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だが、ローレルの目はもう焦点が合っていなかった。黙って見下ろした黒い目が陰る。口元をぐっと引き締め、彼はすぐさま着ていた上着を脱いでローレルに着せ掛けてくれた。
「このレディの保護者を探して、向いの部屋に来てくれ」
脇でおろおろしている従者らしき男にこう告げると、両腕に彼女を抱き上げ、周りのざわめきなど物ともせずに部屋を出て、誰も居ない静かな別の小部屋に入っていく。
部屋のカウチの上に下ろされても、まだ呆然自失状態の彼女の顔をそっと上げさせ、額の傷に注意深くハンカチを当ててくれた。触れられ、思わずびくっとする。彼は小さなため息をついて、まるで子供に言い聞かせるように優しい声をかけた。
「可哀想に……。怖かっただろう。だが、もう心配は要らない」
「あ、ありがとう……ございました。わたし、わたし……あんなつもりは少しも……」
必死で礼を述べて説明しようとしたが、さっきの恐怖の反動で、涙がどっと噴出してきて言葉にならなかった。身体がぶるぶる震え出し、自分でも訳がわからないまま泣き出してしまう。
「あんな男は人間のくずだ。レディ、貴方は何も損なわれていない。安心しなさい」
優しく彼女を抱えていた紳士はそう呟き、慰めるようにローレルの顔を覗きこんだ。凪いだ夜の湖のように穏やかな黒い瞳……。そう思ったとき、彼の唇が額にそっと押し当てられた。はっとしたが少しも嫌ではない。
そのとき、急に部屋の外があわただしくなった。ドアが勢い良く開き、「まぁまぁ、何てことでしょう!」とヒステリックな声と共に、事件を聞きつけたらしい叔母と継母が部屋に駆け込んできた。姿勢を正して振り返った紳士は、二人に事情を手短に説明してくれた。叔母が劇的なほどヒステリックに声を上げたが、紳士はただ静かにこう言っただけだった。
「お嬢さんは、まだショック状態にあるようです。早く連れ帰ってゆっくりと休ませてさしあげることだ」
そして、そのまま部屋から出て行った。ローレルの手に、イブニングジャケットとハンカチを残したままで。
それから、ローレルは厳重にショールにくるまれ、屋敷の裏口から連れ出された。
名誉を傷つけられ、人々の笑い物になったのは結局、彼女一人だった。くだんのボーモント伯爵もその事件以後、交際を断ってきたので、確かに目的は一応達したのかもしれない。だが、同時に失ったものが大き過ぎた。
短期間のうちに傷つき疲れ果てて、ローレルは一人故郷に逃げ帰った。もう二度と、ロンドンになんか行かなくていい。そう心に決めながら……。
幸か不幸か、うるさかった叔母や継母も、社交界で評判を落とした娘にはそれ以上何も言わなかった。やがて、それどころではなくなった。父、パトリッジ男爵が突然病床に着いてしまったからだ。
娘と継母の懸命の看病も虚しく、それから半年ほど後に父が亡くなり、嘆く暇もなく葬儀や相続の煩雑さに追われながら、時が過ぎていった。
◇◆◇ ◇◆◇
……何だか、嫌なことまで思い出してしまったわ。
あの時助けてくれた紳士は、一体どなただったのかしら。結局、名前も聞けなかった。
きっと由緒ある家柄の立派な紳士に違いない。もう二度とお会いすることもないだろうけど……。
ローレルは自分を変えてしまった悪夢のような記憶を振り捨てるように、ブルーベルの森に駆け込むと馬を下りた。
一年のうちわずか二週間だけ、この森にはすばらしい青い花のじゅうたんが敷かれる。今がまさにその季節で、森には幻想的な光景が広がっていた。
でももし、ここが人手に渡り、開発と称してこの木々が切り倒され、土地が開かれるようなことになれば……。
この森も花も、全て死んでしまうだろう。
ああ、だけど! あんなにもたくさんのお金が必要だったなんて!
パトリッジ館は大丈夫なのかしら。両親との思い出の詰まった大切な館なのに……。
どうしたらいいのか見当もつかないまま、彼女は今を盛りと咲き乱れる花の中に佇んでいた。
ふいに、鳥のさえずりがやんだ。目を上げると向こうから街道を走ってくる馬車が見えた。辻馬車ではなく、立派な貴族の馬車のようだ。
あれは、もしかすると……。いいえ、きっとそうだわ!
咄嗟にローレルは、馬車の行く手を遮るように街道に立つと、これから対決すべき相手を待ち構えた。
◇◆◇ ◇◆◇
「旦那様、そろそろパトリッジ領に入ります」
「ほう……、これは」
御者兼従僕のホッジズに言われ、彼が眠い目を開けて馬車の窓から外に目を向けた途端、一面に咲くイングリッシュ・ブルーベルの花が目に入った。なんと見事な……。まるで深青の花の海だ。
アシュバートン侯爵、ジェフリー・マッケインを乗せた四輪馬車は、パトリッジ男爵領に続く街道を走っていた。ふいに現れた森の中の一面の青紫色の花の海は、古い森特有の豊かな芳香と生命力に溢れている。長年の都会暮らしで、煙草の匂いと喧騒の中ですっかり忘れていた瑞々しい大地の匂いだった。
この場所は……。懐かしい故郷を思い起こさせる。
数年前に爵位をついで以来、グラスゴーとロンドンばかり行き来していて、全く帰郷していなかった。懐かしい灰色の空と瑞々しい緑の山間にある城館が、ふいに目の前に蘇る。
少し感傷的な気分になって、侯爵は軽く頭を振った。昨夜はクラブに長居し過ぎたかもしれない。どうも疲れがまだ残っているようだ。友人からのやや面倒な依頼と、パトリッジ男爵未亡人の誘いかけるような目つきがオーバーラップし、さらにうんざりした。
だが、とりあえず片付けるべき用件は片付けねばならない。そのために暖かいベッドから這い出し、うす暗いうちから馬車を走らせてきたのだ。はるばる、こんな田舎まで。
「お願いです、止まってください!」
ベルベットのシートにもたれ、再び目を閉じたとき、突然女の声が聞こえ、ヒヒーンと馬が鋭いいななきを上げて棹立ちになった。御者が「うわっ、なんだ!」と叫び、急に停車する。その衝撃で馬車が激しくゆれ、彼も窓枠に飛びついた。
「何事だ!?」
不機嫌に外を見ると、ホッジズが御者台の上から、行く手を遮っている当の相手に向かって、強い口調で文句を言っていた。
主人の声を聞くなり、慌てて御者代から飛び降りる。
「旦那様、お怪我はございませんでしたか。実は、妙な娘が突然目の前に飛び出してきまして……。おい、娘! 早くそこをどかんか!」
「妙な娘?」
当の本人は、彼の顔を見るなり、思い詰めた顔で歩み寄ってきた。確かに、まだほっそりとした少女の面影を残す若い娘だ。滑らかな顔にかかる淡い金髪が、梢から差し込む陽光に映えて、まるで光のベールをまとっているようだ。そして大地に咲くブルーベルの花を写し取ったような、大きなアメジスト色の瞳が、闖入者をとがめるように見つめている。
これは、美しい……。
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14/4/4 更新