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「どうぞお相手を、レディ・ニコル」
 軽く会釈すると彼はニコルが断わる隙も与えず、再び強引に引き寄せた。気が付くとニコルはその腕の中で、曲に合わせてステップを踏んでいた。
 狭い室内だったが二人が踊る空間は十分にあった。アレックスの身のこなしは軍人とは思えないほど優雅で洗練されている。最初身を硬くしていた彼女も、いつしか夢心地を漂うように巧みなリードに身をまかせていた。
「騎兵隊に入ったのね……。全然知らなかったわ。その階級章……、少尉かしら?」
 軍服を見れば誰でもわかることだが、あえて尋ねてみる。彼はちらりと微笑し頷いた。
「そう、出世したのね。驚いたわ。だってあの頃は一言も聞いていなかったんですもの」
「ぼくは何もかも約束された兄上や君の婚約者殿とは違う。自分の道は自分で切り開くしかないからね」
 あなたの立場では、それはその通りかもしれないけれど……。そのあまりに苦々しい口調にひるみ、しばらく沈黙したまま踊った。彼が手に力を込めてターンしたとき、その流れるような動作に感心し見とれてしまう。
「今までどこにいたの?」
「エディンバラ」
 それでは、彼はずっとスコットランドにいたのだろうか。道理で噂も聞かなかったはずね……。
「いつから軍隊に?」
「君と最後に会って、いや、別れてからすぐだった」
「え?」
 意味を計りかねて首を傾げたとき、アレックスが不機嫌に口を開いた。
「ニコル、君の方こそ……いつの間に婚約したんだ? 君は今年18だ、まだ社交界に出たばかりのはずだろう?」
「え、ええ、そうよ。ロバートと婚約したのはひと月ほど前なの」
 またむっつりと押し黙ってしまった彼を不思議に思いながら、2曲目も続けて踊った。曲が終わる頃にはニコルは体裁を繕うこともすっかり忘れていた。白い頬が薔薇色に染まり、心からの笑顔と賛辞が自然にこぼれる。
「とても楽しかったわ。こんなに夢中で踊ったのは初めて。ダンスがとてもお上手なのね、全然知らなかったわ」
「いつか君と、心行くまで踊りたいと思っていたからね」
「え……?」
 不意に、まだ背中に回されていた彼の腕にぐっと力がこもった。気がついたとき、ニコルはアレックスに力いっぱい抱き締められてしまっていた。

 軍服に顔を埋めた姿勢のまま、しばし唖然として身動きもできなかった。耳に彼の心臓の激しい鼓動が聞こえてくる。だが、彼は再び唐突に抱擁を解くと彼女をぐいと押し返した。ハンサムな顔が元の皮肉な表情に戻っていることに気付き、思わず目を伏せる。
「君は本当に変わっていないんだな、ぼくの無邪気なお転婆レディ」
 呟くような言葉を残しそのままきびすを返すと、アレックスは荒々しく控え室から出て行ってしまった。
 あとには、呆然自失となったニコルが、ただ一人取り残された。



 その夜、ニコルはなかなか寝付かれなかった。四柱式寝台の、やわらかな枕に頭を埋め幾度も寝返りを打つ。
 考えまいとすればするほど、思いは今夜の衝撃の出会いに舞い戻ってしまう。
 あのあと、再び彼と顔を合わせる気にもなれず、控え室に様子を見にきたロバートに今夜はもう帰りたいとひたすら繰り返した。最初は渋っていた婚約者も、ニコルの動揺と顔色の悪さに気付き、馬車で屋敷まで送ってくれたのだ。
 馬車の中でロバートの強いいらだちを感じ取り、更に口数が少なくなった。道すがら、彼女はほとんど押し黙ったままだった。
 沐浴を済ませ早々にベッドに入ったが、眠れそうにない。
 アレックス……。
 3年ぶりにほんの少し時間をともにし、たった2曲踊っただけなのに、アレックスの面影でもう胸がいっぱいになっている。
 この現象をどうすればいいのかわからず、ニコルは混乱したまま、浅い眠りに落ちていった。夢の中で、彼女は3年前のあの果樹園に立っていた。


*** *** ***



 ニコルは、まるで小作人の娘のようにドレスのすそをからげ、腕まくりをして、マーズロー家のカントリーハウスの果樹園を散歩しながら実ったりんごをもいでいた。
 ロンドン社交シーズンも終わる秋。毎年家族そろって領地に戻って来る頃には、果樹園のりんごの木が赤くて甘い実をたわわに結んでいる。その取り入れを見ているうちに、自分もやってみたくなったのだ。母親が見たら卒倒しかねないが、幸い今彼女に文句を言える立場の人間は誰も居なかった。
 ひずめの音に振り返る。向こうから栗毛の馬に乗ってやってきた男を見てニコルは思わず顔をしかめた。近隣の領地に自邸よりもはるかに豪華な城を持つウィンズブルック伯爵の次男、アレックスだ。
 彼はまだ少年だった頃から、こうして遠乗りの道すがらここに立ち寄っては、彼女をからかっていくのが常だった。
 5歳年上の彼は、15歳の彼女から見ればもう立派な大人だった。またレディがそんなことをして、とお決まりの小言を言われると思い、目の前に来た彼に向かって身構えた。だが、彼はくすっと笑うなり馬から飛び降りると、彼女の抱えていた籠とりんごをひょいと取りあげ、いきなり傍らのベンチに座ってカリカリとおいしそうにかじり始めてしまった。
『うん、今年もうまいな。ほら、君もここにお座りよ。ひと労働したんだ、お食べ、お転婆ニコル』
『あら、そんなはしたないこと……』
 途端に彼はプッと噴出した。
『そんなくしゃくしゃの髪をして村娘みたいに歩き回ってるレディが、今更はしたないだって? こいつはけっさくだ』
『まぁ、失礼しちゃうわ。あなたって本当に口が悪いんだから』
『正直だと言ってほしいね』
 更に言い返そうとしたが、目の前にほら、とばかりにおいしそうな赤いりんごを差し出されて黙ってしまった。そういえば喉も乾いている。すぐに彼の隣に座り、一緒に食べ始めた。甘酸っぱいリンゴの香りと味が、口いっぱいに広がっていく。
 彼といると胸まで甘ずっぱい不思議な喜びで満たされてくる気がする。ニコルはほてった頬を労働のせいにした。二人はのんびり食べ終えると、またしばらく果実をもいで回った。今度は彼も一緒に。
 お陰で、いくつかあった空の籠がいっぱいになり、戻ってきた小作人がびっくりしたように幾度も頭をさげていた。


 あたりに宵闇が訪れ始めた頃、ニコルはりんごの入った小さなバスケットを手に、アレックスの馬にゆられてマーズロー家のカントリーハウスに向かっていた。彼がさっきから妙に黙りこくっている。だが、すっかりくつろいだ彼女は彼の胸にもたれかかったまま、夕空に輝く明星をうっとりと見上げていた。
『見て、アレックス、あれはヴィーナスの星よ。愛と美をつかさどる女神ね。いつか、わたしにも微笑んでくれるかしら』
『………』
『アレックス? どうしたの、疲れたの?』
 心配そうに振り向くと彼はまさか、と言うように口元を歪めて苦笑いし、馬上の乗り心地を正すように彼女の腰にぴったりと密着した腿を動かした。
 夕闇の中に館が見えてきた。彼は馬を門の傍らに止めた。
『ありがとう、とっても素敵な時間だったわ。また一緒に行ってくれると嬉しいけど』
 先に降りたアレックスの手に支えられて鞍から降りると、ニコルは夢見るようなブルーグリーンの瞳を上げて彼に微笑みかけた。黙って彼女を見つめていたアレックスの顔に、苦しげな表情がよぎる。
 唐突に、彼の口から何かうめくような声が漏れた。次の瞬間、ニコルの身体は力強い男の腕に抱きすくめられてしまっていた。
 ニコルは驚きの目を見張った。だが抵抗する暇もなく彼女の花びらのように唇に、彼の唇がむさぼるようにおおいかぶさってくる。
 何が起こったのかまったくわからないうちに、彼女の唇は完全に彼に支配されてしまっていた。
 それはあまりにも突然の、荒々しい抱擁と口づけだった。振り解くことも抵抗すらできないまま、ニコルは締めつけてくる男の腕の中で強い衝撃にすすり泣いていた。
 涙が頬を伝って流れ落ち、触れ合っている彼の頬にかかった。はっと気付いたように顔を上げたアレックスは、腕の中のニコルを見下ろした。
 いつも快活なブルーグリーンの瞳がおびえきったように見開かれ、涙に濡れている。覗き込んだ彼の表情が激しく強張った。
『ニコル……』
 どう言えばいいのかわからない、というように彼の声はかすれていた。彼も泣き出しそうな顔をしている……と、頭の片隅でぼんやり思う。
 ゆっくりと彼の手が離れた途端、ニコルは脱兎のごとく自邸の門の中へと身を翻した。
 屋敷に駆け戻る途中、ただ一度後ろを振り返ったときも、彼はまだ夕闇の中に彫像のように立ち尽くしたまま、身じろぎもせずにこちらを見つめていた。



「アレックス……」
 目が覚めたとき、なぜか頬が涙で濡れていた。
 ニコルはベッドの上に身を起こし、そっと名を呼びかけた。あの日の彼と、再会したばかりの彼の姿が目の前で交錯する。
 3年ぶりに見たアレックスは雰囲気が明らかに変わっていた。
 少なくともニコルにとって、あの頃より遥かに危険な香りがする男になったような気がした。


*** *** ***



「お嬢様、今日も贈り物が届いております。お名前はございませんが」
 婚約披露パーティから2週間ほど経った日の午後。お茶の時間、メイドが小さな籠を手にニコルの部屋に入ってきた。
「またお花? いったい誰かしら。こんなに毎日……」
「いいえ、今日はまだ青いりんごでございますよ、まぁ、これはきっとその殿方が直接採ってこられたに違いありませんわ」
 聞いた途端、ニコルははっとした。何か考え込むようにメイドの手からその小籠を受け取る。
「きっとお嬢様の熱烈な崇拝者のどなたかですわね。婚約者がおられるお嬢様への秘めた愛を託しておられるんですよ。ああ、たまらなくロマンティックじゃございませんか?」
「それは、恋の物語の読み過ぎではないかしら?」
 半ば上の空で答えながらニコルは小さなりんごを一つ取り上げそっと頬を寄せた。ここのところ毎日何かしら届いている。薔薇の花束はもとより、彼女の好きなチョコレート菓子、美しい詩集の日もあった。全て匿名だ。
 いったい誰が……? まさかあの人ではあるまいと否定し続けていたが、今日のりんごを見た途端、疑問は確信に変わった。ただわからないのは彼の意図だ。


 そのときドアの外で、執事がロバートの訪問を告げた。急いでふんわりした丸い袖に、胸元にフリルをあしらったドレスに着替えサロンに降りていった。
 彼は手にしたティーカップをソーサーに戻し、不機嫌にニコルを見た。
「君に毎日薔薇が届いているって? もしかするとあれもそうなのかな?」
 ニコルは瞬きしてその指す方に目を向けた。どのおしゃべり者が余計なことをこの人の耳に入れたのだろう、と腹が立ってくる。

 夏の間つかわれない暖炉の上には、陶器の人形や香水瓶にまじって、昨日届いた美しいピンクの薔薇が活けられ、サロンに彩りを添えていた。
 軽い苛立ちを押し隠し、ニコルはロバートを見返した。
「誰がそんなつまらないことをあなたに申し上げたのでしょう?」
「つまらなくなどないね」
 露骨に不快を示しながら暖炉に近付いたロバートは、無造作に花瓶から薔薇を引き抜き床に投げ捨てた。驚くニコルのそばに戻り、取り上げた華奢な手の甲にキスを落とす。そのまま彼女の肩を抱き寄せようとしたが、ニコルは身を硬くして後ずさった。
「ニコル?」
 どうした? と問う彼の目を避けて、彼女は床に散らばった薔薇を一本そっと拾い上げた。
「酷いこと。花には何の罪もありませんわ」
 よそよそしく呟く彼女を眺めていたロバートは、やがて深いため息をつくと、黙ってシルクハットと上着を取り上げた。
「今日はこれでお暇しましょう。だが来週のパーティまでには、ご機嫌を直しておいてください」

 穏やかな口調であくまで紳士的に立ち去っていく婚約者の後ろ姿を眺めながら、ニコルはほっとする気持を抑えることができなかった……。


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06/12/16 更新
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