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「……そんな!」
 そういえば、まだその問題も解決していなかった。ぼんやりしていた頭に、継母の机の上にあったたくさんの請求書や書類が浮かび、思わず青くなって彼を見返した。
「今すぐに君達を助けられるのは、おそらく、わたししかいないだろうな。パトリッジ館や君の愛する森の運命も、君の決断にかかっているという訳だ」
「……どういう意味です? わたしに……?」
 こと女性に関して、こんなに思い通りにならなかった経験は過去に一度もなかった。彼は苛立つのを懸命に抑え、落ち着こうと努めながら、ローレルの瞳を覗き込んだ。
「大体、君はなぜわたしとの結婚を、そんなに嫌がっているんだ? 昨日、ベッドでの君はわたしを拒んでいるようには見えなかった。むしろ、すべてを熱心に包み隠さず差し出してくれていたじゃないか!」
「……お願い、その話はもうしないで!」
 面と向かって言われると、恥ずかしさに耐え切れない気がして顔を隠そうとするが、彼は手を緩めてくれるどころか、前かがみになると、涙が伝い始めた顔を仰向けさせた。流れる涙を見ているうちに、さ らに皮肉な気持になってくる。
「君がそんなに思い出したくないのなら、なおさらだな。何度でも言ってやるとも。わたしをよく見るんだ!」
  あれほど熱い夜を過ごした後で、こんな反応が返ってくるとは到底理解し難かった。ロンドンに着くまでに、今後のことを決めておかなければならない。この話は禁忌、などと悠長に構えてはいられない のだ。
 彼のやり方は荒療治だったが、効果はあったようだ。放心していた顔に赤みが差し、再び生気が戻ってきた。だがその答えは予期に反していた。
「お願いですから……。そのことはもう終わらせませんか? あなたが何もおっしゃらないでいてくださるなら、わたしも絶対に、誰にも何も言いません」
「では聞くが……」
 切ない声を上げた彼女の潤んだ目をじっと見つめながら、彼はローレルの言葉の奥の本心を必死になって探ろうとした。彼女が本気でそう思っているとは信じられないことだ。
「君にとって、わたしはそんなに魅力のない相手か? それとも君は、わたしと結婚するより、ボーモントの方がよかったとでも思っているのか? それなら今すぐ言ってくれればいい。もう一度向こうに送っ て行くから」
 たおやかなくせに途方もなく頑固なこの女性を絡めとるため、あらゆる力を総動員しているのはわかっていたが、そうせずにいられなかった。案の定、彼女はおののいたように身震いした。
「まさか! そんなことありえません!」
「だが、シルヴィアが言っていたんだぞ! 君がボーモントと結婚するだろうとね。だから一刻も早く追いかけなければと必死で……」
「何ですって?」
 ローレルの表情が変わった。
「継母(はは)が、本当にそう言ったんですの……?」

 ああ、言うかもしれない、あの人なら……。それであんなに優しそうな顔でわたしを送り出してくれたんだわ。
 そう思い当たると寒気がしてきた。だとすれば、このまま家に戻っても、ほとぼりが冷めればまた同じことの繰り返しになるだけではないだろうか。
 もう完全に追い詰められてしまったような気がする。でも、ボーモント伯爵と結婚させられるくらいなら……。わたしがすべてを捧げたいと思ったこの方が、今、こうしてプロポーズしてくれているのだもの… …。 それをお受けすればいいのではないの? たとえ、彼にとっては義務感に過ぎなくても。全く愛されていなくても……。

「それに、わたしと結婚すれば、パトリッジ家の当面の問題はすぐに解決するだろう。君の森も、本当に君のものにすることができる」
 こうまで言われて、まじまじと彼を見返した。もう完全にチェックメイトだわ。しばらく絶句した後、ローレルは弱い吐息をつくと、ついにこう応えた。
「わかりました……。あなた様と結婚いたします」

 その返事を聞くと、ジェフリーはゆっくりと親指で彼女の顎を押し上げ、用心深くその表情を探った。
 そうか……。あの土地のためなら、君は嫌な結婚も厭わないと言うわけか?
 やっとこの手に求めていた恋人を篭絡したはずなのに、こみ上げてきたのはひどく苦々しい、複雑な気分だった。彼女も決して嬉しそうではなく、むしろ悲しげに見える。
 無言のまま、彼は迷いを振り切るようにローレルの唇を奪うと、震える身体を自分の体で包み込んだ。そのキスは熱く甘く、どこかほろ苦い味がした。
「結構だ。では、戻ったらすぐに手配しよう」


◇◆◇  ◇◆◇


「こんなに早くお式だなんて、昔なら考えられませんでしたよ。普通は一年くらい、公に婚約期間を設けるものですがね。まぁでも、お相手がアシュバートン侯爵なら、文句は何もありませんわね。ボーモント 伯爵より、はるかにお似合いですよ。あの子が決心してくれて、本当によかったこと。あら、シルヴィア。花嫁の支度はもう整って?」
「は、はい、大体は……」
 継娘の結婚式を口実にちゃっかりとドレスを新調したシルヴィアは、複雑な内心を悟られまいと何とか微笑みを繕っていた。まったく! こんなことになるなんて思ってもいなかったのに……。

 セットフォードからローレルを連れてロンドンに戻ってくるなり、アシュバートン侯爵はバーミングシャーにメッセージを送り、きっちり三週間後に式を挙げると告げた。その通知にどんなに愕然としたかしれ ない。急いでロンドンに駆けつけたが、侯爵の決心は岩より固いようだった。ローレル本人はと言えば、なぜか結婚前の花嫁に見られる浮き浮きした様子も見られず、感情を消したような面持で、なすべ き義務を淡々とこなしているという受け身の態度だ。それとなく何があったのか尋ねても、決して口を開こうとしない。
 アシュバートン侯爵は、ほとんど毎日パトリッジ家のタウンハウスを訪れては、彼女の様子を見るように丁寧に話しかけ、馬車で外に連れ出したり、自分や彼女の兄、ラッセル・パトリッジ男爵と式の招待 客や披露パーティの打ち合わせをして帰っていく。
 ラッセルがこの縁組に満足しているのは明らかだったし、侯爵によって社交界中に二人の結婚を宣言されてしまっては、もはやシルヴィアに手の施し様はなかった。どんなに悔しがっても、どうすることも できない。こうなれば、継母として娘を侯爵夫人に仕立て上げた後は、その威光をせいぜい利用してやるくらいだ。だが、それも悪くないと思い始めていた。
 節約のために、と言って、ウェディングドレスは叔母の伯爵夫人が着たものを仕立て直させたが、それを着る本人は全くこだわっていないようだった。
 何より、ジェフリーのおかげで滞っていた請求書の支払いが全て清算できたのだから、安堵してしかるべきだ。結局、 売りに出していたかの古い森を含む地所は、侯爵が花嫁への結婚の贈り物として 買い取ってくれたのだった。書類に、花嫁が本当に結婚生活を送ること、という奇妙な約束を添え書きして……。

 あまりにも突然の告示に、社交界にもさまざまな憶測が飛び交った。だが、侯爵自身の断固とした態度を前に、アシュバートン家の親族さえ、意義を唱えることはできないようだった。


 時間は飛ぶように過ぎ去り、初夏のロンドンは当日、朝から好天に恵まれた。
 晴れた空と緑の街路樹が葉影を落とすハノーバースクエアのセントジョージ教会。その荘厳な建物の前に、白馬に引かせた馬車が次々止まり、着飾った招待客達が降りてくる。
 花嫁の叔母、フイッツロイ伯爵夫人は夫の伯爵にまだ愚痴っぽくぼやいていたが、それでも田舎で一生埋もれて終わりそうだった姪が、突然富裕な名門貴族に見初められて結婚するというので、晴れ がましい思いが言葉の端々に透けて見えた。

 アシュバートン侯爵は、金モールをつけた軍服の正装に、女王陛下からいただいた勲章をつけながら、心中深く決心していた。結婚式まではこれ以上波風を立てるまいと、ずっと黙って彼女の様子を見 守ってきた。だが、忍耐もそろそろ限界に近い。
 自分を出会い頭からひきつけた、あの生き生としたアメジスト色の瞳から輝きが消え、代わりにあきらめたような陰りがずっと宿っているのも全く気に入らなかった。
 何故だ? アシュバートン候爵夫人になることの、何がそんなに不満だ?
 募る苛立ちを抑え、短い婚約期間中は強いて丁重に、模範的な婚約者として振舞ってきた。だが、これからはもう違う。彼女は今日、正式に自分の妻になるのだから。
 もう一度この腕に抱けば、彼女があのかわいい胸の内で考えていることも見えてくるだろう。是非とも見極めてやるつもりだった。彼女の衣装をずっとそうしてやりたかったように、まとっている沈黙のベ ールをことごとく剥ぎ取ってやる。



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14/5/31 更新
久々のあとがきは、ダイアリーにて。