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「どういうおつもりですの、お父様? あの方と婚約だなんて、わたし、絶対にお断りします!」
 気力体力ともに回復するや、アリシアは着替えてさっそく父の書斎に押しかけた。
 書き物机から目を上げた侯爵に、猛然と食って掛かる。


「まぁ、少し落ち着きなさい。よしよし、顔色も元に戻ったようだな」
 スタンレー侯爵は彼女を眺めて安心したように言うと、椅子に座るよう促した。だが、アリシアはごまかされるつもりはなかった。
「結婚は、自分がしてもいいと思える方といたします。あの方には、紳士としての品性のかけらもないわ」
 よく知りもしないのに言い過ぎている気もするが、良心の呵責は感じないことにした。あの男はなぜかしゃくに触るのだ。今まで出会ったことがないタイプだった。

「お前には寝耳に水だったかもしれん。だが、わしは彼ならば、と見込んだのだ。実際にこんなことがあった以上、お前には護衛が必要だからな。婚約者、という立場なら警護の人間を雇うより、もっと近くにいて、いつもお前の周囲を見張れるではないか」
「わたしがその相手に近づきたくない場合は、どうすればいいのかしら?」
「ならば、当分外出禁止とする」

 むっとしたように黙った彼女に、父も真顔になった。

「実はな。お前の身に何か起こるかもしれないという、脅迫ともいたずらとも取れるメッセージが来ていたのだよ。シェークスピアの長いセリフを使ったものでな」
「……ど、どんな内容でしたの?」
 驚いて問い返す。狙われていたの? わたしが? それはまったく知らなかった……。
「狂気のオフィーリアの独白だった……水辺に浮かぶ前の……」
「何ですって? どういう意味かしら?」
「わしにもわからん。悪質ないたずらと思い無視していたが、そうでもなかったようだ。考えてもみなさい。伯爵がもし、偶然通りかからなければ、お前は今頃本当にテムズ河に浮かんでいたかも知れんのだぞ?」
 アリシアは初めてぞっとした。まさか、そんなことが……。息を呑んで問い返す。
「どうして、今まで教えてくださらなかったの?」
「本気か冗談かもわからぬものを、お前をいたずらにおびえさせるだけではないか。しかも、少しくらい話して素直に聞くような娘かね?」
 否定できずに押し黙ると、父はさらに勢いづいた。
「レナード・ウィンスレットなら、悪い相手ではないぞ。インドでの実績も申し分ないし、平素の素行も悪い噂は聞かん。それに、今は亡き老ブラッドフォード伯爵とわしは、その昔、懇意だったのでな」
「もう結構ですわ!」
 父の入れ込み具合にあきれ、何だか腹が立ってきた。
「つまりは、最初からそのおつもりでしたの? お父様こそ、ずいぶん乗り気でいらっしゃること! でも、おあいにくさま。わたしはこれっぽっちもあの方と結婚したいとは思いません! ですから、あくまで見せかけの婚約ということにしていただきます。この問題が解決するまでの間、ですわ」
 意外にも父は落ち着き払って頷いた。
「ならばそうするがよい。だが、それまではあの男をお前の婚約者とし、外出時はいつも行動をともにするように。さもなくば外出を一切禁ずる。何を膨れておる? 部屋に閉じこもっていなくてよいだけ、ありがたいと思いなさい」
 アリシアは、父を一睨みすると、黙って書斎から出て行った。



◇◆◇  ◇◆◇


「ブラッドフォード伯爵様が、お待ちでございますが……」
 ドアの向こうから執事が三度目に呼びかけるのも無視し、アリシアはむっつりと化粧鏡の前に座っていた。
 とうに支度は整っているが、素直に行きたくない。パーティであの男と並んで笑顔を振りまき、周囲に偽りの婚約を知らせるなんて真っ平だ。
 もう一度、髪をもっと複雑に結い直すように言うと、侍女のケイトが困り果てた顔でおずおずと口を挟んだ。
「お嬢様、旦那様も早く出てくるように仰せです。もうかなり時間が経ってしまいましたもの……」
「それじゃ、急に気分が悪くなり臥せっております、とでも、お伝えしてちょうだい」
「おや、どこかお悪いのかな? いたってお元気そうに見えるが」
 その声に、驚いて振り返ると、かのレナード・ウィンスレットがゆったりとした笑みを浮かべ、開いた扉から入ってくるところだった。
 いつの間に……。
 約二週間振りに見る彼は、あの日とはかなり印象が違う。黒のイブニングドレスコートを着こなし、どこから見ても完璧な英国紳士だ。白いタイも手にしたステッキも思いのほか似合っている。
 我にもなく、どきりとした。にやっと笑いかけられ、不躾に相手を見ていたことに気付き、慌てて目をそらせる。

「いえ、どこも悪くはないわ。ただ気乗りがしないだけ。でもせっかくレディ・ハーモンドがご招待くださったんですもの、仕方ないわね」
 諦めて立ち上がると、ケイトがほっとしたように仕上げの髪飾りを留めた。流行の先端を行くパウダーブルーのサテンのドレスは、彼女にはっとするような艶やかさを与えている。  しなやかに立ったアリシアに、レナードがエスコートの手を差し伸べた。しぶしぶ片手を預けると、包み込む手に思いがけない熱がこもる。
「寒くないかな?」
 あらわになった白いうなじから肩を、レースのショールで覆いながらさりげなく問いかける。その強い眼差しを意識しながらも、アリシアは無関心を装い続けた。



 二人が会場となっているホールに着いたときには、とうにパーティは始まっていた。
 居並ぶ三百名以上の客達の視線が一斉に注がれる。こういう場に滅多に姿を見せないブラッドフォード伯爵と【氷の華】スタンレー侯爵令嬢という異色の組み合わせが、社交界の人々の関心を大いにそそったらしい。
 ホステス役の公爵夫人が嬉々として二人の婚約を伝えるや、未婚の女性達はアリシアに羨望の目を向け、独身の紳士達、とりわけ彼女が踊ったことのある男達は一様にレナードの幸運をうらやみ、冗談交じりの非難がましい言葉をかけてきた。


「まぁ、そんなことは、あまりおっしゃるべきじゃないですわ」
「アリシア、今夜のあなたを前にして、口を閉ざしているなんてできない」
「本当にお上手ね、その調子で、今月は何人の方をくどかれたの?」
「これは参った、この思いをわかっていただけないとは残念です」

 ハンサムで、アリシアと歳もそう違わないサセックス伯爵家の御曹司が、一曲踊り終えて残念そうな面持ちで立ち去ると、次はどこかの侯爵家ゆかりの貴公子、という具合だった。
 アリシアのダンスの相手は、彼女が婚約したと言っても何も変わらない。

「せめて、僕とも踊ってください、レディ・アリシア!」
「ええ、いいわ、このワルツが終わったらね」
「まさか、ブラッドフォードがあなたを射止めるとは……。わたしの胸は張り裂けそうです」
「いつもお上手ね」

 パーティが中盤に差し掛かる頃には、完全にいつもの彼女のペースだった。微笑みながら、軽口には軽口で応じ、レナードと踊るのを避けるために、誘われれば片っ端から踊っていく。
 何人目かのダンスの相手と談笑しながら歩いていると、レナードが二人をにらみつけるように立っていた。
 相手の男を鋭い眼で威嚇して追い払うと、驚く彼女の腕を掴むように、強引に引き寄せる。


「いったい君は!」
 たちまち顔を強張らせたアリシアの耳に、低い声が怒ったように囁きかけた。
「自分が仮にも『婚約している』という自覚はないのか? まずは『フィアンセ』と踊るべきだ、とは思わないかい?」




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10/9/18 再掲