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 今のアレックスには、先日の優しさなどどこにも感じられなかった。
 獰猛なまでの波動が彼を取り巻き、ひたすら怒りをぶつけるような奪い取るだけのキスが続く。こんなのはいや!
「んっ……」
 か弱い手であらがいながら懸命に押し付けられている硬い胸板を押し返そうとするが、力でかなうはずもない。彼は執拗だった。ニコルの懸命の抵抗も虚しく、気が付けば乱暴に傍らのベンチに上半身を押し付けられてしまっていた。
 のしかかるようにして自分を見下ろしていたアレックスが、再び唇を重ねてきた。先程よりさらに激しくなった彼の攻勢の前に、ニコルはなすすべもなく唇を開いた。次第に身体の奥からこれまで味わったこともない熱い渦が高まり始める。それに完全に呑み込まれそうになりながら、まるでつき動かされるように夢中で彼のキスに応えていた。
 霞のかかった意識の中で、呻くように自分を呼ぶ声がかすかに聞こえる。
 ほとんど同時に、ニコルの肩をベンチに押しつけていた右手が、まるで確かめるように彼女の頬から首筋の滑らかな線を辿り始め、開いたドレスから覗く柔らかな白い胸元まで這い降りていく。
 彼の唇がニコルの細いうなじへと移り、焼けるような徴を刻みつけたとき、そのひりつくような刺激に彼女は思わず目を見開いた。わたしは何をしているの? 
 ニコルが再び覆いかぶさっている男の体の下でもがき始めたとき、彼もまた我に返ったように身を強張らせて顔を上げた。

「どうしてこんなことをするの? わたしを困らせるのがそんなに面白い?」
 ニコルの喉から、訴えかけるような高い声がほとばしった。唇が震える。図らずも涙が零れそうになるのを懸命にこらえた。彼が目を細める。
「面白がっている男の顔に見えるのかい?」
「こんな冗談はやめてちょうだい、アレックス!」
 彼女の腕を掴んでいる手にさらに力がこもった。かすれた声が耳元で唸る。
「何が冗談なものか。さっきから君はずっとぼくに何をしていたのか、全然わかっていないのか? あんなに挑発するなんて、どういうつもりだ?」
「何を言っているのかわからないわ。それにあなたの方こそ……、むしろわたしのほうがお聞きしたいくらいよ。この手を離して! 痛いわ」
 精一杯威厳を示そうと冷たく言い放ったニコルに、彼はぐっと歯を食いしばった。
 だが、ついに痛みに耐えかね目に涙が浮かぶのを見て、ようやく手を離す。
 彼が身体を起こしてくれたので、ニコルも腕をさすりながらようやくベンチにしゃんと腰を下ろした。明日は長袖のドレスしか着られない。きっとあざになっている。


 彼の両手が再び今度はひどく優しく彼女の腕を支えた。かがみこむと、彼は先ほど自分が乱暴につかんでいた場所に詫びるようにそっと唇を寄せた。
「何をそんなに怒っているの?」
 アレックスの態度に大いに困惑しながらニコルはおそるおそる問いかけた。
 こわばった男の顔に、やるせなさ、憤り、苛立ちがないまぜになったような何とも言えない表情がよぎった。彼はしばらくニコルをじっと見つめていたが、やがて彼女を残して立ち去ってしまった。
 またもや一人取り残されたニコルはますます混乱し、呆然とベンチに座り込んだ。


 まるで突然吹き抜けた突風に、さらわれてしまったよう……。
 そう。今自分を包み込むこの夜の帳のように、暗くて激しく、そして優しい瞳を持ったあの人に……。


 ニコルが、落ち着いてものを考えられるようになるまでには、少し時間が必要だった。
 それでもたった今、一つだけはっきりとわかったことがある。
 やはりロバートとは結婚できない。早くそう伝えて謝らなくては……。



*** *** ***



「今日はもうお帰りになったのね。随分早かったこと。どうしてお見送りしなかったの? ロバートを」
 子爵夫人がサロンに入ってきたとき、ニコルは窓辺に立って、カーテン越しに外を眺めていた。彼女は青ざめた顔でゆっくりと母親を振り返った。
「ごめんなさい、お母様……」
「どうしたの、いったい」
 娘の気配に何かを感じ取ったように問いかける母に、ニコルは思いつめた目を向けた。
「ロバートとの結婚を、たった今お断りしました」
 夫人は言葉も出ない、と言うようにただ呆然と娘を見つめていた。



 社交界に顔を出す気分ではなかったが、ただ閉じこもっているのも嫌だった。
 気晴らしにオペラ劇場に両親と出かけたとき、ふと耳に入った言葉にボックス席に向かうニコルの足が止まった。
「アレックス・デズモンドが、最近随分酷いそうね、あなたあの方に関心がおありだったんでしょう?」
「まぁ、やめてちょうだい。確かに素敵な殿方ですけど、所詮あの方は次男よ、一緒になっても爵位も称号も何も手に入らないじゃありませんか」
 ニコルはさっと振り返った。打たれたような気がした。もしかすると、彼はそのせいで……? 
 いいえ、わからない。そう、あの人の考えなど自分には何もわからないのだから。

 咄嗟にニコルはその令嬢達に近付いて行った。どちらもこの前、伯爵家のパーティで見かけた顔だ。
「アレックス・デズモンドが、どうしたというの?」
 突然話しかけてきたニコルに、回廊で話していた二人の令嬢はそろって驚きの目を向けた。だが、彼女の真剣な様子に気押されたように答えてくれる。
「あら、あなたもご関心がおありだなんて、意外ですわね。何でも最近酒びたりだそうよ、隊本営から召還命令が来ているのに、それも聞かないんですって。いかがわしい女を連れ込んでいるという噂も聞いたわ。あら、どうなさったの?」
 怪訝な相手の表情も今の彼女の目には入らなかった。その後のオペラも完全にどうでもよくなってしまった。


 はやる気持ちを必死で押しとどめて翌日まで待ち、午後、クリーム色の自分に一番良く似合うハイネックの外出着に着替え、彼女はウィンズブルック伯爵邸の前で馬車を止めた。執事に訪問の目的を告げると、驚きの目を向けられる。
「おそらく……、お会いにはならないでしょう。最近はどなたにもお会いにならないのです。奥方様もそれはご心配なさっておられますが」
「アレックスの部屋はどこですか。わたくしが直接会って話します」
「ニコルお嬢様、アレキサンダー様は只今少々お取り込み中でございまして……」
「そう。でも大至急お会いしなければならないの」
 幼い頃何度か来ていたので、彼の部屋がどこにあるかは覚えていた。止めようとする執事を押しのけるように、ニコルは赤いじゅうたんの敷かれた中央階段をどんどん上がっていった。

 うっすらと開いた彼の部屋のドアの隙間から、ふざけ合う男女の声とくすくす笑いが聞こえてくる。
 ぞっとしながらノックもせずに扉を大きく開くと、カーテンが引かれたままの薄暗い部屋に、見るからに商売女らしい女が、豊満な胸をこれ見よがしに開いた下品なドレスを着て、アレックスに寄り添うようにもたれふざけあっているのが見えた。
 部屋中に、強烈なジンの酒気が漂っている。
 思わず手で口元を押さえて立ちすくんだニコルに気付いたように、アレックスが寝椅子からゆっくりと顔をこちらに振り向けた。にやついていた表情が明らかに狼狽に変わり、乱れた髪を手でかき上げながら、そろそろと身体を起こす。
 シャツもズボンもいつ替えたのかわからないほど、しわくちゃになっていた。彼が彼女に近付こうと一歩踏み出した途端、床に置かれたボトルに躓きよろけて膝を付いた。瓶が倒れ、まだ残っていた酒が床に零れる。
 激しい衝撃から覚めるや、ニコルのブルーグリーンの瞳に強い怒りの炎が燃えあがった。
 彼女はアレックスの背後でおろおろしながら様子を窺っている女につかつかと歩み寄ると、開け放った扉を指差し、反論を許さぬ厳格な声で命じた。
「ここから出て行きなさい、今すぐに」
 女がそそくさと出て行ってしまうと、今度はアレックスに敢然と向き直った。
 彼はすでに立ち上がっていた。彼女を見た瞬間の呆然とした表情が、今は強い皮肉に変わっている。
「これはこれは……、マーズロー子爵令嬢。このようなむさくるしい部屋にようこそ。いったいどういう風の吹き回しでしょうかね」
 ろれつの回らない口調で言いながら、ゆらりと目の前に立ったアレックスは、彼女の顔に酒臭い息を吹きかけながら、にやりと笑いかけた。
「ああ、いい女だったのに追い払ってしまうなんて……。もっとも君が代わりにぼくの酒の相手してくれるというのなら話は全然違うけどね」
 こう言いながら、彼が顔を更に寄せてきたとき、ニコルは彼の頬に思い切り平手打ちを浴びせた。あまりに強く引っぱたいたので手がしびれてジンジンと痛むほどだった。
 片頬を赤くしたアレックスが、無言で見下ろしている。
「いったい、どうしたっていうの?」
 不覚にも涙が零れそうになり、ニコルはそれを押し隠すように激しく声をあげた。
「こんなあなたは大嫌い! 最低よ! あなたを愛してるからって、婚約まで破棄したわたしこそ正真正銘の大馬鹿だったんだわ!」
「ニコル!」
 とっさに彼女を捕まえようと伸ばしたアレックスの手をすり抜け、彼女はそのまま一目散に彼の部屋を飛び出していった。


 残されたアレックスは、呆気にとられたようにずきずきする頬を片手で押さえた。
 あの華奢な手のいったいどこにこんな力があったのだろう。
 彼女が投げつけて行った言葉を幾度も繰り返すうち、酒でぼんやりした頭にも染みとおるようにその意味が飲み込めてきた。濁っていたミッドナイトブルーの瞳に急に生気がよみがえってくる。
 やがて、何事か決意したように口元を引き締めると、彼は乱れた自室を後にした。



*** *** ***



 今年も、マーズロー家の果樹園にりんごがたわわに実る秋が巡ってきた。
 夕暮れ時、ニコルは肩にショールを巻きつけてその果樹園を一人そぞろ歩いていた。ロンドンにしばらく留まるという家族から離れ、彼女は一人この領地のカントリーハウスに来ていた。一人になっていろいろ考えたかったからだ。


 だが、ここにいると思い浮かぶのはやはり彼のことばかりだった。自分の弱さにうんざりし、彼女はやりきれない思いを振り払うように歩き続けた。

 ふと、馬のいななきとひずめの音が聞こえたような気がして、はっとした。
 馬鹿ね、誰も……、ましてやもう、あの人がここに来るはずなどないのに……。

 だが、果樹園の小道を走ってくる馬も馬上の人も、確かに本物だった。

 立ち尽くすニコルの前まで来ると、アレックスはひらりと馬から飛び降りた。黒いマントの下は騎兵隊の軍服姿のままだ。
「仕官の身の辛いところでね。すぐに君のところに来ることもできなかった……。マイレディ・ニコル」
 彼の口調に胸がときめくのを感じたが、ニコルはじりじりと後ずさった。だが、彼は彼女の目の前に立つと、優しく震える手を取り上げキスを置く。
 途端にからからになった彼女の喉から、自分でも驚くほど冷静な声が飛び出した。
「こんな所まで何の御用でしょう、デズモンド少尉殿?」
 そっけないその口調に彼は少し悲しそうに微笑むと、動揺を抑え切れずにいるブルーグリーンの瞳に切羽詰った眼を向けた。
「もう遅すぎる、なんて言わないでほしい。もしあの時、僕を愛していると言ってくれた言葉が真実なら。もう一度やり直せないだろうか。この場所であの日から……」
 咄嗟にニコルは声が出せなかった。暗く翳った瞳を黙って見つめ返したあと、伸び上がって彼の唇にそっと口づける。
 彼の手がニコルの身体を力いっぱい抱き締めた。しばらく二人は、言葉もなくただ抱き合っていた。



「どうして軍隊に入ったの? まだ聞いていなかったわ」
 ふと思い出したように問うニコルに、彼が優しく微笑みかけた。
「君を得るためには、ぼくに確固とした地位が必要だと思ったからだ。軍隊での辛い日々も君を思って乗り越えてきた。なのに異例の昇進を得て帰ってきてみれば君は婚約したばかりだという。あの日は文字通り気が狂いそうになったよ。ニコル……。もう一度ぼくを見直してほしかった」
「そんなこと、何も関係なかったのに……」
 胸がいっぱいになって、ニコルは彼に更に身を寄せた。彼がふーっと深く息をついで続けた。
「君を愛してる……。君が無邪気なお転婆レディだったあの頃からずっとだ」
「わたしも……、きっとそうだったんだわ……」
 二人の身体がいっそうぴったりと寄り添った。

 秋の夕日が果樹園の小道に、いつまでも抱き合い口づけを交す恋人達の影を、長く照らし出していた……。

= fin =


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06/12/22 更新
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