NEXTBACK



Page  5


 独りになるや自室に駆け込むように飛び込んだローレルは、高鳴る胸を押さえて呟いた。
「いやだわ……。一体どうしたの?」

 馬車の中で侯爵と向かい合っていた時も、懸命に落ち着いた振りをしていたが、内心この鼓動が聞こえていたらどうしようと、ひやひやしたほどだ。
 ふーっとため息をついて、馬鹿な受け応えはしていないはず、と思おうとしたが、洗練された貴婦人の振る舞いからも程遠かったに違いない。でも、わたしは貴婦人じゃないんですもの、仕方ないわね。
 アシュバートン侯爵は、確かに申し分ない貴公子だった。地位にふさわしく堂々と落ち着き払っているが、歳はまだ多分三十過ぎ。兄より少し上くらいだろう。女なら誰もがうっとり見つめていたくなるような整った顔立ちに、話すときの低い声。額と襟足に少しかかっている黒髪……。

 ふと、また二年前に助けてくれた紳士と面影が重なった。チェストの奥に大切に保管しているハンカチとイブニングスーツを、そっと取り出してみる。
 もしかしたら、あの人かもしれない……。でも、向こうは全く覚えていないようだし、ならば、これらを見せて、無理に思い出してもらう必要はないだろう。
 自分でも、できれば忘れてしまいたい過去なのだ。

 落ち着かない気分で立ち上がると、ふと部屋の鏡が眼に入った。そこに映る自分の姿を無意識に点検する。
 さっき、彼がフェアリーのヴェールのようだとほめてくれたふんわり波打つ淡い金髪と、アメジスト色の瞳だけがとりえだ、とため息をつきたくなった。他に見るべきものは大してないだろう。よく外に出るせいで肌は少し日焼けさえしている。そして何より、今のドレス……。
 悔しいけれど、継母の言う通りだと認めざるを得なかった。見るからに大貴族の彼の前では、あまりにも貧相だ。継母がドレスはもとより、館中に気を配っていたのも頷けた。
 あの「ジェフリー」という呼び方からも、継母が彼を憎からず思っていることはすぐ伝わってきた。彼の方も、継母をファーストネームで呼ぶほど親しげだったし……。
 馬鹿ね。それがどうだと言うの? わたしには関係ないじゃない。
 第一、今まで容姿やドレスのことなんて、気にかけたこともなかったのに……。


 そのときメイドがノックした。「奥様がお呼びです」と言うので、しぶしぶ継母の部屋に赴く。化粧ガウン姿の継母は、さっきにも増して尊大な態度だった。

「さっき、侯爵様とどこでお会いしたの? 余計なことを言わなかったでしょうね」
「森で偶然お会いしたんです。ブルーベルの花を一緒に見ていただけですわ」
「冗談言わないで。彼があんな草花に関心なんか持つものですか。まさか……」
 継母がいきなりぐっと目の前に顔を近づけてきた。目を細めて、急に脅すようなゆったりした声音になる。
「ジェフリーに近付こうだなんて考えていないでしょうね? あなたみたいな小娘、全く御用はないわよ」
「でもあの方、お継母様よりいくつか年下でしょう?」
 つい口が滑った。継母は嫌な子ね、とさらに高飛車に言い放つ。
「だから何か問題があって? あの方は裕福な貴族よ。再婚相手として申し分ないじゃないの」
「……それはお継母様のご自由ですわ。わたしには関係ありません」
 淡々と応えると、継母も拍子抜けしたのか威嚇的な態度をやめた。内心ほっとする。
「ですが、再婚のご希望はともかく、わたし達のあの土地を売ることは、今も反対ですわ」
「あなたの同意は不要だと言ったはずよ。当主であるラッセルがイエスと言えばいいの。気に入らないなら、さっさとお嫁に行くか、ロンドンの叔母様のところに行ってもらっても、ちっともかまいませんよ。この前も心配していらしたしね」
「……わかりました。侯爵様とうまく行くといいですね」
「わかったら、あなたもどうしても必要なとき以外、彼に近付かないで。とにかくよい印象を持っていただけるよう、愛想よく振舞ってちょうだい。うまくいけば、土地も売らなくても済むかもしれないわよ」
 再婚がうまくいけば、とでも言いたいのだろう。そう都合よく運べばいいけれど、と、ため息をつきたくなった。だが、その従順な返事に満足したらしく、とにかくご機嫌は直ったようだ。もう行って、と手で追い払われ、ローレルは自室に戻った。

 とても疲れた気分で、ぐったりとカウチに崩れ落ちたとき、身の回りの世話をしてくれるメイドのマーゴットが入ってきた。何故かかなり憤慨している。
「まったく、呆れて物も言えませんわ、奥様ときたら! お嬢様にあんな態度で……。ご自分こそ、元はと言えばただの商家の娘のくせに!」
「しっ、そんな風に言っては駄目よ。それに、お継母様が再婚してくださったら結構なことじゃない」
「はい、お嬢様。そうかもしれませんけれど……」
 不服そうに彼女の金髪をブラッシングしながら、マーゴットが猶も愚痴をこぼした。
「お嬢様こそ、こんなにお美しい盛りですのに、田舎でただうずもれておられるなんて、本当にもったいなくて……」
 ディナー用のやや型の古いクレープのドレスのボタンを留めながら、無念がるメイドを宥め、ローレルは立ち上がった。
「わたしは、これで十分満足しているわ。嫌な人と結婚するくらいなら、一生今のままの方が幸せよ。でも、とにかく食事には出るしかないようね」

 ローレルは鏡の前でさっと最後の点検をした。あの侯爵には何故か、みっともないと思われたくなかった。


◇◆◇  ◇◆◇


 午餐の席に着いたローレルは、継母と侯爵の会話を聞きながら黙って食事をしていた。
 継母もまだ三十五歳の女盛りだし、上流社会での話題も豊富だ。確かに未亡人で終わるにはもったいないと、誰もが言うだろう。
 けれどたまに、上座についた彼と目が合うと、どきりとする。
 口元に慇懃無礼な微笑みを浮かべた黒い瞳が吟味するように自分をじっと見つめてくる。その視線に絡め取られるような気がした。つい早めにフォークを置くと、彼が眉をひそめて、こちらを見る。
「ミス・パトリッジ、あまり食が進まないようですね?」
 話の腰を折られた継母が、嫌そうにこちらを見た。
「普段から少食なのですわ。礼儀も知らない娘で本当に申し訳ございません。日頃村娘のようななりで、そこらを駆け回っておりますの。まったく誰に似たのやら」
 実の母まで皮肉るような言葉に、ローレルは完全に食欲を失い、思わず立ち上がった。
「お先に失礼いたしますわ」
 先に退出しようとすると、侯爵に呼び止められてしまう。
「あなたには、やわらかい色合いのドレスが似合うだろうな」
「えっ?」
「侯爵様から素敵なシルクやサテンの生地を頂いたの。ドレスが何枚も作れそうよ。あなたにも一枚あげるから、ご機嫌を直してちょうだい」
 また始まった。この人は客の前では、よい母親の顔を取り繕うのだ。
「別に必要ありませんわ。それではアシュバートン侯爵様、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」 
 淡々とこれだけ言うと、今度は振り返らずに部屋を後にした。



NEXTBACKTOPHOME


-------------------------------------------------
14/4/12 更新
あとがきは、ダイアリーにて。