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「まったく、霧の都だなんて、結局は工場の煤煙を詩的に表現しているだけですわね。おお、アシュバートン侯爵様、ご機嫌いかがですか。長らくご無沙汰しておりました」

 サロンの扉を開くと、陽気な婦人の声がした。旧知の相手への気安さから穏やかな笑顔を向ける。
「ウェールズから帰ったばかりでは、尚さらそう思うだろうな。あなたも変わりないようだ、オクタヴィア」
「すっかり遅くなってしまいましたけれど、ご結婚おめでとうございます。あなたの最愛の奥様には、今日はお目にかかれないのかしら?」
「あいにくと、今は外出中で」
 ぎくりとしながら、あいまいな返事をする。
「それは残念ですこと。お目にかかるのを、それは楽しみにしていましたのに。またすぐに湖水地方に行かなければなりませんし、今年はなんだか地方に行きっぱなしで終わってしまいそうですわ」
「今回はずいぶん長い旅行だったようだが?」

 侯爵は、執事が運んできたお茶とスコーンを勧めながらこう尋ねた。妻のことから話題が逸れたのでほっとする。

「その代わり、すばらしいカントリーハウスやガーデンをたくさん見せてもらえましたのよ。保存対象として我が協会でどこまでできるか、これからじっくり皆様と話し合って見なくてはなりませんわ。あと、賛同者ももっともっと増やしていきたいところですわね。ところで、あなたの見つけた妖精の森はいかがでしたの? お手紙を読んで、そちらにもぜひお邪魔したいと思っておりました。それにしてもあなたに結婚を決意させるなんて、よほどのお嬢さんでしょうね……。あら、どうなさって? 何だかお元気がないような……」
「いや、そんなことはないが」
「わたくしの目は節穴ではないのですよ。その方と何かあったのですね?」

 一瞬視線を逸らした彼も、人懐っこい夫人の温かい青い目にじっと見つめられているうちに、今まで誰にも相談したことのなかった妻への密かな悩みを打ち明けてしまっていた。
 お茶を飲みながら黙って聞いていた彼女は、やがて年長者らしく頷き、こう言った。

「ねぇジェフリー、ご存知でしたかしら? ブルーベルの花はね、人の手で育てるより、自然に任せたほうがよほど美しい花を咲かせるんですの。だからブルーベルを保護したければ、花が育っている古い森を、その土地ごと保護し守ってあげるのが一番いいんですのよ」
 彼ははっとしたように緊張した目でバートラム夫人を見返した。
「それは……つまり……」
「あらあら、わたくしがお話したのは、あくまでブルーベルの花のことですよ。でもね」
 ミセス・バートラムはよい香りのする紅茶を飲みながら、英国の自然と風土をこよなく愛する自然保護家らしい鷹揚さを見せて微笑んだ。
「森で自由に歌っていた小鳥を捕まえて、金ぴかの籠に入れて保護しようとしても、その小鳥が幸せかどうかはわからないですわね。本当に愛しているのなら、相手を束縛するばかりではなく、どうしたら一番相手にとっていいことなのか、相手の身になって考えてあげることも大切ですよ。あなたのような殿方には、一番難しいことかもしれませんけれどね」


 ミセス・バートラムが帰ってしまった後も、彼は書斎に閉じこもったきり、夜遅くまで考え込んでいた。
 何も知らないローレルは、自室の大きなベッドで寝返りを打ちながら夫を待っていたが、どうやら今夜も来るつもりがないようだ。
 結婚してから、心が全く通い合わないままに、時ばかりが流れていくような気がした。浅い眠りに落ちながら、もう夫は自分に飽きてきたのかもしれない、とふと怖くなった。最初から愛などなかった結婚なのだ。もしかしたら、すぐにでもそんな日がやって来るのかもしれない。
 そうなった時、自分はどうすればいいのだろう?


◇◆◇  ◇◆◇


「え? パトリッジ館に帰れ? それは……それは、どういう意味ですか?」

 議員クラブ主催の晩餐会を終えて帰宅し、沐浴も済ませて寝室でようやく二人きりになったときだった。
 その日一日中黙り込みがちだった夫に突然そう切り出され、ローレルは青ざめた顔で彼を振り返った。ああ、とうとうこの時が来てしまったの……?

 だが侯爵は、妻の表情の変化にも気付かないように、少し口角をあげて微笑んでいる。
「いや、帰れと言っている訳じゃないさ。もし君が帰りたいなら帰ればいい、という意味だ。確か、結婚してから一度も帰っていなかっただろう? ロンドン・シーズンもそろそろ終わるし、よければ少し実家で骨休めでもしてきたらどうだ?」
「………」
「どうした? 嬉しくないのか? 近頃はいつもこうだな。黙っていないで何とか言ったらどうなんだ?」

 だが、彼の精一杯の妥協にも、妻はわずかに表情を動かしたきりで何も応えない。せっかく心づくしの提案をしてやったのに、嬉しくないのだろうか? また苛立ちがこみ上げて、つい口調がきつくなる。
 そんな夫から離れ、彼女は伏目がちにドレッサーに向かうと、震える手で髪を解き始めた。
 鏡に映った夫は、無言でまたグラスを取り上げ、ワインを注いでいる。最近彼の飲酒量がさらに増えている気がして眉をひそめた。
「あなた、今夜はもうおやめになって……。お食事の時もかなりお召しになっていましたわ。お体に触ります」
「ほう、一応心配してくれているわけか? 何、別に酔ってなんかいないさ」
 皮肉に微笑みかけながら、彼女に向かってグラスを掲げると、彼はぐいと一息に飲み干した。
「酔おうとしても、さっぱり酔えないんでね」

 本当にもうやめさせなくては。ローレルはブラシを置いて立ち上がると、彼のところに戻り、その手から空になったグラスを何とか取り上げ、元のテーブルに戻した。
「もう十分だと思いますわ。どうかベッドにお入りになって」
「くそっ、わたしを赤ん坊扱いするつもりか?」
「今のあなたを見る限り、そんな気がしていますわ」
「ふん、優しい母親役など演じてもらわなくても結構だ。どうせ、わたしに何かあれば勿怪の幸い、厄介な亭主を片付けられると、密かに喜ぶんじゃないのか?」
「なっ……、何てことをおっしゃるんです?」

 夫の顔を見上げた彼女の手が止まった。その顔が強張ったのを見て、皮肉に眉を上げるとかすれた笑い声を上げる。
「おやおや、図星だったかな? それは失礼したね。君がそこまでわたしのことを嫌っているとは思いもしなかったよ。レディに嫌われた経験など、あまりないものでね」

 ふん、と唸って彼はいきなりローレルに腕を回して乱暴に引き寄せると、細い首筋に飢えた様に口をつけた。実際飢えていた。またここ数日、この妻を抱いていないのだ。
「さっきなど、まるでわたしに触れられるのも我慢できないという態度だったじゃないか」
「さっきは……、人目がありましたから」
「ふん、どうだか。あの青二才の大尉には、人前でも堂々と色目を使っていたじゃないか」
「そんな! あなたの完全な誤解ですわ! あ、あなたの方こそ……」

 酷い言いがかりに今度こそ我慢できなくなって、身を振り解くと彼に向かってとがめるように声を上げた。だが、彼はローレルの身体を再びぐいと手繰り寄せると、その表情を探るように顔を覗き込んできた。
 細められた黒い目には、満たされない男の欲望とくすぶる憤りとがありありと浮かんでいる。
 いけない、これは危険の兆候だ。ローレルがそう気付いたときにはもう遅かった。



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14/6/9 更新
あとがきは、ダイアリーにて。