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 翌日、かなり日が高くなってから二人はホテルを出た。アシュバートン邸に着くと、ローレルは先に馬車を降りた侯爵に手を取られ、おずおずと館に入っていった。
 広い立派な玄関ホールに、制服姿のメイドや使用人がずらりと勢ぞろいして出迎えてくれていた。その数が何十人もいて驚いてしまう。パトリッジ家のタウンハウスとは比べ物にならないほど大きな屋敷に気後れしたが、表向きは侯爵夫人らしく軽くうなずきながら、ゆっくりと進んでいった。中央の執事らしき男と老婦人が進み出ると、夫が紹介してくれる。

「執事のオーランドと、家政婦のルース・ベニントンだ。それから……」
「本日より奥様付きの侍女になりました。ネリー・オコネルでございます」
「よろしく……」
「ルースとネリーは、奥様のお世話と館の案内を。では、後で食事のときに会おう」
 先に立ってどんどん歩いて行く主人について、執事が手短にあれこれ報告しているのが聞こえてくる。大勢の使用人の前で一人残され困っていると、また声がかかった。
「奥様、まずはお部屋にご案内いたします。こちらへどうぞ」
 厳格な顔の家政婦について行くと、美しい大理石の飾り棚の上にかけられた荘重な肖像画が目に飛び込んできた。聞けば、十七世紀初頭のジェイムズ一世当時のアシュバートン侯爵だと言う。
「それではまず、本日のご予定を申し上げます。それから館の中のご案内を……」

 豪華な部屋に案内され、ぼんやりと家具や調度品を見ていると、また厳格な声がした。なんだか頭がくらくらしてくるようだ。
 だが、その日はまだ始まったばかりだった。家政婦からその日のなすべきことを聞かされながら、ローレルもいよいよ覚悟を決めざるを得なくなった。
 何しろ夕刻からは、アシュバートン家親族へのお披露目晩餐会が用意されているのだから……。


◇◆◇  ◇◆◇


「おや、一人で外出とは珍しいな。どこへお出かけだ?」
 身支度を整えて階段を下りていくと、ちょうど外から帰ったばかりの夫が、こちらを見上げて皮肉に微笑んでいる。ローレルは少し頬を赤らめた。先日、気分が優れないと言って夜会への同伴を断ったことを、まだ根に持っているのかしら。下まで降りると、遠慮がちに答えた。
「レディ・ホーテンスから慈善事業のお誘いを受けましたので……、ホーテンス伯爵家のサロンです。少し出かけてきてはいけませんか?」
「相変わらず、そっち方面だけは熱心だな。別に出かけるなと言ってはいない。それなら送っていこう」
 そのまま、今入ってきた扉へきびすを返そうとした夫を、ローレルは慌てて押しとどめた。
「いいえ、レディ・ホーテンスの馬車が迎えに来てくださるので、一人で大丈夫ですわ」
「ふん、なら好きにすればいいさ。だが、明日の夜の晩餐会は、君にも同席してもらう。これ以上言い訳は聞かないよ。わかったね?」
 不機嫌そうにシルクハットを脱いで執事に渡した夫を見ながら、ローレルはためらった。
 なんだかご機嫌が悪そう……。行かない方がいいのかしら。でも、この家に居てもすることが何もないんですもの……。

 小さなパトリッジ館でなら、家政婦と一緒に家事全般を取り仕切ることもできた。だが、ここには執事も家政婦も居て、万端滞りなく目を配っているので、新米侯爵夫人に口を挟む余地などあるはずもない。 
 ロンドンには知り合いもあまり居ないので部屋に閉じこもってばかりいると、気が滅入ってくる。かといって、継母や兄を訪ねたいとも思えなかったし、夫の社交に付き合うことは、想像以上に住む世界が違っていた。どんなに華やかに着飾って出かけても、なんだか気疲ればかりして、気が付くと時間を気にしている。
「奥様、ホーテンス家の馬車が到着いたしました」
 執事の声がした。不可解な目でじっと見ている夫に言葉少なく、「では、行ってまいります」とだけ告げると、逃げ出すように外に出てしまった。

 結婚して、二人がメイフェアのタウンハウスで暮らし始めてから数か月が過ぎていた。その間、二人の夫婦関係はまるで危ういバランスを取るように続いていた。
 ローレルの元から控えめな性格のせいで、言いたいことも抑えがちだったし、 ずっと田舎に居たせいで社交慣れもしていない。それでも、やはり慈善事業には関心があるようで、そういう貴婦人のグループから声をかけられると出かけていくようになった。集まるメンバーを聞けば別に止める理由もなかったし、そういった活動を通してでも、彼女がロンドンに馴染んでくれることを願っている。

 だが、ジェフリーの胸には日を追うごとに苛立ちが募っていた。妻の何かが、出会った頃と決定的に違っている。彼女が変わってしまったような気がしていた。
 出会い頭から自分を惹きつけて離さなかった、生き生きとした輝きが、ロンドンで暮らし始めてからすっかりどこかへ行ってしまったようだ。かと言って、社交界に適応できないというわけでもなく、アシュバートン侯爵夫人として、パーティや会合に連れて行けば期待されている役割はそれなりにこなし、美しい妻を演じてくれている。
 そう、彼女は演じているだけなのだ。彼が森や村で魅せられたローレルの生気あふれる表情は、ここではほとんど見られなかった。
 焦るな、新しい環境にまだ戸惑っているだけだ。懸命にそう思おうとするが、彼女自身が一向に自分に対するよそよそしさを崩そうとしない。尚のこと苛立って、彼女の秘めた心の内を何とか暴こうと、寝室での営みは激しさを増したが、彼が与える愛撫や刺激に、肉体は甘く融けるように反応していても、心はどこか遠くに居るような、とらえどころのなさを感じることがしばしばだった。
 ひとつはっきりしているのは、妻の方から自分を求めてくる素振りが一向に見えない、ということだ。放っておけば、そのうち求めてくるかと 無関心を装って彼女の部屋にも行かず、酒で紛らわせて眠ってしまう夜もあった。だが、しばらく待っても変化はなく、それどころか一層遠のいてしまうようだ。とうとう欲求不満が高じ、逆に夜の行為が乱暴なまでに荒っぽくなったりもした。だが、妻は彼が何をしても変わらず、いつもどこか遠慮がちな雰囲気を漂わせているばかりだった。


◇◆◇  ◇◆◇


 気が付くと、秋も色濃くなっていた。ロンドンの社交シーズンもまもなく終わる。この冬はどう過ごそうか……。
 ある日の午後、妻の顔を思い浮かべながら、ぼんやりと書斎の窓辺に立ってそんなことを考えているとき、執事が銀の盆に一枚の書類を載せて入ってきた。何やら浮かない顔をしている。嫌な予感がして眉を上げると、執事も頷きながらその紙片を差し出した。
「実はまた、レディ・パトリッジのつけの請求が参りまして」
「こちらに持ってくるなと言ったはずだぞ、店主に」
 思い切り不機嫌になってその紙切れを投げ出したが、執事は困ったようにぼそりと言った。
「おそらく、あちらのお支払いがまたもや滞っているのでございましょう。奥様に申し上げて、ご注意いただいてはいかがでしょう」
「いや、それには及ばない」
 妻には対処しようもないのはよくわかっている。しぶしぶ請求金額を確かめ直し、ふんと鼻を鳴らした。
「大したことはない。今度だけ立て替えておけ。但し、これ以上は容赦なく担保を取るとシルヴィアを脅しておくんだ」
「かしこまりました」

 執事が出て行き、しばらくすると今度は家政婦のミセス・ベニントンが来客を取り次いだ。
「旦那様、ミセス・バートラムがお越しでございます」
「今行く」
 今度の客は、彼も加入している入会地保存協会の創設者の一人、市民活動家として名高いオクタヴィア・バートラム夫人だった。彼女が半年振りにロンドンに戻ってきたらしい。



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patipati
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14/6/6 更新
やっと、最後のキィマン(ウーマンですが)のご登場です。
残り3回ですので、よろしくお願いします〜。