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 寝返りばかり打ちながら、朝を迎えた。いつものように簡単に食事をすませ、教科書を持ってそっと出かけようとしたときだった。

「おやおや、またどこかへ抜け出そうとしているのかな? 悪い子だ」

 はっと振り返ると、ラウンジスーツ姿の侯爵が階段の手すりにもたれてのんびりとこちらを眺めている。
 黒い目にじっと見つめられ、ローレルは急に自分の質素な身なりが気になった。
 今日も顔をしかめられた昨日と大差ない紺色のドレスに、ドライフラワーのコサージュをつけた麦わら帽子といういでたちだ。
 でも、これから行く場所はこの方がいいんだもの。
「別に、抜け出すのではありません、ちょっと用事がありますので」
 そう応えてさっと通り過ぎようとしたのに、彼が行く手を塞ぐように目の前に来た。
「一人でかい? ではお供するよ。ちょっと待ちたまえ」
 合図をすると彼の従僕がステッキと帽子を捧げたので、それを手に、機嫌良くエスコートするようにローレルの手を取ると、歩き出した。
「えっ? あ、あの……」
 結構です、と断ろうとしたのに、彼は剣呑な目でちらりと見おろし、停められていた馬車の前に来るとドアを開いた。
「ちょうど退屈していたんでね。どこかに出かけたいと思っていたんだ。君もこの申し出を断ってまで歩く必要がどこにある?」
 また強引に馬車に乗せられてしまい、ローレルは複雑な気持で席に座った。続いて彼も乗り込んできて、馬車はゆるやかに館を出ていく。
 もう、本当に強引な人ね。呆れ顔のローレルに、気持よい笑顔が向けられ、どきりとする。
「それで? 君はどこまで行くのかな?」
「村の教会ですわ」
 では教会へ、と馬車の行き先を指定してから、問い返す。
「今日は主日ではないはずだが?」
「教会の学校です。週に三日ほど、村の子供達に読み書きと計算を教えていますの」
「君が?」
 意外そうな彼に、今度はローレルがにっこりと微笑み返した。退屈しのぎの遠出のつもりだったら、お生憎様でしたわね。
「ミス・パトリッジ、しかし、なぜ君が……?」
「……着いたようですわ。それでは、わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」

 馬車が教会の前で停まると、まだ納得がいかない顔の侯爵に送ってもらった礼を述べ、彼女は振り向きもせず、学校として使っている平屋建ての建物に入っていった。
 別に、事情を他人に細かく説明するつもりはないし、その必要もない。


 教会堂の隣にある小さな学校には、村から十数人の子供が集まっていた。学ぶ意欲のある子供達に読み書きを教える、いわば私塾のようなものだが、父の死後は彼女のささやかな生きがいとも呼べるものになっている。
 二十歳も過ぎて、社交界にも出ずに、農村の子供相手に教師の真似事をしているなんて、ロンドンの親族、特に叔母が聞いたら卒倒するだろう。屋敷の一部の使用人からも、変わり者と見なされているのは知っていたが、別に気にしていなかった。何かしていなくては生きていけない。それに、毎日のように着飾って、社交クラブでつまらない殿方の狩の話題に付き合うより、子供達が生き生きと成長していくのを見守るほうが、ずっと楽しいしやりがいもある。

 教室に入ると、席に着いている貧しい身なりの生徒達に笑顔で、いつものように出席を取った。一人この前から出てきていない子供がいる。
「リサはどうしたの?」
「リサはチフスにかかったって、うちの母さんが……」
「まぁ! お医者様には?」
「そんなお金、あるはずねぇし……」
 別の子供のつぶやきに続くざわめきの中で、ローレルは言葉に詰まってしまった。村に医者がいることはいるが、高い薬代を払えない農家の診察は渋ると聞いている。時には死に至る病。ここに戻ってこれるだろうか。
「そう……。わかったわ、皆でリサが早く元気になるようにお祈りしましょう」
 全体で祈祷をささげた後、無理に気持を奮い立たせ、彼女は黒板に向かって数字を書き始めた。
「それじゃ、今日はまず算数から。昨日の続きよ」



「まぁ、ディブ! 正解よ。よく解いたわね! あなたはとても呑み込みが早いわ」
 一生懸命に計算式を解いた貧しい身なりの少年を、ローレルは誇らしげに賞賛した。
 はにかむように喜ぶあどけなさを残した顔に、明るい笑みを投げかけ、ポケットからキャンディを取り出して与える。目を輝かせる顔を見ると、素直に嬉しいと思う。
「なかなか立派なものだ」
 その時、ドアから拍手が響いた。はっとして振り向くと、侯爵が牧師と一緒に立って、皮肉な微笑を浮かべ拍手を送っている。
「君は算数が好きなのか?」
 アシュバートン侯爵がこんな相手と直接対話するのは、おそらく初めてだろう。だが彼は、その少年に気さくに問うた。突然の立派な紳士の登場に、全員が驚きの目を見張っている。おそるおそる頷いた少年の肩にぽんと手を置き、彼はポケットから紙幣を取り出した。回りから喚声が上がる。
「これは君への奨学金だ。本や靴を買いなさい。これからも頑張って学びたまえ」
 思いがけない出来事に、少年はこれ以上ないほど大きく目を見開いた。目を輝かせてそれを受け取り、懸命にうなずいた彼のそばで、ローレルはこわばった微笑みを浮かべていた。
「それから、誰か援助の必要な病気の子供が居るそうだが?」
 その言葉に、「リサ・ベイカーです」と緊張した子供の声が上がり、彼は微笑むとその子供においでと優しく手招きした。
「これをその子の親に持っていってあげなさい」とまた紙幣を手渡す。
 季節はずれのサンタクロースの出現に、皆がひどく興奮してしまったらしかった。あまり授業にならない中、早めに終わらせて子供達を見送ってしまうと、ローレルは馬車の傍で牧師と話している侯爵につかつかと歩み寄り、激しく食って掛かった。

「あなた……、いったい何の権利があって、いきなりわたしの授業に入ってきて、あんな風にかき乱すんです? おかげで、今日は本当に滅茶苦茶だったわ」
「人聞きが悪いことを。乱入するつもりはなかったが、お邪魔だったかな? それは、すまなかったね」
 少しも悪びれた風もなく、からかうようにローレルの手を取り軽く口付けたので、反感を込めてさっと引っ込めた。そんな彼女に、彼は諭すように微笑んだ。
「しかしね。女性である君に、あの少年の気持がどこまで理解できるかな? 男にはああして認められる経験が何より必要なんだ。それにぼろ靴を履いて、キャンディを貰うより、新しい靴を買えた方がやる気もはるかに高まる。それに病人への薬代は急を要する話だろう?」

 かっと頬を染めた彼女をじっと見おろし、彼はゆったりと付け足した。



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14/4/16 更新