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 毎年、五月の訪れと共に古い森一面に咲くブルーベルの花。
 それは、イングランドの自然が織り成す、妙なる美のタピストリー……。


1860年代 英国 バーミンガムシャー州

 その朝、パトリッジ館の様子がいつもと違っていた。
 普段はのんびりしている家政婦のエリオット夫人が陣頭指揮を執り、今では五人しか居ないメイド達が、マナーハウスの床から階段の手すりまでぴかぴかに磨き上げている。
 この館の当主だったアーサー・パトリッジ男爵亡き後、一人館に残った男爵令嬢、ローレル・パトリッジは整った眉をひそめると、「ドアノブも忘れずに!」と声を上げた家政婦を呼び止めた。
「今日、何か予定があったかしら?」
「おはようございます、お嬢様」
 エリオット夫人は厳粛な表情をかすかに和ませ腰をかがめると、声を潜めて打ち明けた。
「奥様のおいいつけなのでございます。急に特別なお客様をご招待なさったとか……」
「奥様ですって? お継母様がロンドンからお帰りになったの? それにお客様ですって?」
 突然の継母帰還の知らせに驚き、高い声を上げてしまった。まだ歳若い継母は、父の死後、何もないこの田舎を嫌ってずっとロンドンに留まっていたのに。
 だが、どうやら事実らしかった。大きなヴァイオレットの目を見開いたローレルをさっと制し、エリオット夫人は小声で続けた。
「さようでございます。昨夜遅く、全く突然に。詳しいお話は承っておりませんが、どこかの侯爵様をご招待なさったそうです。思うに、奥様のご再婚ではないでしょうか。それはもう、神経質になっておいでですので、お嬢様もお気をつけて」
「侯爵様? 再婚?」
 さらに驚く彼女を、慌てて再びしーっと制した夫人に、ローレルはくすくす笑い出してしまった。
「大丈夫よ。ちょっと……考えてもみなかったから。でも、別に驚くには及ばないわね。お継母様はまだお若いのだし」

 予想外の出来事の連続に、ローレルは家政婦が心配そうに自分の衣装を見やったことにも気付かなかった。だが、もっと詳しく尋ねようとしたとき、二人の頭越しに高飛車な声が降ってきた。
「何を無駄話しているの? もうあまり時間がないのよ」
 エリオット夫人は男爵未亡人の姿を見るなり、さっとお辞儀をすると、そそくさとその場を離れていった。階段の踊り場から横柄な視線をこちらに向けた継母を、ローレルも皮肉な目で見返す。最後に会ったのは父の葬儀の時だった。あれからまだ一年と少ししか経っていない。

「お帰りなさいませ。お久しぶりですわ、お継母様」
 落ち着き払って階段を上っていく。
「でもいつの間に? まったく存知ませんでした」
 やや嫌味をにじませながら尋ねると、継母は嫌そうにこちらを睥睨した。
「昨夜よ。おかげですっかり寝不足だわ」
 確かに今起き抜けのような化粧ガウン姿だ。不機嫌な継母の目に、パチパチと見えない火花が散ったような気がして瞬きする。強いて品良く微笑み返したが無視された。男爵未亡人シルヴィアは、馬鹿にしたように義理の娘の質素なドレスを見た。
「今日は大切なお客様をお迎えするのよ。ローレル、あなたもこのパトリッジ家の一員なら、それらしい格好をしてちょうだい。さもなくば、午餐会には出てほしくないわね。今時、ロンドンの小間使いでももう少しまともですよ。相変わらずね!」

 尊大な継母を無言で見返し、そんなこと、別にどうでもいいと思うけど、とひとりごちる。ともあれ、大事なことだけは聞いておかねばなるまい。

「一体、どなたがおいでになるんですの?」
「アシュバートン侯爵様よ。スコットランド貴族の」
「その方はお継母様のお友達ですか? まさかバーミンガムシャーのこんな田舎まで、わざわざお昼食に来られるわけじゃないでしょう?」
「別にあなたが知らなくてもいいことよ」
 馬鹿にしたようにあしらおうとするのを、何とか食い下がる。
「わたしも、もう二十歳ですわ。滅多にお帰りにならない皆様に代わり、最近は領地も見ています。侯爵様の突然のご来訪でしたら、御用件くらいお聞きしたいわ」
「まぁ、もうそんな歳に? 知らなかったわ、可哀想に……」
 継母がわざとらしく同情するような顔をして見せたので、苦笑してしまう。
「お気遣いは要りませんわ。わたし、社交界はもうこりごりですもの」
 いつまでもこんな言い合いをしていても仕方ない。ローレルはわざとらしくため息をついた継母に、単刀直入に切り込んだ。
「それで、その方のご訪問は、お継母様にプロポーズなさるためですか?」
「まぁ、この子ったら……」
 困ったように呟きながらも、シルヴィアはすっかり機嫌を直したようににっこりと笑みを浮かべた。
「こんな場所で立ち話なんかできないわ。部屋にいらっしゃい。ミセス・エリオット! 小間使いのリリーをわたくしの部屋に寄こしてちょうだい」
「リリーでしたら、一年ほど前に暇を取らせましたわ」
 淡々と応えた義理の娘をむっとしたように睨むと、足早に自室へと歩き出したので、ローレルも慌てて後を追った。


 この館にはそぐわないほど、派手な調度品で飾られた継母の部屋は、何度見てもシルヴィア同様好きになれなかった。
 そして、向かい合って座った途端切り出された話に、ローレルは我が耳を疑った。
「……何ですって? 聞き違えたのかしら。もう一度……」
「この辺りの土地を売りたい、と言ったの。わかったかしら?」
「……本気ですか? そんな勝手なこと、お兄様がお許しにならないわ!」
 青天の霹靂に、ローレルは思わず立ち上がると必死になって反論した。だが継母がテーブルの上の文箱から、書類を取り出し次々広げて見せると、たちまち顔が蒼白になる。
「こんな……」
 震える手で一枚ずつ見ていった。それはいずれも高額の支払い請求書だった。
 リージェント・ストリートの高級家具店やドレス店、宝石店、さらには紳士クラブの過去一年分の請求書まである……。全部で一体いくらになるのか、計算するのも恐ろしい。
 じっと非難を込めて見返した義理の娘の目を避けるように、継母は顔を窓に向けた。窓からは、ローレルの愛するブルーベルの古い森も良く見える。だが、継母の目には風景の美しさなど、全く関係ないようだった。
「メイフェアのタウンハウスの修繕費用が少しかさんでしまったの。新しい家具の購入と、その他にもお兄様とわたくしの社交費用も思ったより出てしまって……。困っていたところへ、アシュバートン侯爵様の代理人の方から、土地の鑑定や買い取人を紹介をなさっている、というお話を伺ったの。お知り合いになれたので、ご招待したというわけ」
「……では、わたし達の大切な森を売ろうと……。そのために帰ってきたとおっしゃるの?」


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14/3/21 更新
3か月ぶりのサイト更新、
そして本当に久しぶりのヒストリカルになりました。
ちょっと緊張ぎみですが、またよろしくお願いします〜。
連載開始のご挨拶は、ダイアリーにて。