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「あら、ここはどこ? まぁ、あなた!!」

 ある日の午後。急用があると父方の叔母の馬車が屋敷までニコルを迎えに来たので、いそいで外出着に着替え、日よけのボンネットを被って出向いた。到着した所はチャールトンスクエアの小広場だ。

 待っていた一台の馬車から出てきたのは、笑顔のアレックスだった。暑いのか、コットンの白シャツにクラバットとベスト、ズボン、という軽装で、一応ジャケットと帽子は手に持っている。
 ようこそ、と帽子で軽く会釈した彼をニコルはじろりと冷たく一瞥した。
「あなたがどうしてここにいらっしゃるのかしら? ヘンリエット叔母様はどこ?」
「そんなにヘンリエットに会いたかったのかい? それは申し訳ないことしたね。彼女が急に来られなくなったので、ぼくが代理で君のエスコートを仰せつかったのさ」
「どうして叔母があなたに代わりを頼むんですか? この馬車はどうしたの? まさか盗んだ訳じゃないわよね」
 あまりに見えすいている。腹が立ってつかつかと彼に歩み寄りこう追及すると、彼は『怖いな』と呟きニヤリと笑った。
「やっぱり君の明晰な頭脳はこの程度じゃごまかせそうにないな。中身が空っぽな女達とは訳が違う。オーケー、言うよ、言うよ」
 さらに厳しい顔になった彼女を見て、笑いながら降参したというように手を上げた。
「実はさっき君の叔母上にお会いしたとき、馬車を屋敷に返しておいて欲しいと頼まれたんだ。こんなチャンスはめったにあるものじゃないからね」
「………」
 一番の問題は、どうして彼がこんな真似をしたかだ。だが彼はニコルの胡乱な視線をものともせずに柔らかい微笑を浮かべたまま、彼女に手を差し出した。
「いいじゃないか。こんな天気の日に屋敷にこもってるのはもったいないよ。今からぼくに付き合ってくれないか。いいだろう、マイレディ?」
「わたしは、『あなたの』レディなんかじゃないわ。そんなふうに呼ぶのはやめてちょうだい、アレックス」
 瞳をきらめかせて、彼はニコルを見下ろした。
「どうしてさ? ぼくにとって君はずっとあの頃の小さなレディのままだ。何も変らないよ」
「すぐそんな風にからかうのね。あなたにとって人生はゲームみたいなものじゃない? わたしだって少しはあなたの噂も聞いておりましてよ、アレキサンダー・デズモンド少尉殿? ロンドンに帰る早々、何人もの貴婦人方とお楽しみだそうじゃないの」
 言いながら胸がずきりと痛んだが、この際無視することにした。
「くだらないな。ちょっとダンスをしたり会話を交しただけで、翌日には余計な尾ひれ背びれまでついて伝わっている」
 そこで顔をしかめ、呟くように言った。
「ゲームだって? とんでもない、人生はのるか反るかの大博打さ」
 ふいにアレックスはまた笑顔になった。明るい表情になると途端に雰囲気ががらりと変わる。ニコルの胸も自然と高鳴ってくる。
「せっかく出てきたんだ。一緒にちょっと遠乗りしよう。それくらいなら、構わないだろう?」
「え、ええ、それは……。別に予定もないし、あのプレゼントのお礼も言いたかったから」
「なんだ、知ってたのか」眉をひそめるが、すぐ口元に優しい微笑が浮かんだ。「どうしてわかったんだい?」
「わかるわ、あのりんごを見れば……」
「なら、気に入ったんだね、よかった。じゃあお返しに、今日は半日付き合うこと」
 軽い口調で言いながら、すでに叔母の御者に銀貨をにぎらせ戻るように命じている。今度こそ本当に叔母の屋敷に帰っていく馬車を眺めながら、ニコルは重大な事実に気付いた。これで彼の馬車に乗る以外、自邸に戻る方法もなくなってしまったのだ。

 睨み付けるニコルににやりと笑いかけると、彼女を軽く抱き上げるようにして馬車に乗せてしまった。ふくれ面でシートに座っている彼女をおかしそうに眺めながら、アレックスはやがて自分が赴任してきた彼女の知らない土地のことをあれこれ語り始めた。

 マーズロー家の領主館へ行く以外、ロンドンから出たことのない彼女にとって、その話は本の中の世界のように新鮮だった。いつの間にか引き込まれるように夢中になって聞いていた。

 さらに彼は自分が話すばかりでなく、ニコルの近況にも話を向けた。気がつくと、彼女はロバートと婚約したいきさつまで残さず彼に打ちあけてしまっていた。彼が無表情に呟く。
「やっぱり……、思ったとおりだな」
「何のこと?」
「いや……。ほら、着いたよ」
 言われて馬車の窓から外を見ると、そこは美しい庭園を開放した公園だった。


 噴水のある池に白鳥が数羽、優雅に首を伸ばして泳いでいる。池の辺には白壁の瀟洒な東屋があり、恋人達が憩っているのが見えた。ゆるやかな緑の丘陵地の芝草に敷石の小道が続き、散歩道を囲むように広葉樹の木立が風に涼しげに揺れている。
 ニコルは思わずはしゃいだ声を上げた。馬車から降りた二人は、寄り添うようにゆっくりと歩いていった。ふと、まるで3年前に戻ったように、彼の隣でくったくない笑い声をあげている自分に気付く。それがあまりにも自然な気がした。別に何と言うこともないのに、彼と居るだけでこんなに心が満ち足りているのはなぜだろう。
 公園の奥に設置された小さな舞台で、何か演劇をやっていた。貴族ではない、もっと気楽な服装のロンドン市民達がベンチに腰掛け、笑いながらそれを鑑賞している。
 こっけいなその芝居はどう見ても素人くさかったが、ニコルはアレックスと共にくつろぎながら、ロンドン大劇場の侯爵家ボックス席で見る以上にそれを楽しんでいる自分に驚いていた……。



 帰りの馬車の中、二人はしばし無言だった。

 名残惜しそうにいつまでも窓の外に目を向けていたニコルが、やがて満足気に吐息をついて、向かいに座るアレックスに笑顔を見せた。
「今日は本当にありがとう。お陰でとても素敵な思い出ができたわ」
 あなたの、という言葉はあえて口にせず胸にしまいこむ。
 日が西に落ちかかり、かなり薄暗くなってきていた。彼がこちらを見つめている視線を感じるが、表情は陰になってよくわからない。ふと、切羽詰った低い声が聞こえた。
「ニコル、そんな結婚をするんじゃない。きっと後悔することになるぞ」
「え?」
 突然の意外な言葉に驚き、瞬きして彼を見返す。続きを待ったが、しまったと思ったのか彼は顔を背けている。先ほどの饒舌さはどこへやら、ぎこちなく沈黙したまま二人はマーズローの屋敷に戻ってきた。

 楽しかった一日をこんなふうに終わらせたくない。アレックスに手をとられて馬車を降りると、彼女は強いて明るい笑みを浮かべ、マーズロー子爵令嬢風の気取った口調でこう言った。
「またお会いできますわね、わたし達、もうすっかり以前のお友達同士に戻ったのですもの」
 彼はまだ手を離さなかった。だがニコルが少し困ったように見上げていることに気付いたのか、かすかに口元をゆがめた。彼はその手を持ち上げ華奢な手の甲に強く唇を押し当てると、そのまま再び馬車に乗り込んでしまった。
 見送るニコルの左手に、じんじんと焼けつくような彼のキスの感触だけがいつまでも残った。


*** *** ***



「近頃、ぼんやりしていることが多くなったようね」
 とがめるような母の声に、ニコルは思わず手元を見た。手にした刺繍が少しも進んでいない。
 そんなことで侯爵夫人は務まらないのよ。深いため息混じりにそう忠告し、マーズロー夫人はニコルの部屋から出て行った。
 ニコルの心は鉛のように重くなった。刺繍をテーブルに投げ出し、座っていたカウチに突っ伏してしまう。3日に一度の婚約者の訪問も今では少しも嬉しくなかった。嬉しいどころか、会いたくないとすら思っている。
 今自分が会いたいのは彼だけだ。認めたくはなかったが、そう自覚しつつあった。



 近付く秋と共に、ロンドンの社交シーズンも終わりに近付いていた。
 その日、ニコルは久し振りに着飾ってロバートのエスコートである伯爵主催のパーティに参席していた。もともとこういう場を楽しいと思ったことはあまりなかったが、近頃一層退屈感が募っている。話しかけられても一言二言上の空で答えるだけの彼女に、日ごろ穏やかなロバートの目にも次第に濃い不満の色が募り始めるのがわかったが、どうすることもできなかった。


 そんなニコルが途中で周囲がいぶかるほどに変わった。燕尾服を着こなした端正な黒髪の青年貴族がパーティ・ホールに入ってきたときのことだ。彼にエスコートされているのは肉感的な肢体を日ごろから誇っている名門の伯爵令嬢だった。
 ニコルは自分以外の女性に向けられた彼の笑顔を見て愕然とした。そしてその一瞬を境に、俄然明るくはしゃぎはじめた。
「そんな奥に引っ込んでいらっしゃらないで、ロバート。わたしをいつまで壁の花にしておくおつもりなの? あなたがそんなふうでしたら、他の殿方とどんどん踊ってしまいますわよ」
 急に口数が増え、甘えるように自分を見上げながらダンスをねだるニコルの変貌振りに驚きながら、ロバートもまんざら悪い気はしないようだった。わざとしなだれかかるニコルの体をいつになくぴったりと抱き寄せながら、ワルツの曲が流れるフロアに出ていく。
「どうして急に気分が変わったんです、ニコル?」
 踊りながら不思議そうにロバートからこう問われたが本当の理由など話せるはずもない。ただくすくすと笑いながらこの年上の婚約者に懸命に甘えてみせた。そのくせ体中のすべての神経、すべての意識は目の前の男を通り越し、ホールの反対側で美しい伯爵令嬢と談笑しているミッドナイトブルーの瞳を持った若い少尉に向けられているのだった。
 ニコルはその後、ダンスを申し込んでくる紳士達と片端から踊り、微笑みを振り巻き笑いかわした。ロバートも呆れるほどに社交熱心になっている。


 だが、そんな見せかけの戯れも、アレックスと相手の令嬢の姿がいつの間にかダンスホールから消えていることに気付いた途端、空気が抜けた風船のようにしぼんでいった。先ほどまで自分を包んでいた熱気に代わって、冷え冷えとしらけた空気に取り巻かれ、自分でもたじろいでしまう。
 疲れた、と言って次のダンスの申し込みを断わり、ちょっと外の空気を吸いたいのでとその場を離れると、テラスからよく手入れされた庭園に出ていった。

 夜風がほてった体を心地よくなぶっていく。
 今自分を捉えている複雑な感情を、いったいどう考えればいいのだろう。
 これではまるで……あの令嬢に嫉妬しているようだ。
 いいえ、嫉妬しているんだわ、わたしは……。
「アレックス……」
 彼を思うだけで胸が苦しいほど痛くなる。泣きたくなるほどに。

 周りに誰もいないところまできて、ようやくほっとしたときだった。
 不意にニコルの背後に誰かが立った。腕をつかまれ強引に振り向かされる。
 ぎょっとして開きかけた唇が、次の瞬間唇でふさがれた。途端にこれが誰なのか、彼女にもわかった……。


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06/12/19 更新
ちょっとマニアックなあとがき… →BLOG