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一八六〇年代  英国  ロンドン
 


 その夜のパーティは、今やたけなわを迎えていた。
 ロンドン社交シーズン真っ盛りの五月。二十七歳になったばかりのレナード・ウィンスレットもまた、旧知の伯爵夫人の誘いを断りきれず、その金髪に良く映える赤の軍服に身を包んで参席していた。
 彼は英国陸軍・歩兵連隊の将校として、初の海外赴任が決まったばかりだった。軍人という職業柄、華やかな会合は苦手だし社交にもさほど熱心ではない。だが向こうに行ってしまえば今後何年か、ロンドンに顔を出すこともできなくなる。そう思い、今夜は無理に出て来たのだった。

 着飾った麗しきレディ方は、地位と財力のある花婿選びに余念がない。彼もまた、まだ独身だからか、あるいは鍛えられた体躯に似合う軍服姿に、持ち前の精悍な顔立ちのせいか、しょっちゅう目でダンスを誘いかけられる。形ばかりの笑顔を返しながら、しばらく友人達とカードに興じていたが、退屈さを覚え、休憩がてらパティオに出ていった。

 薔薇で囲まれた生垣から続く東屋の近くでふと立ち止まる。そこには先客がいた。若い男女――おそらく求婚者とそれをはねつけた女性――の話し声が聞こえてくる。

「……サイモン、あなたは『またいとこ』だし、いいお友達だと思ってるわ。でも……」
「いとこでも結婚は可能だよ、アリシア。よく考えてくれないか、僕ら一族のさらなる繁栄のためにも、この結婚は申し分ないものじゃないか」
「でも、わたし、あなたと結婚したいと思えないの。もう何も言わないでちょうだい」
「ひどい人だ。この僕に、それしか言うことはないのかい?」

 これはまた……。妙な場面に来合わせたな。

 レナードが苦笑して引き返そうとしたとき、こちらに向かって小走りに駆けてくる軽い足音が聞こえた。生垣の間からすっと姿を現したのは、ほっそりとした若く美しい女性だった。
 思わず視線が釘づけになる。濃いブラウンの髪をうなじでまとめ、白っぽいドレスをまとったしなやかなその姿は、まるで月光をあびて開いたばかりの薔薇のようだ……。

 そのとき、ホールに続くテラスから、付き添い役らしい年配婦人の呼び声が聞こえてきた。
「アリシアお嬢様、どちらですか?」
「グレース、ここにいるわ」
 アリシアと呼ばれたレディは、黙って見つめているレナードに、ちらりと目を走らせたきり、ことさら関心もないというように、探しに来た女性について行ってしまった。

 彼女が通り過ぎた一瞬、その甘やかな香りが、あたりの薔薇の香と混じって彼の鼻腔をくすぐった。

 アリシアと言うのか……。

 懸命に追いすがっていた男の気持も、わかるような気がした。生まれて初めて女性に心動かされ、それに戸惑ってもいた。だが赴任先インドへの出発はもう一週間後に迫っている。
 彼はじっとその場に佇み、湧き起る奇妙な胸の痛みと闘っていた……。



◇◆◇  ◇◆◇


 三年後。


 レナードがロンドンに戻って、早くも二か月が過ぎようとしていた。正確に言えば、思いがけず流行病で急逝した兄から爵位を継承し、彼がブラッドフォード伯爵になってから二か月だ。
 そして陸軍少佐としての多忙な日々に、ようやく骨休めの休暇が与えられた。レナードは馬でゆっくりとメイフェアにある自邸へと向かっていた。
 宵空から月が淡い光を投げかけている。今夜の社交場を目指し、多くの馬車が対向していく。

 そのとき突然、前方から女の金切り声が聞こえた。立て続けに数回。どうやら現場は近いようだ。彼は咄嗟に声の方に全力で馬を走らせた。
 近付くとすでに人だかりができていた。馬から下りてかき分けてみると、大路の石畳に、身なりのいい中年婦人が腰を抜かしてへたりこんでいる。その傍らには御者とおぼしき男が、気絶して倒れていた。
「いったい何があった? こんな通りで……」
 呆気に取られ、その婦人の脇に片膝ついて問いかけると、彼女はすがりつくように、通りの彼方へ今まさに消え行こうとする馬車を指差した。
「強盗! 人さらいです! お、お願い! あの馬車を追って……。お嬢様が……レディ・アリシアがまだ中に……!」
 わっと泣き出した婦人をその場に残し、レナードは馬に飛び乗ると、懸命に馬車の後を追い始めた。


◇◆◇  ◇◆◇


 ここは……どこ?

 目覚めた途端、スタンレー侯爵令嬢アリシアは、見慣れない粗末な部屋に一人でいることに気付いた。木の床にじかに寝かされていたせいか、背中がひどく痛む。
 まだ頭が少しぼんやりしていた。信じられない思いで周りを見回し、薄汚れた窓から外を見下ろした。途端にはっと息を呑む。
 悪名高いイーストエンドにでも連れてこられたのだろうか? 二十三歳になる今まで、こんな場所は見たこともなかった。ごみごみした界隈には、細い路地が縦横無尽に走り、人影が一つ千鳥足で歩いていくばかりだ。
 月はすでに中天高く上っていた。もう真夜中近いんだわ……。社交界で繰り広げられる陽気な集いがお開きになる時刻だ。彼女もまた、その常連の一人だった。今夜も少し遅れて会場に向かっていたはずだ。なのに、どうして突然こういうことになるの?


 それにしても……。
 月に照らされたむき出しの床と壁を眺めて、ぞっとする。まるで牢獄だ。いきなり自分を拉致するとは、いったい何のために?
 身代金目当てだろうか。それでは誰が? 見当もつかなかった。一緒に乗っていたグレースや御者は大丈夫だったのかしら。
 身につけていたネックレスや真珠の髪飾り、買ったばかりの帽子までが、当然のように消えていた。薄い紗のドレスがしわになっている。体が無傷なだけましだと思うしかない。
 アリシアは、なすすべもなく唇を噛み締めた……。

 何か大声がしたことは覚えている。乗っていた馬車が急に停まり、誰かと格闘する御者の叫び声を聞いたことも。
「お嬢様、お逃げくださいませ!」
 グレースが悲鳴を上げたのと同時に馬車のドアがこじ開けられ、踏み込んできたのは見るからに人相の悪い二人連れだった。その一方が、金切り声をあげ続けるグレースを路面に放り出すと、彼女をぐいと引き寄せたのだ。
「無礼者! 何をするのです!」
 とっさに強く声を上げたが、相手はビクともしなかった。にやりと笑ったひげ面の男に布で口をふさがれ、くらりとした。どうやら意識を失なったようだ。そして気がつけば、ここに閉じ込められている……。

 差し込む月明かりを頼りに、彼女は狭い室内を調べ始めた。さびたドアを押したり引いたりしてみるが、びくともしない。外から鍵がかけられているのだろう。
 ここは四階だ。下へ飛び降りるわけにもいかない。完全に途方に暮れて、呆然とする。手足を拘束されてこそいないが、これでは身動きが取れない。今、騒いだらどうなるかしら……。



 その時、急に月明かりが翳った。目を上げたアリシアは、小さく叫び声を上げた。汚れたガラス窓の向こうに月光を浴びて、大柄な男が一人、張り付くように立っている。

 男が、静かに、という身振りをしたので、かろうじて大声は飲み込んだ。別にその背中には、天使の羽も悪魔の羽も生えていないようだ。
 唖然と眺めている彼女に、男はじれったそうに窓枠を何度も指差した。

 窓を開けろと言うのね。わかったわ!

 どこの誰とも知れなかったが味方だと直感した。アリシアはさびた窓に取り付くと、必死になって細い指に力を込めた。ようやく窓枠がきしんでわずかに持ち上がるや、男が指を差し込み、力いっぱい引き上げる。
 次の瞬間、下町の生臭い風とともに彼は室内に入ってきた。床に降り立つなり、狭い中に圧倒されるような男の存在感が広がった。ありがたいことに、正規の将校らしい軍服を身につけている。

 よかった、助けが来たんだわ……。
 アリシアは心底安堵し、意識が遠のくような気がした。




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