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 だが、レナードは「仕方ないな」と、一つため息をついただけで、アリシアを席へと促した。
 拍子抜けし、座るなりからかってしまう。

「今夜はずいぶんおとなしいのね。野生のライオンも、やっと社交上のしきたりに馴染んできたってことかしら?」
「相変わらず痛烈だな……」
 そう呟いた彼の言葉は、穏やかに続いた。
「君に悪気がないのは、もうわかってるさ。だが、君がどの男にも同じように接するのを眺めているのは、気持のいいものではないね。おそらく僕が、もっと身の程を知るべきなんだろう」
「身の程?」
「そうさ。インド帰りの朴念仁の僕が、ロンドン社交界の【氷の華】に求婚した。その現実を受け入れるべきなんだ。君の人気に我慢できない男には、君の求婚者は務まらないだろうから。だが、そんなに大勢の崇拝者がいながら、君はなぜ結婚しなかったんだい?」

 とても率直な問いだった。腹を立てるべきかもしれないと思ったが、なぜか怒りは沸いてこない。
「……結婚したいと心から思わせてくれるような人に、出会えなかったからだわ」

 少し間をおいて、彼女も率直に答えた。
「まだ子供じみた夢を追っている、と笑われるかもしれないわね」
 小首を傾げ夢見るように微笑んだ彼女を、じっと見ていたレナードが、ふいに手を伸ばして細い手首を捉えた。
 それほどきつく握られているわけではない。少しでもあらがえば、直ちに離すだろう。それでも、今はそうしたいと思えなかった。
 彼はそのままもう片方の手で、アリシアの額にかかる前髪をそっと払いのけた。ブルー・トパーズのような瞳が彼女の心を探っているようだ。

「君は、まだ本当の恋をしたことがないんだね」

 それはごく穏やかな問い、というより、確認だった。だが、それまでぼんやりとレナードを見ていたアリシアは、驚いて身じろぎした。
 自分の心の底に隠してきた密かな願いが、どうしてわかってしまったのだろう?
 侯爵家の娘として、結婚は家柄や家同志の利害が何より優先されるのはわかっていても、それはどうしても捨て切れない憧れだった。彼を見返した瞳には、答えが書いてあるも同然だった。
「アリシア……」
 レナードが低く名を呟く。


 そのとき、第二幕が始まった。
 しぶしぶ、というように彼が手を離すと、アリシアは小さく震え、目を閉じてしまった。
 芝居など、もう完全にどうでもよくなっている。今はただ、身内に湧き起こる不思議な甘い感覚を味わっていたかった……。



◇◆◇  ◇◆◇


 拍手喝さいのうちにオペラが幕を閉じるまで、二人はあまり口を利かなかった。実際、後半はほとんど上の空だった。
 黙りがちに馬車付き場まで歩き、馬車を待っていると、ふいにレナードの表情が変わった。何かを察知したように全身を緊張させている。
 どうかしたの? とアリシアが問うより早く、彼が動いた。

「伏せろ!」

 一声叫ぶと、まるでしなやかな獣のように、彼女の上に覆いかぶさってきた。
 ほとんど同時に、ざわめきの中に銃声が響いた。
 そう遠くからではない。アリシアをかばうように身を伏せた彼が、うっ、と呻いて息を吸い込んだのがわかった。
 その刹那、二人のすぐ近くの敷石に鉛の玉が食い込んだ。恐る恐る見ると、石畳にあいた穴から埃が立ち昇っている。

 周囲にいた帰りの客達が一斉に騒然となった。二人の近くにいた貴婦人達が数人、倒れかけたりヒステリーを起こして金切り声を上げている。
 警備の男達がばたばたと銃声がした方に走っていった。警察を呼べ! と叫ぶ声がする。
 アリシアがレナードの下で身動きすると、やっと彼が身体を起こし、アリシアが起き上がるのに手を貸してくれた。彼の肩を見てはっとする。上着に血がにじんでいる!

「レナード! 怪我をしたの?」
 思わず飛びつくように尋ねた。先ほどの衝撃が急に意味をなしてきて、震えが止まらず泣きそうになる。
 アリシアを安心させるように説明する彼の声が、少しかすれた。
「大丈夫、肩をほんの少しかすっただけだ……。これくらい何でもない。君に怪我がなくて本当によかった……。早く帰ろう」
 彼は驚愕の表情で近付いてきた劇場支配人に二言三言何か告げると、彼女を促し馬車に乗り込んだ。


 動き出した馬車の中で、アリシアは御者から渡されたアルコール瓶と、自分のバッグから出したレースのハンカチを取り上げた。
「傷を見せてちょうだい」 
 真顔でレナードに向き合うと、彼が驚いたように口笛を吹く。
「だめよ。手当てしなくちゃいけないわ、レナード」
 きっぱり言って彼に傷を見せるよう命じた。だが、小さなランプの灯りの中、肩まで広げたシャツから覗くたくましい胸を見ると、どぎまぎしてしまう。
「……光栄だな。たまには怪我をしてみるのも悪くない。かすり傷程度なら、だけどね」
「そ、そんなことばかり言っていると……」
 彼の軽口のおかげで、気持が少し和らいだ。傷自体は確かにさほど酷くなかった。炎症を起こさないよう、わざとたっぷりアルコールをたらすと、彼が「痛っ」とおおげさに顔をしかめたので、つい笑ってしまう。

 思考がようやく働くようになってきた。
 あれは群集の中での無差別発砲などではなかった。犯人は本当にわたしを狙っているんだわ!
 ……でも、いったい誰が? 

 心当たりは、特にない。だが、もしや過去の求婚者の誰かが、殺したいほどわたしを恨み、憎んでいるのだろうか?
 表向きは紳士的に去って行った男達の顔を、一人一人思い浮かべてみる。次第に、姿を見せない相手への怒りがこみ上げてきた。
 どうしてなの? 命を狙われるほど、酷いことをした覚えなんかないのに……。


 手当てが済むと、馬車の中に沈黙が垂れ込めた。俯きがちに黙っていたアリシアが、やがて唐突に切り出した。
「わたし……、探そうと思うの。犯人を……」
 ビロード張りのシートにもたれかかり、何か考え込んでいたレナードが、驚いたように顔を上げた。
「犯人に心当たりでも? 思い出したことがあるなら何でも教えてほしい」
「いいえ、ごめんなさい。別にないわ。だから、たとえば、今まで求婚してくださった方を一人一人訪問して、お話しながら様子を見るとか……」
「これは、無鉄砲なお嬢さんだ」
 レナードはくすっと笑った。
「君の勇気には感服するが、それは却下だな。ほら、またそんな顔をする……。勝気なレディ、お願いだから自分一人でもやる、なんて言い出さないでくれよ。君の身辺警護が大変になるだけだからね」
「でも! それじゃどうすればいいの? このまま黙って何もせずに、ずっと狙われていろって言うの?」

 不安と苛立ちから、我知らず切羽詰った声になる。アリシアのもどかしそうな顔を見て、彼はからかうような表情を引っ込めた。



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10/10/2 再掲