出しては果てしなく弄ぶことを繰り返す。次第に与えられる快楽の虜になって、意識さえかすみ始めるほど。
 全身を痙攣させた唯が、大声を上げてのた打つと、ようやくソンウォンは彼女の手を解放し、身体を起こした。
 彼の息も上がっていた。汗ばんだ男らしい肉体から邪魔なコーデュロイシャツとジーンズを剥ぎ取るように脱ぎ捨てると、唯の上にのしかかり、張り詰めた全身をぴったりと重ね合わせてきた。

 そして、長い口付けが再び始まる……。

 彼が顔を上げたとき、快楽の余韻にまだ焦点が合わない目で、唯は懸命に夫を見上げた。
「ソンウォンさん、ソンウォンさん……」
 まだ少しこわばっている彼の頬をそっと指先で辿りながら、囁くように愛しい夫の名を繰り返す。
 彼はその手を取り上げ、手首に詫びるようにそっと口付けた。
 唯、と、ふいに声がかかる。
『僕にどうして欲しいんだ? 今の仕事を、大宝グループをやめて欲しいのか?』
 その言葉には、はっとするような真剣さがこもっていた。とんでもない! そう激しく否定するように急いで首を振ったが、彼はさらに顔を寄せて、問い続ける。
『なら、どうして欲しい? 僕のポジションは変えられない。明日もあさっても来月も来年も、仕事はずっと続くんだ。僕を見て、はっきり言うんだ、唯』
「そんなこと、わかってる……。ただ、ほんのちょっとしたことなの。そう、どこにも……行かないで。今日だけ、わたしと……、わたし達といっしょにいてくれればいい……だけなの」
『僕が今から出かけるって言ったかい?』

 馬鹿だな、と呆れたように微笑んだ黒い瞳に、強い安堵の色が垣間見えた気がした。

 やがて、彼が再び動き始める。それに合わせ、唯の身体の奥も熱く融けるように疼き出す。
 今はこの痛みにも似た熱を鎮めて欲しかった。でもいつもそうだ。夫の手にかかると、普段は存在すら忘れている肉体の原始的な渇望に、たちまち支配されてしまう。
 どうすれば自分からそれを引きだせるのか、彼が自分以上に知り尽くしているのも、何だか癪に触った。
 あくまで抵抗すると決めたように唇を噛んで喉をそらし、再び目を閉じた唯に、からかうような声が下りてきた。
『ったく、今日はやけに反抗的だな。もう、そろそろ限界だろ? ここまで来てまだ抵抗する気かい? 何なら今すぐこれでやめようか?』
 聞くなり唯はぱっと目を見開いた。いやいやと言うように、夫の湿った首筋に腕を回し強く引き寄せながら腰を浮かせる。今度は自分から彼を求めて彼女自身を強く押し付けていった。
 ソンウォンが勝ち誇った顔で荒々しく分け入ってきた。どんなに悔しくてもそれが限界だった。ほとんど同時に互いの中で爆発が始まる。
 溺れる者が命綱を掴むように、唯は夫の首に抱きつき、彼の腰に一層きつく脚を巻きつけしがみついた。

 極限で解放された後も、二人はまるで海で遭難した直後のように大きく息をあえがせながら、目を閉じて、ただじっと乱れたシーツの中で絡み合っていた……。



*** *** ***



 気が付くと、窓の向こうの空はもう暮れ始めていた。

『さっきのは……ちょっと驚いたわ。なんだかいつものあなたじゃなかったみたい』
 まだソンウォンの腕の中にぐったり横たわったまま、そっと呟く。彼が軽く笑い声を上げた。
『いつもの君らしくなかったからさ。ちょっとしたショック療法だ。手荒だったけどかなり効いたんじゃないか? これから君が反抗的なときはこの手を使うのもいいな。おっと、待てよ。まだ話は終わってないんだ』
 むっとして身を起こそうとした唯をぐっと引き戻すと、彼はさらりと問いかけた。
『唯……、本当は、何か仕事に就きたいんじゃないのか?』
『ど、どうしてわかったの?』
 目を丸くして、仰向けになったソンウォンの顔を覗き込む。妻を見上げる目には、いつもの優しい微笑が浮かんでいた。
『前に、テーブルで書きかけの君の履歴書と写真を見かけたからさ。いつ言ってくれるかと待ってたんだ。で? 何がしたいんだい?』
『じ、実はそうなの……。語学院の日本語講師の仕事で、社会人や大学生向けの日本語会話のクラスなんですって。週三回……、本当はもう採用を貰ってあるのよ。ただ夜の6時から9時半だから、あなたがなんと言うかと思って……』
『ふうん、なるほど……。そういえばずっと前、子供の頃の夢は教師とか言ってたっけな……』
 え? と目をしばたかせた唯の乱れた黒髪を手でそっと撫で付けながら小さく呟くと、彼はこう答えた。
『あんまり遅くなるのは心配だけど、それくらいなら構わないさ。君がいい日本語の先生なのは、僕が一番よく知ってる。やりたいなら、無理のない程度にやればいい。君をこの家に閉じ込めておくつもりは毛頭ないよ。セナは、ヨンミさんに見てもらうつもりなんだろ?』
『え、ええ、もちろん……』
『そうだな、それくらいの時間なら終わった後、僕が学院まで迎えにいける日もあるだろう。週一回でも、二人で外食ってのもいけるんじゃないか? ただし……』
 彼は唯の左手を取り上げ、いたずらっぽく付け足した。
『結婚指輪は必ずはめていること。その時間帯は男も多いんだ。学生と侮らず気をつけろよ』
 目を丸くしていた唯は、思わず彼に飛びつくように抱きついた。
『ソンウォンさん、大好き!』
『どうせなら、愛してるサランヘと言って欲しいな』


 ああ、また完敗ね……。
 そもそも、この人に勝てたことは一度もなかった気がするけど。
 でも、負けるのがこんなに幸せでいいのかしら……。

 暖かい夫のぬくもりに包まれながら、唯はしみじみと思っていた。


〜 FIN 〜


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patipati

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07/12/15 更新

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