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 入ってきた男は長身だった。月を背に浮かび上がったシルエットで、引き締まった力強い体躯の持ち主だと一目でわかる。
 首筋にかかる金髪が、月光を浴びて白銀のようにきらめいた。だが、表情は陰になってよく見えない。

「あ、あなたは……?」
 震える声で尋ねようとしたが、彼の方が早かった。
「レディ・アリシアですか?」
「ええ、わたしの父はスタンレー侯爵です。あなたは?」
「偶然、あなたがさらわれた現場近くを通りかかった者です。無事でよかった。この窓から下に降りたら、少し先に馬を待たせています。早く……」
「待って! そんなことできないわ! だって、こんなに高いのに……」
 身震いして声をあげたアリシアを励ますように、男は目の前に立つと華奢な肩に手をかけ、早口でささやきかけた。
「下まで頑丈なロープを垂らしてあります。足元に気をつけて、窓枠にしっかりとつかまりながら移動してほしい。下は決して見ないこと。さあ、手を貸しましょう。……失礼!」
 言うなり、男は両腕でふわりとアリシアを抱き上げていた。


 ぎょっとして声も出ないうちに、アリシアは、窓枠の向こう側のわずかな出っ張りの上に下ろされていた。そこにはかろうじて足が収まるほどのスペースしかない。
 怖いわ……!
 貴婦人の心得など、この際何の役にも立たない。とっさに、夢中で男の首筋にしがみついてしまった。バランスの危うい彼女の体を両手で支えながら、耳元で男が励ますように囁く。
「大丈夫だから。そのままゆっくりと右へ……」
 こわごわ横を見ると、確かに少し先に屋根から下がったロープが見える。だが、少し俯いた途端、眼下が見えてくらっとした。

 無理よ! 落ちてしまう!

 思わず悲鳴をあげそうになったときだった。
 ふらついた身体を二本の腕がしっかりと支えた。その男の口が、彼女の喉から出かかった叫びをふさぐように、荒々しく覆いかぶさってきた。身動きもできないまま、アリシアは目を見張って呆然と男に唇を委ねる以外、何もできなかった。
 だが次第に、彼の唇が最初とは違う奇妙な熱っぽさを帯びてくると、はっと我に返って反撃に出る。
「っつ!」
 男が一声呻いて顔を上げた。唇から血がにじんでいる。まだ彼女の肩を掴んだまま、舌先で唇についた歯の跡をぬぐい、にやりと不敵に笑った。
 トパーズのような淡いブルーの瞳に射抜かれ、今の危うさも忘れて釘付けになる。

「なかなか、はねっかえりのレディだな。こんな所で大声を出してはいけない。黙って動いてくれ、早く!」
 その言葉で我に返ったアリシアは、現状を思い出すと、勇気を振り絞ってこわごわ移動を開始した。
 一歩一歩慎重に辿り、震える手がもう少しでロープに届くところまで着いたとき、部屋を出た彼が、用心深く右手に拳銃を構えながら、するすると彼女の隣までやってきた。大柄な男のくせに、身のこなしは敏捷だと感心する。
 ロープを脇にためらっている彼女を見て、業をにやしたらしい。銃を腰のホルダーに収めるとアリシアに手を伸ばしてきた。また声が漏れそうになるのを、唇を噛んでこらえていると、彼はそのまま背後から抱き締めるように抱え、空いた片手でロープを握って降り始めた。
 パーティ用のドレスのむき出しの背に、押しつけられた軍服の感触が冷たい。耳元に彼の吐息を感じ、一層緊張しながら、必死にロープを掴んで降りていった。手袋をしていたのも幸いだった。
 地面まであと少しという所まで来たとき、上の窓辺が慌てふためいたように騒々しくなった。「おい、女が逃げたぞ!」とわめく声が聞こえてくる。

 耳元で、彼が「ちっ」と舌打ちした。開け放した窓から複数の荒くれた顔がのぞき、ほとんど同時に銃声が響く。二人の頭二つほど横を弾丸が飛んで行った。
 上から「馬鹿、よせ。傷つけるな」と騒ぐ声がする。アリシアは生まれて初めて味わう恐怖に、今にも心臓が止まりそうだった。
 急に男の腕に力がこもり、彼女をきつく抱え直した。「跳ぶぞ」と声をかけられ、次の瞬間、体が宙に舞っていた。思わず目を閉じて彼にしがみつく。
 だがもうさほどの高さではなかったようだ。衝撃とともに着地するなり、男はよろけた彼女をかばうように乱暴に建物の壁に押しつけ、自分も身を潜めて拳銃を構え直した。
 また銃声がした窓に向かって、今度はこちらから数発発砲すると、男は、彼女の腕を掴み鋭く命じた。
「走れ! 奴らが出てくる前に逃げるんだ!」
 未だかつて、こんな物言いをされたことは一度もないアリシアだったが、このときばかりは黙って従った。
 心臓がこれ以上動かないほど激しく肋骨を打ちつけている。ダンス用の華奢な靴のせいで足がひどく痛かった。急に、がくっと何かにつまずいた。瞬時に手が伸びて支えてくれなければ、派手に転んでいただろう。
 ようやく馬のいななきが聞こえたときは、ふらふらになっていた。無言で再び抱き上げられ、馬に乗せられたときには、もう意識はほとんどなかった。
 背後の力強い存在に、なぜか安堵感を覚えながら、彼女はそのまま闇に吸い込まれていった。



◇◆◇  ◇◆◇


「……では、犯人の動機はいくつか考えられると?」
「そうだ。君のおかげで事なきを得た。だが、これはわたしにとって大切な一人娘だ。理由はいくらでもあり得る」
 意識の隅にぼそぼそと声が聞こえてくる。苛立ったように、こつこつと室内を行き来している足音も。
 いったい何の話? 誰と話しているの?
 だが、そこで意識がまた遠のいてしまった。


「お目覚めでございます、旦那様!」
 メイドがドアからあわただしく知らせに行く声がした。カーテン越しに明るい陽光が部屋に射し込んでいる。
 瞬きしたアリシアは、自分が自室の四柱式寝台に、いつもの朝と同じように横たわっていることに気付いた。

 よかった……。悪い夢を見ていたんだわ。
 心からほっとした。だが、起き上がろうとした途端、全身がまるで打ち身になったように激しく痛んだ。呻き声をあげて再びクッションに沈み込んでしまう。

 扉が開き、アリシアの父、スタンレー侯爵が入ってきた。五十代後半の父はいつものようにタイを締めラウンジスーツを着込んでいるが、口ひげの手入れが悪い。ひどく強張った顔で寝台を覗き込むと、目を細めた。
「やっと目を覚ましたか。もう午後だぞ。医師の見立てではどうやら怪我はないようだが、まったく心配させられることだ。だいたい……」
 ついで堰を切ったように始まった文句には、愛妻を亡くした父親の愛情があふれている。

 では、あれはやっぱり、現実の出来事だったのね……。

 脳裏に悪夢の一夜が蘇り、ぞくっと身震いした。馬に乗せられた後の記憶はさだかではないが、どうやら無事に屋敷まで送り届けてくれたらしい。
 そこでまたショックを受けた。自分を助けてくれた、あの無礼な男はいったい誰だったのだろう? それすら聞いていないのだ。
 そのとき、まるで頃合を見計らったように父が言った。
「ブラッドフォード伯爵によく礼を申し上げねばな」
「ブラッドフォード伯爵?」
「お前を助けてくれた大恩人ではないか。夜中に、彼がお前を抱きかかえて現れたときは、本当に肝をつぶしたぞ」
「あの人が伯爵ですって? でも……」
「少し起き上がれるかな?」
 侍女に助けられ、慎重に身を起こしたアリシアが、ガウンを身につけ背中に当てられたクッションにもたれかかると、侯爵は扉の外にいるサーバントに向かって声をかけた。
「……?」

 そちらを見るなりはっとする。今まさにあの男が部屋に入ってくる所だった。



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10/9/13