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 明るい室内で改めて眺めると、男は粗野な軍人にしてはかなり容貌に恵まれている、と認めざるを得なかった。
 陸軍の軍服に包まれた体躯は、昨夜と同じく存在感に溢れている。日焼けしているが顔立ちも整っていた。少し乱れた金髪がわずかに肩にかかり、澄んだ青い双眸が、からかうような光をたたえて自分に注がれている。口元に少しゆがんだ笑みを浮かべていた。
 その目と唇を見た途端、忘れていた余計な記憶まで蘇ってきた。アリシアは真っ赤になって上掛けを肩まで引き上げると、男に強い非難の眼を向けた。

「あなた……、あなたがどうしてわたしの寝室に?」
 我にもなくどぎまぎしていた。寝巻きの上、自慢の濃いブラウンの髪も解けて乱れたままだ。こんなしどけない姿を見ず知らずの野蛮な男に見られるなど、あり得ないことだった。

「は、早く出て行ってちょうだい!」
「お父上のご許可をいただいたさ。それにしても、想像以上に手ごわい人だな。命の恩人に開口一番それかい?」
「それとこれとは話が別だわ!」
「さすが、社交界で【氷の華】と異名を取るだけはあるね、レディ・アリシア」

 男らしい眉が呆れたように上がった。見えない火花を散らす二人の間に、まぁまぁと割って入ったのはスタンレー侯爵だった。

「お前は、毎日のように夜会に出ていながら、伯爵と一面識もなかったのかな?」
「いえ、わたしもここ数年、インドにおりましたので。帰ったのはほんの二か月ほど前です」
 インドですって?
 アリシアはさらに混乱したが、断固押し隠し、なおも尖った声を押し出した。
「お助けいただいたことには、心から感謝していますわ。父が、今すぐお望みの謝礼をいたします。どうぞ、それを持ってすみやかにお引取りくださいな」
「別に金品目当てで、あれほど愚かな危険を冒したわけではないさ……」
 男の目が剣呑に光ったような気がした。彼は再び侯爵に向き直ると、おもむろに口を開いた。
「侯爵閣下、たった今気が変わりました。先程のお話、お受けしたいと思います」
「おお、引き受けてくださるか! それは嬉しいことだ。貴公になら安心して娘をお願いできる」
「じゃじゃ馬慣らしにいささか興味がわきましたのでね。これほど気の強いレディには、初めてお目にかかりましたよ」
「なんの、これの母親に比べれば、まだまだ可愛いものだ」

「……お話中、誠に恐れ入りますけれど」

 アリシアは、黒い瞳をきらめかせて、猫撫で声で二人の会話に割って入った。自分の知らないところで、何やら妙な話が進んでいるような気がする。

「いったい何のご相談ですか? お父様、こちらの無礼な殿方をご存知なの?」
「これ、アリシア。恩人にあまり失礼な口をきくものではないぞ。こちらは……」

 のんびりとたしなめながら、紹介しようとした侯爵を制するように、男がアリシアのベッドに歩み寄ってきた。
 その心の中まで見透かすような視線をなんとか無視しようと、固い表情で正面を睨み続ける彼女の傍らまで来ると、意外にも優雅に一礼する。
「失礼しました。確かに自己紹介もまだでしたね。無礼と言われて、返す言葉もないようだ」
 彼は、くすっと笑って続けた。
「わたしはレナード・ウィンスレット。陸軍歩兵連隊に所属しています」
「陸軍少佐であり、今はブラッドフォード伯爵でもある。赴任先のインドから先ごろ本国へ帰られたばかりでな。お前の婚約者として、十分な資格を備えておいでだ」
 侯爵が二人の顔を見比べながら、好ましそうにつけ足した。だが、アリシアは我が耳を疑い、反射的に顔を上げて父を見た。

「『婚約者』ですって!?」
 レナードは呆気に取られたアリシアの手を取ると、からかうような微笑を浮かべた。
「レディ・アリシア、どうぞよろしく。奇妙な成り行きでこうなりましたが、相手にとって不足はないでしょう」
「ちょっと待ってちょうだい……、それに、この手を離して!」

 取られた手をなんとか引き抜こうとするが、敵はひるむどころか、強引かつ優雅に、彼女の華奢な手に唇を押し当ててきた。
「たった今から、僕はあなたの『婚約者』になったのですよ」
「まさか!」
 仰天し、怒るのも忘れてまじまじと見返すアリシアに、可笑しさをこらえ切れない、というように彼がくっくと笑い出した。
 父までが、さっきと打って変わったように雰囲気がすっかり明るくなっている。

「まだ混乱しているのも無理はない。お前はゆっくり休んでいなさい。詳しいことはまた後ほど話すとしよう。では伯爵、わしらはサロンで極上のワインでも飲みながら、今後の相談でもするかな」
「はい、閣下」


 すっかり意気投合したらしい二人が部屋から出て行った後も、アリシアはしばらく呆然とベッドに座っていた。
 ふいに体が震えるほどの衝撃に襲われ、倒れ込むようにベッドに突っ伏してしまう。
「きゃー、お嬢様、お気を確かに!」
 駆け寄る侍女の声を聞きながら、アリシアは、また意識が遠のくのを感じていた。



◇◆◇  ◇◆◇


「お帰りなさいませ。何か良いことでもおありでしたか?」
 珍しく上機嫌でブラッドフォード邸に戻った主人を見ながら、老執事が声をかけた。
「別に……。いや、そうかもしれない。実は、婚約したんだ」
『仮の』だがね、と言いかけて慌てて呑み込む。だがその突然の宣言は、滅多に動じない執事さえ色めきたたせるものだった。
「なんと! それはおめでとうございます! お相手はどちらのご令嬢でございましょう? 保養先の大奥様がどれほどご安心なさるか……。さっそくご報告を!」
「……まだだ。それは、いずれまた」
 子供の頃から世話を焼かれている執事にしつこく問われる前に、レナードは歯切れの悪い返事を残し、そそくさと書斎に入っていった。

 態度に出るほど浮かれているのか? この俺が?
 鏡を覗き込み、いつもの厳粛な表情を取り戻そうとするが、気がつけば口元が緩んでいる。
 参ったな。無愛想な主人に慣れた使用人達が、不思議そうに眺めていたのも無理はない。

 ふーっと息をつき、安楽椅子に腰を落とす。ゆっくりとブーツを脱いでいると、脳裏に忘れられない情景が蘇ってきた。三年前、夜の薔薇園を駆け去っていった若い女の後ろ姿……。

 彼女に、どこか引っかかると思ったら……。そうか、あの夜のレディだ!

 一目見て心を奪われた美しい娘が、今一人前の女性になって自分の前に来ている。この不思議な巡り合わせに、まだ信じられない気がするほどだ。
 昨夜、この腕の中で意識を失っていた無防備な顔が、また目の前にちらついた。手に触れたシルクのような髪の感触も。あらぬ妄想が浮かび、何度も頭を振って毒づく。
 インドで、どんな時でも沈着さを失わない優秀な指揮官として知られていたウィンスレット少佐ともあろう者が、三十にもなって、世間知らずの青二才のように熱くなっているとは……。

 スタンレー家のレディ・アリシアの噂は、彼も聞いたことがあった。社交界で【氷の華】と異名を取るほど、取り澄ました気難しい令嬢だとか。なるほどな、と納得する。
 しかし彼女なら、周りに群がる男達からのアプローチは引きもきらないだろう。侯爵家の一人娘でゆくゆくは莫大な財産の相続人、その上あの美貌ときては無理からぬことだ。
 今のところ、そういった手合いは面白いほど無視しているそうだが、確かに侯爵の心配通り、財産目当ての事件に巻き込まれないとも限らない。

 ああ、まただ……。
 彼女のことばかり考えていることに気付き、レナードは苦笑して立ち上がった。キャビネットから秘蔵のブランデーを取り出し、グラスに注ぐ。
 こじつけの理屈で自分を納得させようとしても意味はない。彼女をもっと知りたいという思いが、みるみる膨れ上がっていくのを、止めることができないのだから。

 昨夜の窓辺での危ういキス――自分の唇の下で柔らかくほどけていった彼女の唇の感触――を思い出すと、全身が熱くなってくる。もっと深くまで探れば、どんな味がするのだろう。

 彼は、手にした琥珀色の液体を、一気に喉に流し込んだ。
 今は、これで我慢するしかなさそうだ……。



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10/9/15 再掲