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 見られた……? どこで? どこまで?

 ぎくっとするが勤めて顔には出さずに応える。
「……少し世間話をしていただけ、ですわ」
「それであんな風に殿方に身を摺り寄せるのね。人目もはばからずに! 昨夜のあなたは、まるでみだらな娼婦のようでしたよ。おまけに……ロ、ロンドンまで殿方に同行したいと言い出すだなんて! お前はまだ未婚の娘なのですよ! おお、嫌だ!」

 ロンドンへ行くって、誰が話したの? 彼?
 不意をつかれて狼狽した。だが考えるまでもないことだ。これを言い出したのは侯爵本人なのだから。
「穢れない顔をして、やることはまるでコヴェントガーデンの娼婦じゃないの!」

 そう繰り返されて反論もできずに俯いてしまった彼女に、継母はかっとしたように椅子から立ち上がると、テーブルにあった鞭を取り上げ、彼女をピシリと引っぱたいた。鞭の先が肩に当たり、思わずよろめく。シルヴィアは、まだ鞭を手にしたまま、ローレルの周りをゆっくりと回り始めた。
「それで……、まさかあの方の愛人になるつもり? そういうお誘いでもいただいたの?」

 愛人! 愛人ですって……?

 大きく両目を見開いたローレルの胸に、『わたしのパートナーとして』、『マイ・スイート』という甘い声がよみがえってきた。あの時うっとりした言葉が今、氷の刃のように胸に突き刺さってくる。
 たちまち顔色を変えて、その場に凍りついた彼女を見て、継母は表情を変えると鞭を手から取り落とした。今度は、抗議するように声を高くする。

「まぁ、では本当なのね? まったく! あの方もあの方だわ! 今すぐにしっかりと文句を言って差し上げなくては! 軽い気持から、こんな経験もない若い娘をからかうだなんて、道楽にも程があるわ!」

 憤慨した声を上げ続ける継母を、ローレルは愕然とした表情で見つめた。その青ざめた顔は、事実をありのまま告白しているも同然だった。継母の目と声が、ふいに哀れむような調子を帯びる。
「可哀想に……。そうだったのね、それじゃ、あなたは何も悪くないんだわ。叩いたりしてごめんなさいね。ああ、可哀想な娘……。でも、もう安心なさい。わたしがしっかりとお断りしてあげますからね!」

 抱き寄せられながら、ローレルの頭の中は嵐の荒野のように荒れ狂っていた。なんてことだろう! では、あれはすべてそういう意味だったの?
 そうよ。その証拠に……、彼はあれほど熱いキスや抱擁をしながらも、結婚のことは一言も口にしなかったじゃないの……。
 思い当たることばかりでさらに愕然とする。彼の真意にも気付かず、求められて舞い上がっていたとは、なんて愚かだったんだろう。それで彼は、平気で何度もわたしにあんなキスをしたんだわ……。

 まるで、もう純潔を踏みにじられたような気さえする。いいえ、心の中ではすでに同じことかもしれない。
 世間知らずの自分につくづく嫌気が差した。呆然と立ち尽くすローレルの反応に、継母の眼差しと言葉がいっそう優しく同情的になる。
「本当に可哀想に……。あなたはまだ若くて、ああいう殿方の手練手管を何も知らないから、そういうことになるのよ。でも少し安心したわ。あなたもいつの間にか、あの出来事からすっかり立ち直っていたのね。それなら話は早いわ」

 二の句が告げずにいるローレルに、継母はテーブルの紙束の中から、一通の手紙を取り上げて見せた。
「実はね、叔母様からあなたに、コンパニオンになってみないかというお話が来ているの。話そうか、迷っていたのだけれど、ちょうどいいじゃないの」
「コンパニオン……? どなたのです?」
「ボーモント老伯爵夫人、覚えているでしょう? ボーモント伯爵のお母様よ。今、足を痛めて御領地で療養中なんですって。それでお話相手をほしがってみえるらしいの。お給金も弾んでくださるそうよ。よければ少しの間でも、こちらに行ってみてはどうかしら?」
「……!」

 あまりにも急な話に驚いていた。すっかり忘れていたあの伯爵の顔が、脳裏におぼろげに蘇ってくる。
 ローレルは深く考え込んでしまった。だが何より、自分で仕事をしてお給金がもらえるというのは魅力的な話だと思える。
 誰とも結婚するつもりがないのなら 今後のためにもよい機会かもしれない。
 ボーモント家は由緒正しい家柄だし、特に叔母の嫁ぎ先のフイッツロイ家とは親しいと聞いている。万が一、あの嫌な伯爵に会うとしても、もう花嫁はとうに決まっているだろう。

『シルヴィアと一緒にロンドンに来るんだ』

 彼のくぐもった声が再びむなしく耳に響いた。怖い……。ここに居れば、否応なしに彼はあの言葉を実行するかもしれない。もう一度キスされたら、自分にはきっと逆らえない。そうしたら、ロンドンで彼の愛人になってしまうのだろうか?
 社交界の未亡人には、そういう類の女性も居るらしい。だが、自分に愛人など勤まるはずもない。それなら今、彼を避けるためにも、どこか他所へ行ってしまうのが一番いいのではないだろうか。
 しばらく思い悩んだ末、ローレルはついにこう答えた。

「わかりました……。では、叔母様のご好意に甘えて、ボーモント夫人の所に行ってみますわ」
「まぁ、よかったこと、決心してくれて」
 継母が優しく微笑んだ。
「滞在に必要なものは、何もかも叔母様が準備してくださるから心配ないわ。あなたは自分の身の回りの品だけ持って行けば十分よ。とにかく、一刻も早くジェフリーから離れなさいな。彼があなたを誘惑するのは、身分ある殿方の軽いお遊びに過ぎないのよ。でも、女にとっては一生の傷になってしまうわ。わたくしは、あなたをそんな不名誉から守ってあげたいの」
 継母が目が哀れむように自分を見るので、今すぐ消えてしまいたくなった。罪悪感から何も反論できないまま、ローレルは弱々しく頷いた。

 今、ここから離れさえすれば、アシュバートン侯爵とのことなど、すっかりなかったことにできるだろう。彼はすぐにロンドンに帰るのだし、この先もう二度と会うこともない。
 そう思うと、なぜか胸がひどく痛んだ。まるで心臓から血が流れ出すようだ。だが今、自分がなすべきことは一つだけだと思えた。

「わかりました。でもお継母様……、あの森のことだけは、最善を尽くしてくださるよう、くれぐれもお願いしますわ」
「わかったわ。大丈夫。わたくしに全部任せておきなさい」


 絶望的な気持で、ローレルはマーゴットを呼ぶと、簡単に説明した。驚き憤慨する侍女に、屋根裏から旅行鞄を持ってこさせると、身の回りのものを詰め始める。
 一緒について来ると言う侍女を宥め、「ひとつだけお願いがあるの、これを侯爵様にお返しして……」と、彼からの贈り物類を全てまとめた包みを彼女に託した。

 翌日、打ち合わせ通り、継母が侯爵と出かけている間に、ローレルは地味な旅行用のマントに身を包み、トランクを手にそっとパトリッジ館を後にした。


 馬車に乗っていても、溢れてくる涙を抑えるのは難しかった。思うのはアシュバートン侯爵のことばかりだ。
 あんな男性には出会ったことがない。堅苦しいしきたりや常識といった物に囚われず、思うように生きている人……。
 彼は自由を得るために、何も犠牲にしていないようだった。その自由さがうらやましい気もする。

 ジェフリー、ジェフリー……。

 一度も呼べなかった彼の名前を、心の中で何度も呼んでみる。浮かぶのは彼の笑顔、陽気な低い声、自分を見る眼差しばかりだった。
 いつの間にか、こんなにも彼に恋してしまっていたのだと、つくづく思い知らされる。今、彼から離れていくことは、身を切られるような痛みそのものだった。
 でも、求めに応じられない以上、こうするしかないんだわ。少しの間、向こうで辛抱すれば、また元の平穏な日々が戻ってくるのだから……。




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14/5/10 更新