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 今世紀の初めに改築されたというホールの内装も、とても素晴らしかった。
 案内されるまま、磨き上げられた大理石の床を歩き、二階に上った。主階段の金で縁取られた白壁には、ブラッドフォード家代々の当主達が重厚な肖像画に納まって伝統の趣を添えている。


 連れてきたメイド達が動き回って居室を心地よく整えている間、アリシアは持ってこさせた一輪挿しにさっきレナードが挿してくれた薔薇を大切に生け、それをぼんやりと眺めていた。
 交わしたキスの余韻がまだ唇に残り、彼の表情は目の奥に焼きついている。思い出すとたちまち頬が火照り、心臓が暴走を始める有様だった。今は他のことなど何も考えられない。

 どうして、彼を拒まないの? わたし……。

 小さくため息をついて、優雅に手を組み合わせ考え込む。
 自分で自分の気持がわからず、ひどくとまどっていた。
 これまで教えられてきた道徳観に照らせば、許容範囲を超えているのは明らかなのに、あんなキスを何度も許し、自ら進んで応えてしまうなんて、どうかしている。まるで自分が本当にふしだらになった気がする。

 ああ、でも彼にキスされると、何も考えられなくなってしまって……。
 あの人は、わたしのことをどう思っているのかしら。あれから、一度もそういう話をしないけれど……。

 ふいに、かつて交際を申し込んできた日のレナードの言葉が蘇った。

『僕も母から結婚を迫られているんでね。伯爵家の当主として当然の務めだそうだ。だが、スタンレー侯爵令嬢と婚約していれば、誰からも文句は言われないだろう?』

 言われたときは、何とも思わなかったのに、今になって、ぐさりと鋭い刃で刺されたような気がした。自分でもたじろいでしまうほどの痛みが迫ってくる。

 そうだわ。どうして忘れていたのだろう。
 自分との婚約が、彼にとって都合がいいからだと、あの時はっきり言っていたじゃないの。
 その証拠に、あれから何度会っても、馬車の中でキスを交わしたときも、さっきでさえ……、彼は一度もそれ以上の言葉を口にしない。
 ああいう男性にとっては、キスなど気楽な恋のアバンチュールに過ぎないのだろう。


 アリシアは瞬きして、無理に微笑もうとした。
 さっきまで感じていた親密さや高揚感が急速に魔力を失い、高鳴っていた胸に冷え冷えと侘しさの霧がかかり始める。

 馬鹿ね。そう望んだのはわたしも同じでしょう? なのに、どうして気持がこんなに塞がるの?

 交錯する様々な想いの理由がわからず、ひどく混乱していた。今、自分は笑いたいのか泣きたいのか、どっちだろう?
 まるで、情緒不安定になったようだ。こんなこと、これまで一度もなかったのに……。



◇◆◇  ◇◆◇


 遅い目の晩餐の後、レナードが屋敷の部屋をいくつか案内してくれた。
 その中には、かつて彼が幼い頃に遊んだと言う子供部屋もあった。

 室内に入るなり、アリシアは感嘆の声を上げた。くるみ材の大きなテーブルの下で、赤いディーゼル機関車に乗った小さなテディベア達がぐるりと円を描き、テーブルにはおもちゃの兵隊一個小隊が手に手に銃剣をもって突撃の構えを見せている。
 部屋の隅には、白い木馬と覆いをかけたゆりかごが大切そうに置かれ、壁には、子供のいる風景を描いた絵が架けられていた。
 見ているうちに、アリシアは優しい思いでいっぱいになった。おもちゃの兵隊にそっと手を伸ばし、指先で撫でてみる。
「あなたは昔、こういうおもちゃで遊んだのね?」
「懐かしいな。これは父の贈り物でね。もらった夜はわくわくして、全然眠れなかった」
「想像できるわ」
 子供時代のレナード。青い目の腕白坊主は、さぞ乳母達の手を焼かせたことだろう。想像するだけで微笑がこぼれる。
 ふと、アリシアは奇妙な感覚に捉えられた。
 もし、レナードと自分が結婚して、ここで一緒に生まれてくる子供を待つとしたら、どんな風だろう……?

 そのとき、つと彼の手が伸びてきて、鉛の兵隊に触れているアリシアの手を包み込むように重なった。
 夢想していたことに気付かれただろうか。びくっとして顔を上げると、畳み掛けるように、彼が言った。
「僕もここで子供を育てたいと思っている。できることなら、僕が心から愛する女性と一緒にね」
 ごくさりげない一言だった。だが彼の眼差しに耐え難いものを感じ、アリシアは、あわてて目をふせ、手を引っ込めた。俯きがちに彼から離れてしまう。

 急に黙り込み、壁の絵を眺め始めたアリシアを、しばらくじっと見ていたレナードが、ふーっと大きな吐息をついた。
「長旅で疲れただろう? 部屋に戻って休むといい」
 あくまで丁重に促すと、彼女を部屋に連れて行った。



◇◆◇  ◇◆◇


 次の日、一人で夕食を済ませたレナードは、ロンドンから急ぎで届いた分厚い手紙を上の空で受け取り、書斎に入った。

 今日のアリシアは、疲れた、と言って彼の前に姿を見せなかった。心配だったが、客室まで顔を見にいくことは控え、様子を見ている。


 上着を脱ぐと、テーブルの水差しから冷たい水をコップに注いで、一息に飲み干した。
 喉が猛烈に渇いていた。いや、渇いているのは喉ばかりではない。体中が満たされない渇きに激しくうずいている。
 なのに、肝心のアリシアの気持が、どうにも掴みきれない……。

 オペラ会場で狙撃された夜の、馬車の中での熱いひととき。あの瞬間、確かに彼女の心は自分に向かって開かれていた。どうしてあの時、もっと彼女をしっかりと捕まえなかったのかと、今更ながらに後悔する。ああ、昨日もそうだ。

 二人の関係が大きく進展することを期待し、何より、いつも彼女のそばにいたくて、安全保証にかこつけ、ここまで連れてきてしまった。
 だが、それが正しい選択だったのかどうか、早くも自信をなくしかけている。少なくとも、自分の方は、いよいよのっぴきならない所まで追い詰められてしまったのは間違いない。
 戦場の駆け引きならいくらでも考えつく彼も、恋の駆け引きとなると、からきし駄目だった。手ごたえがあった、そう感じた次の瞬間には、身を翻すように、再び氷の防壁の中に舞い戻ってしまう彼女を、一体どう扱えばいいのだろう?

 いや……。俺はもう、冷ややかな仮面の下の本当の彼女を知っている。
 生身の彼女のすべてを引き出して、直に触れ合い、心行くまで愛し合いたいと願うことは、不可能な望みだろうか?

 早まるな……。
 本気で求めているなら、時間をかけるんだ。彼女に必要なだけの時間を……。

 はやる心に言い聞かせる理性の声とは裏腹に、正直な肉体は、彼女が欲しい、と痛みを伴うほどに強く叫び声を上げている。

 参ったな……。

 レナードは苦笑し、気分をどうにか変えようと、机に向かって先程の手紙を開いた。
 それは、スタンレー侯爵家の周辺を調査させていた探偵からの、詳細な報告書だった。



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10/10/9 再掲