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 1832年 8月  ロンドン

 まばゆい太陽が西空を金色に染めあげる夏の夕べ……。

 日中の暑さも和らぎ、あたりには心地よいけだるさが漂っている。
 暮れ行く空の静けさとは裏腹に、ロンドンは今宵も華麗な喧騒の幕を上げようとしていた。


 その夜、社交界の話題の中心は何と言ってもグレイソン侯爵邸だった。
 多くの馬車が停まっては去り、着飾った貴婦人や紳士達が次々と屋敷に入って行く。
 御者がまた新たな客の到着を告げた。迎えに出た侯爵家御曹司、ロバートの差し伸べる手を取り、ゆっくりとその馬車から降り立ったのは、彼と婚約したばかりのマーズロー子爵令嬢、ニコル・ドーチェスターだった。
 彼女が身につけているペールグリーンのドレスは、彼からの贈り物だった。その色は凪いだ朝の海を思わせるニコルのブルーグリーンの瞳によく映え、社交界デビューしたばかりの18歳という年齢に相応しい清楚な美しさを引き立てている。自慢の金髪は流行のスタイルに結い上げ、ドレスと同色のリボンで飾っていた。


 ホールはすでに華やかな人々で溢れていた。今日とりわけ客が多いのは、今年28になるグレイソンの家督相続者ロバート・ヘンドリックと、ニコルの婚約披露を兼ねているためだ。
 賛辞や祝辞を述べる大勢の来客の前で、終始咲きこぼれるような微笑を振りまいていたニコルだったが、ようやく客の列が途絶えた途端、傍目にも判るほど深いため息をついた。
「どうかしましたか?」
 眉をひそめるロバートに、無理に笑顔を作って見せる。
「少し緊張していたようですわ……」
 ロバートは彼女のつややかな頬の色と金髪に乱れがないことを確認すると、満足げに頷き、友人達と狩猟場の話に興じ始めた。ニコルの未来の夫は狐狩りとカードゲームが趣味らしい。
 残念ながら、彼女はどちらにもまったく興味を持てなかった。

 どうしてわたしはここにいるのかしら……。

 ふとそんな思いが脳裏を掠める。
 ニコルがロバートと出会ったのは今から3か月ほど前のことだった。
 際立った美貌で社交界でも有名な母、マーズロー子爵夫人の血を濃く受け継いだ彼女は、少女時代から会う人ごとに先が楽しみだと言われてきた。今年ついに社交界に出るや、その朝露を受けて開き初めた薔薇のつぼみのような虚飾のない美しさは、たちまち衆目を引きつけた。デビューしていくらも経たないうちに、ニコルの前に何人もの求婚者が並ぶことになった。
 まだ何もわからない本人に代わり、マーズロー夫妻からニコルの求婚者として子爵邸に出入りすることを許されたのは、真面目な性格で社交界の評判もすこぶるよいロバートだった。
 こうしてニコルは彼にエスコートされて舞踏会や観劇に出かけるようになり、先日ついに正式に婚約した。誰もがうらやむ不服などあろうはずのない縁組。彼女自身、頭ではそう思っていたし、日々努力もしていた。
 この方は立派な紳士だ。真面目で大人で家柄も申し分ない方……。
 きっとわたしを大切にし、幸せにしてくれる。
 ひるみそうになる心に、幾度もそう言い聞かせる。
 ゆくゆくは侯爵夫人となり望むことは何でも思いのままだと言うのに、いったい何の不服があるの?
 母の説得文句を口の中で幾度も呟いてみる。

 アレックス……。

 突然、何の脈絡もなく『彼』のことを思い出した。途端に胸がぎゅっと締め付けられるように痛み出す。
 最後に話したのは3年前。以来会うどころかとうとう一度も噂を聞くことさえなかった。今、どこでどうしているのかもわからない。それでも決して忘れることのできなかった人の名前……。
 苦しくなって思わず小さく息を吸い込み目を閉じた。瞼の裏に今隣に立つ婚約者とは正反対とも言える男の、甘く端正な顔立ちが浮かびあがってくる。

 あの日、彼の腕から夢中で身を振りほどいたとき、彼は決してニコルを引きとめようとはしなかった。一目散に館に駆け戻る途中、ただ一度だけ振り返ったときも、彼はまだその場に立ち尽くしていた。じっとこちらを見つめていた深い闇を思わせるミッドナイトブルーの瞳が、今も心に深々と突き刺さっている。
 もう3年も経つのに、彼の眼差しも声もこれほど鮮明に思い出せるなんて不思議な気がする……。

 婚約者に促され、ニコルは再び現実に引き戻された。目の前にまたどこかの夫妻が立って祝いを述べているのに気付き、慌てて返事をしかけたときだった。
 扉が開き、金モールの付いた騎兵隊の正装に身を包んだ若い男がゆったりした動作で室内に入ってきた。周囲のざわめきが急に大きくなる。黒髪に背の高い、酷く目立つ印象の男だった。ニコルはその顔を見た途端言葉を失った。急に立ちくらみを覚え目の前がぐるぐる回り始める。
 今、大勢の客に混じって、少し離れたところから皮肉な眼差しで二人を眺めているのは紛れもなく、つい今しがたニコルが密かに思い出していた当の相手、アレキサンダー・デズモンドだった。


*** *** ***


 足が急に言うことを聞かなくなった。この身体の震えはどうすれば止まるのだろう。
 とにかく早くここから出なければ。まるで逃げ道を探すように、ニコルは周りを見回した。
 ロバートが彼女の状態に気付くより早く、真っ青になったニコルに彼がさっと歩み寄ってきた。力強い手が彼女の腕にかかる。婚約者の手とは違う、だがどこか強い馴染みのあるその手の感触に、ニコルは我に返って瞬きした。
 二人の視線が絡み合った。彼の瞳は相変わらず夜のとばりのように謎めいて計り知れない。彼もまた彼女を観察するように、しばらく無言で見つめていた。


 そのとき、客と談笑していたロバートが傍らの二人の様子に気付いた。眉をひそめて自分より数歳若そうな軍服の男を眺め、青ざめた婚約者に声をかける。
「どうしました、ニコル? 気分でも悪いのですか」
 ロバートに向かい一瞬目を細めてから、男は自制の効いた低い声で言った。
「ご令嬢は何かに強い衝撃を受けられたようです。ましてやこの熱気だ。急にご気分が悪くなるのも無理はない。少し控え室で休息を取られるべきでしょう。よろしければ、わたしが部屋にお連れします」
「君は誰だね?」
「ウィンズブルック伯爵家のアレックス・デズモンドです」
 ロバートは驚いた様子を見せまいとひとつ咳払いした。だが男のあくまで礼儀正しい物腰と、胸元の階級章を見て大丈夫だと判断した。何より今、自分まで彼女と一緒に客を放り出すわけにはいかない。
「ではニコル……、彼について控え室で少し休んでいてください。わたしもすぐに様子を見に行きますから」
 ニコルはいやだと力なく首を振って見せたが、アレックスに再び腕をとられてしまった。無言のまま、彼は彼女を丁重に支えて歩き出した。ここで抵抗して騒ぐことなどできるはずもない……。
 最初の衝撃が過ぎ去ると、ニコルはまっすぐ前を見ている彼の無表情な顔をちらりと窺い、ほっとするような、気が抜けるような複雑な感覚を味わっていた。
 きっと、彼は紳士として純粋に親切心でこうしてくれているだけなのだ。
 もうわたしのことなど覚えていないんだわ。3年ぶりでは当然よね。



 来客用控え室までは僅か2,3分の、だが二コルにとっては2時間にも匹敵するほどの時間だった。

 客が出入りする赤いじゅうたんを敷き詰めた廊下を黙って歩き、二人はホールの隣の小部屋に入った。他には誰もいない。部屋の中央にひじかけ椅子が数客と丸テーブルが置かれているだけの、がらんとした部屋だった。
 背後でドアが閉まる音がした。彼が近付いてくる気配に、ニコルは引きつりながら振り返ると極めて儀礼的な微笑を浮かべ、思い切って口を開いた。
「ミスター・デズモンド、ご親切にありがとうございました。少し疲れて気分が悪くなっただけ。もうわたくし一人で大丈夫です。中にお戻り下さって結構ですわ」
 デズモンドは、ニコルの前に立って目を細め、改めて彼女をつぶさに検分していた。やがて、むっとした彼女の表情に気付いたように、形の良い口元を歪めクックと笑い出してしまった。
 人をじろじろ眺め回したあげく何が可笑しいのだろう。ニコルは少しあごを突き出して精一杯尊大に相手を睨みつけた。

「いや、これは失礼。レディ・ニコル、マーズロー子爵令嬢」
 笑いをかみ殺すように、彼は彼女に呼びかけた。元から通りのよかった声が、ますます男らしく深みを帯びた気がする。
「あのお転婆レディが、しばらく見ない間に随分美しくなった。これでこそ今まで待ったかいもあったと言うものだな」



*** *** ***



「な、何をおっしゃっているの?」
 ニコルは驚きのあまり目を見張って、相手をまじまじと見返した。彼はもう笑っていなかった。彼特有の、ほとんど黒と見まごうばかりのミッドナイトブルーの瞳が彼女の視線を釘付けにする。
「君だって覚えているはずだ。ぼくを忘れたとは言わせないよ、マイレディ」
「なんのことですか、あっ!」
 さっと近付いてきた彼に、乱暴に引き寄せられてぎょっとする。思わず声をあげたニコルに覆いかぶさるように、彼の顔が目の前に迫った。吐息が頬にかかる。
「なのに、これはどういうことだい? あの侯爵の御曹司と婚約したって? はっ、あんな男と一緒になってみろ、君は死ぬほど退屈して、たちまち浮気で自堕落な社交界のレディ達の仲間入りをするだけだぞ」

 唇が触れ合いそうなほど真近にあった。ニコルは慌てて頭をそらせ、手を振りほどこうともがいた。
「は、離してちょうだい! 相変わらずね。アレックス!」
 思わず3年前と同じ調子で叫んだ瞬間、アレックスはさっと手を離し一歩退いた。
 まるで走った後のように、頬を紅潮させ息を切らせる彼女を眺め、満足そうな微笑さえ浮かべている。
「ほら、やっぱりぼくを覚えていた。認めたね、今はっきりと」
「あ、あなたなんて、あなたなんて……あの頃からそうだったけれど、紳士の風上にも置けないわ! 少しも変らないのね! いいえ、ますます酷いわ」
「その通りさ。だから君もぼくには、紳士的な態度など期待しないはずだろう?」
 腹立ち紛れに憤怒の声を上げた彼女にもわかったほど、彼の言葉には痛烈な響きがこもっていた。一瞬びくりと固まってしまう。


 そのとき隣のホールからスローなワルツ曲が流れてきた。ダンスが始まったらしい。
 にやりと笑って、彼は休戦だと言うようにニコルに片手を差し出した。

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06/12/14 更新
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