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「なっ……」
 ローレルは驚いて椅子から立ち上がり、数歩後ずさった。
 だが、侯爵は彼女の前につかつかと歩み寄ってくると、苛立ったように片手を腰に当てて睥睨した。
「君は、こんな所で何をしているんだ?」
「……わたしは、特に何も……」
 慌ててさらに後ずさろうとしたが、彼に腕をつかまれてしまう。
「離してください、痛いわ」
「逃げ出さないと、約束するなら」
「別に逃げてなんかいません!」
「そうかな?」
 彼はふっとため息をついて少し手の力を緩めたが、まだ離さなかった。じっと見つめる眼差しが翳り、もう片方の手がローレルの頬に触れ、滑らかな肌をなぞり始める。びくっとして、とっさにその手を振り払うと、くっくと面白そうに含み笑いを漏らす。
「触れられるのがそんなに嫌なのか? それは残念だな。もう少し時間があれば、君の頑固な意見を変えさせてやれるんだがね。だが、今はそれより……」
 からかうように眉を上げると、彼はいきなり切り込んできた。
「どうして君は、皆の中に入ろうとしない?」
「別に……。ただ苦手なんです。それに呼ばれもしないのに、出ていく必要もないでしょう?」
「呼びたくても、遠慮しているのかもしれないだろう? 君の気持次第ではないのかな? 何故人に対し、そう不必要に壁を作るんだい?」
「壁だなんて……。わたしはただ、あまり人前に出たくないだけですわ。手ごろな衣装も持ち合わせていませんし」
「そんな言い訳は聞き飽きた。今は単なるお茶と娯楽の時間だ。別に豪華なドレスは必要ないさ。そのままでかまわないから、一緒に来たまえ」

 手首をつかまれほとんど無理に部屋から引っ張り出されてしまった。そのまま否応なくサロンに連れてこられたとき、彼女のとまどいはかなり大きくなっていた。


「まぁ、ジェフリー! どこへ消えたのかと皆で噂していましたのよ……」
 戻ってきた侯爵に真っ先に気付き、華やいだ声をかけたシルヴィアが、彼の後ろにその手をとられるようにして立っているローレルを見るなり不快げに目を細めた。
 だが侯爵は頓着せず、ローレルを伴いながらごく自然に話の輪に戻っていく。
 一瞬、気まずそうに静まった一同も、侯爵の陽気な話術と巧みなリードですぐに活気を取り戻した。年頃のレディ達の華やかな声が響く中、侯爵とローレルも加わってのカードゲームが始まる。

 二組に分かれてするそのゲームは、ずっと昔、彼女も遊んだことがあった。いつの間にか引き込まれ、おまけに侯爵が隣でアドバイスしながら一緒にプレイしてくれたので、気が付くと彼女が勝ってしまっていた。
「まぁ、勝ったわ。どうしましょう!」
 相手紳士のチップを手に、思わずジェフリーに心からの笑みを向ける。彼も優しくうなずき、微笑み返してくれる。

 ふと、刺すような視線を感じた。振り向くと継母が怖い顔でこちらを睨んでいる。
 目が合った瞬間、彼女の目の奥に嫉妬と憎しみさえ感じられて、ぞくりとした。
 急に静かになったローレルに、侯爵が「どうした?」と問いながら、何気なくシルヴィアを見て、牽制するように目を細めた。だがローレルは、何でもないんです、と言いながら、静かに身を引いた。
「お陰様で十分に楽しませていただきました。わたくし、失礼して皆様のお夕食の支度が整っているかどうか見て参りますわ。どうぞ、引き続きお楽しみくださいませ」

 サロンを出て小走りに台所に向かいながら、ローレルはほてった頬に手を当ててみた。
 今も、あの日、キスされた後のように胸が高鳴り、幸福な気持に満たされているのが不思議だった。


◇◆◇  ◇◆◇


 そして、とうとうパーティの夕べを迎えた。シルヴィアはエリオット夫人とコックに指示だけ出すと、後は部屋に閉じこもってしまい、ドレスの着付けに余念がないようだ。
 ローレルは、メイド達の仕事振りをエリオット夫人と一緒に監督してから、ようやく自室へ戻るとチェストを開いてみた。
 そこには何枚かの手直しした実母の夜会用ドレスがしまってある。一応取り出してみたが、どれもデザインが古過ぎるのはわかっていた。女性客達の失笑を買うのは目に見えている。

 やっぱり今夜は裏方に徹しよう……。ため息をついてそう考えていると、メイドのマーゴットがもう一人のメイドと二人がかりで、いくつもの箱を抱えてやってきた。かなり興奮しているようなので驚いてしまう。
「いったいどうしたの?」
「お嬢様! ご覧くださいませ! たった今、これがロンドンのマダム・ケンドルの店から届いたんです。全部お嬢様宛のお品ですわ。侯爵様からの贈り物ですよ!」
「えっ……?」
――『キスしてくれたら、プレゼントするよ。君のその瞳に似合うドレスと宝石をね』
 まさか本気だったなんて……。

 一瞬呆気に取られ、次いでむっとした。素直に「はい、そうですか」と、受け取りたくない気がする。
 だが、マーゴット達は素早かった。手際よく開封され、目の前に広げられた最新流行の美しいドレスの誘惑は大きかった。手触りの良いシルクの生地に、ついうっとりしてしまう。
 少し試着してみるくらいなら、別にかまわないかもしれないわね?
 二人のメイド達の熱心な勧めと誘惑に負け、つい袖を通してしまうと、止める暇もなく、てきぱきと身支度が整えられていった。いつもひとつに束ねて垂らしている金髪も結い上げて、ドレスに添えられていた大きなアメジストのイヤリングと髪飾りを留める。
「本当にお綺麗ですわ、お嬢様」
 うっとりした声で呟いたメイドが、彼女の前の姿見を動かした。そこに映っているのは、確かにロンドン社交界や、ことによるとロイヤルパレスに出ても引けを取らないような立派な貴婦人に見える。

 これがわたし? 衣装のマジックってすごいわ。

 まるで人事のように感心してしまった。すぐに脱ぐのが惜しくて、少しの時間なら壁の花でもいいかもしれない、などとぼんやり鏡を見つめていると、目を輝かせて出て行ったマーゴットが勇んで伝言を伝えてきた。
「お嬢様! 侯爵様が部屋の外でお待ちでございますよ。さあさあ、お急ぎくださいませ」
「何ですって?」
 はっとした。だが鏡の前で躊躇しているうちにドアが開き、イブニングドレスコートを完璧に着こなした彼が入ってきた。ローレルの姿を見るなり、黒い瞳が情熱的に輝き始める。

「やれやれ、間に合わないかと随分気をもんだよ。間に合ってよかった。やっぱり思っていたとおりだったな」
 ひどく満足そうなその表情を見ながら、何故か心がはずんでいる自分がいた。

「ではレディ、参りましょう。お手をどうぞ」

 社交界の貴婦人に対するように、礼儀正しくお辞儀してから手を差し出され、ローレルは迷いながらもその手に自分を預け、一歩を踏み出していた。
 いつも行き来しているホールへの階段が、未知の世界に踏み出す特別な小道のように感じられた。


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14/4/28 更新