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 アリシアもまた、その朝の寝覚めはひどく悪かった。
 やっとベッドから起き上がった時にはもう昼近くになっていた。柔らかな化粧着をまといベルを鳴らすと、恐る恐るケイトが入って来る。

「お目覚めでございますか」
「少しお腹がすいたわ。軽い食事とお茶を運んでちょうだい」
「かしこまりました。あの、それで……」
 忠実な侍女は一瞬躊躇するように間を置いたが、やがて決心したように口を開いた。
「実は……つい先ほど、お嬢様にお目にかかりたいと、ブラッドフォード伯爵様がお越しになられまして……」
 瞬間、アリシアの頭の中で雷鳴がとどろいた。不運な侍女に当たらぬよう、一度深呼吸する。

「そう……。では、伯爵様にこうお伝えしてちょうだい。もうお出でくださらなくとも結構です。お話は一切なかったことになりましたから、とね」

 堅い表情で立つ女主人を前に、ケイトがあきらめ顔で出て行き、しばらくすると食事のワゴンを押したメイドとともに戻ってきた。
「お支度がお済みになり次第、サロンにおいでくださるよう、旦那様のご伝言です」
 殉教者のように告げた侍女に、アリシアはただ肩をすくめて見せた。
「わかったわ。ではお父様に、しばらくお待ち下さいませ、とお伝えしてちょうだい。待ちきれなくて帰るとおっしゃっても、ちっとも構わないわ」
 ケイトがほっとしたように再び出て行くと、アリシアはゆっくりと時間をかけて食事を取り、さらにゆっくりと身支度を整えた。
 今日は顔も見るものですか。父の前で、もう一度はっきりと断ってやる……。

 戦闘的な気分を反映し、選んだのは美しいフリルとレースをふんだんにあしらった華やかなドレスだった。豊かなダークブラウンの髪を結い上げさせて、大きな金細工のイヤリングをとめ、ハイネックの首元にそろいのネックレスを何連も巻き付けると、ようやく階下に降りて行く。

 部屋の扉が少し開いていて、愉快そうに話す父の声が聞こえてきた。そして時折響く、低い静かな声。
 心臓がまた打ち始めるのを無理矢理抑え込むように、口元にいつもの微笑を貼り付けると、彼女はサロンに入っていった。



「お待たせいたしました。すっかり支度に手間取ってしまって……」
「おお、来たか。まったく何時間待たせるのだ? 日が暮れてしまうかと思ったぞ」
 レナードが引いてくれた椅子に座りながらも、彼を見ないよう、父にのみ話しかける。
「実は、昨日のパーティでとても不愉快なことがあって……、何だか疲れてしまいましたの」
 傍でレナードが身じろぎしたのがわかったが、まだ父だけを見続ける。
「何をむくれているのかな? 娘や」
「世間には、伯爵と言う名の野蛮人もいらっしゃるのですわ。お友達くらいにはなれると思いましたのに、とても残念ですけれど」
 ため息混じりに言った途端、それまで無言だった伯爵が、切羽詰ったように割り込んできた。

「アリシア、夕べは行き過ぎだったと反省している。こうして謝罪にきているんだ。どうか聞いて欲しい!」
 アリシアの視線が、わずかに彼の方に泳いだ。
「それはわざわざどうも。ですが、あなたとお話することは、もう何もありませんから」
 一瞬、彼の目に怒りが走ったような気がした。だがアリシアも負けじと父に向かって話し続ける。
「わたし、こんな方とお付き合いは……」
「閣下! よろしければ、ご令嬢と二人きりで話をさせていただきたいのですが!」
 またもや無礼に割り込んできたレナードに腹を立て、とうとうアリシアは怒りの矛先を本人に向けた。
「今さら、何を話すの?」

 またもや火花を散らす二人を、侯爵は眉を上げて見比べていたが、やがて相好を崩すと「おお!」と、愉快そうに声をあげた。
「これは無粋な真似をしたようだ。それがよかろう。ではアリシア、くれぐれも粗相のないようおもてなしするのだぞ。伯爵、さっきのマハラジャと象の話はなかなか面白かった。また続きが聞きたいものだ。では、お手柔らかにな」
「お父様!」

 閉まった扉を呆然と見ていたアリシアは、背筋を伸ばして椅子に座り直した。少し離れたところには侍女達も控えている。滅多なことはできないだろう。今度あんな真似をしたら、この屋敷から叩き出されるだけだ。

 しばし沈黙が続いた。緊張した顔で座るアリシアに、レナードが紅茶のカップを手に近付いて来る。
「お飲みなさい。気持が落ち着きますよ」
 夕べから落ち着かないのは、一体誰のせいだと思っているのだろう?
 アリシアは差し出されたカップを投げ返してやろうかと思ったが、考え直した。美しいカップに罪はない。
 熱心に見守っている視線を痛い程感じたが、決して目を合わせず、そっと受け取った。レナードが、ほっとしたように彼女の前に腰を下ろす。
 お茶を飲み終えると、アリシアは優雅に立ち上がり、部屋から出て行こうとした。だが、すぐさま行く手を阻まれてしまう。

「待ってください。まだ、話を始めてすらいないじゃないですか」
 その声は、昨夜と同じ何かどきりとするものを含んでいた。意外にも礼儀正しく、声だけが少しかすれている。
「アリシア、昨夜の非礼を、どうかお許し下さい。つい我を忘れた振る舞いをしてしまったのは認めます。お怒りはもっともだが、まずあの件を水に流していただけると……」

 とんでもない。あっさり許したりするものですか。
 アリシアは夕べからの激しい怒りを再び燃やそうとしてみた。けれどさっきの紅茶が心から毒気まで抜いたのか、もはや無理だった。
 彼女は少し表情を和らげ、レナードから離れると、再び椅子に腰を下ろした。

「聞いていますわ。続けてくださいな」
 彼がむっとしたように唇を引き締めたのがわかった。ゆっくりと傍らに歩み寄る。沈黙の中、彼が何とか丁重な態度を保とうと努力しているのを感じ、アリシアはついに相手を見上げた。
 途端に、その青い瞳にこもった強い何かが彼女を捉えた。はっとした瞬間、思いがけない言葉が彼の口から飛び出した。

「お父上には先程、あなたをわたしの妻として、正式に頂きたいとお伝えしました。お父上も、あなたさえよければ異存はない、と仰せでした」
「『妻として正式に頂きたい』ですって? そ、それはつまり……、あなたとわたしが、本当に結婚するということ?」
 まったく予想外の言葉だった。驚きのあまり、鸚鵡返しに声をあげて、相手の顔をまじまじと見つめてしまう。
「そんなに意外な提案かな? 婚約というのは普通、本当に結婚することを前提にするものだと思うがね」

 皮肉に微笑んだ彼をうつろな目で見返し、アリシアは混乱した心を静めようとした。
 そもそも、どうしてこんなに気持がかき乱されているのか、さっぱりわからない。

 これまで誰にも話したことはなかったが、アリシアの中には愛に対する一つの確固とした憧れがあった。小説の中の熱烈に愛を語る恋人同士、とまではいかなくとも、結婚は愛し合う人としたい、という気持が圧倒的に強かったのだ。
 だからこそ、今まで数多くの求婚者達を退けてきたのに……。

 今、自分に向かって、プロポーズらしきことをしているこの男は、結婚を当然のごとく言いながらも、愛のことなどかけらも語ろうとはしない。
 アリシアは、胸を突き抜けた奇妙な痛みと失望が何だったのか、深く考えないようにしながら、注意深く答えた。

「とても残念ですけれど……、あなたとは結婚についての意見も、大分違うようですし」
「見解の相違、ってことかい? 話し合って歩み寄れないものかな?」
 おや、と言うように眉を上げた彼に、ようやくいつもの調子を取り戻したアリシアは、やや辛辣に言い返した。
「第一、それでもプロポーズと言えるでしょうか? 女性が夢見るような文句の一つもなくて……。きっと軍隊の一兵卒でも、あなたよりはお上手だわ」
 彼の顔にかっと赤みが差したような気がしたが、かまわず続けた。
「わたしの答えは、もちろん『ノー』です。どうぞお帰り下さいませ」
「待ちたまえ!」

 とうとう限界に達したように、レナードが荒々しい声を上げた。背を向けた彼女の細い肩を捉え、両手でぐいと再び自分の方に向けさせる。
 だがさすがに学習したらしく、アリシアがまた怒り出す前に手を離すと、謎めいた眼で顔を覗き込んできた。


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10/9/25 再掲