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「下降いたします。この飛行機はまもなく、仁川国際空港に到着いたします。恐れ入ります。ご座席のシートベルトをお締めください」
 機内に流れるアナウンスと同時に、飛行機の下降に伴う気圧の変化に耳が少し痛くなる。わずか二時間あまりのフライト。バックシートにもたれかかってぼんやりと追想にふけっていた黒木奈美は、思わず上体を起こして飛行機の丸い窓から外をのぞき見た。海の青さと韓国の岩だらけの大地が間近に迫っている。
 とうとう来たのだ。あの人がいるこの国へ……。
 大きな目をいっぱいに見開いて、身を乗り出すように眼下に広がる景観を眺める。そんな自分に気付いて、奈美は思わず苦笑した。実際、この行動はどうかしている。それでも、降って湧いたこのチャンスにどうしても飛びつかずにはいられなかった。
「どうしたんだい、気分でも悪いの?」
 隣の席で週刊誌を読んでいた営業部部長の橋本に声をかけられ、奈美ははっとしたように、いそいで視線を前方に戻した。
「いいえ、何でもありません」
 橋本は今回の出張の上司だ。大企業の出世コースを歩いてきたエリートらしく、頭は切れるが、やや面白みにかけるやせた男だった。
 飛行機はどんどん高度を落とし、やがてががっという衝撃音とともに、仁川空港に着陸した。



「コリアデジタル社から迎えが来ているはずだよ。少し予定よりも遅れたようだ。あまり待たせていないといいがね。ま、もっともこの国の連中だって、コリアンタイムとか言って、かなり時間にルーズなところがあるらしいが。おい、黒木君、黒木君! パスポートを出しておきたまえ!」
「は、はい、そうでした」
「なんだかぼんやりしてるねぇ、大丈夫かなぁ? さっきからずっと心ここにあらずじゃないか。僕らは大事なプレゼンで来ているんだ。しっかりしてくれないと困るんだよ、君」
「わかっています」
 きゅっと唇を噛んで、彼女はバッグからパスポートを取り出した。
 入国手続きはあっという間に終わり、二人は大勢の人に混じって小型のキャリーケースを引いて歩き出した。
 通路のガラスにこげ茶色のタイトスーツを着た自分が映っていた。奈美は改めてその姿を確認するように目を留めた。一六五センチのすらりとした体型も目鼻立ちの知的な印象も一年前とほとんど変わっていない。少しやせたせいで、チャームポイントといわれる大きな眼が、さらに際立っているような気はするけれど。シニヨンにしていた髪を下ろしてやわらかくウエーブをかけたから、以前より活動的な雰囲気になったようだ。
 大丈夫よ、しっかりして。そう言い聞かせるほどに心臓の鼓動が早くなってくる。普段はめったに動じないクールな女として知られているのに、今は自分でもいやになるほど緊張していた。
 彼はこんな日本の女のことなんか、もう記憶の片隅にも留めてはいないのよ。だいたいあの人に会いにきたわけでもないのに、一人でこんなに緊張しているなんて馬鹿みたい。
 税関に向かいながら、奈美は自嘲ぎみに呟いた。これから向かおうとしているコリアデジタル社の本社ビルの中で、万が一、あのパク・ユンソクに出くわすことがあったとしても、彼の方ではわたしだと、気付くことさえないかもしれないのに。



「英語なら他にも候補はいるがね。ハングルの通訳が務まるのは、我がジャパンライフエレクトロニクス社中探しても、君くらいのものなんだよ。営業部の橋本部長といっしょに新企画のプレゼンに行ってくれないかね。会議は半日くらいで終わるだろうから、あとは買い物でもして、だね。ま、社費でいける秋の旅行だとでも思えばいいよ。かなりおいしい話だぞ」

 上司からこんなふうにソウル出張の話を聞かされたときは、とっさに断ろうと思った。だが、その言葉を聞いているうちに、自分でも抑えきれないほどの衝動が胸の奥から突き上げてきて、気がついたときには「はい」と承諾してしまっていた。
 一人になって思わず唇を噛む。コリアデジタルでのプレゼン。彼に一目でも会えるかもしれないというむなしくも愚かしい希望が、こんなにも理性を完全に押しのけてしまうなんて……。

 でも、もし遠くからでも彼を目にする機会があれば、わたしにはきっとすぐにわかるはずだ。
 デスクに戻りながら、奈美の身体は震えていた。
 たった二日間のソウル出張。だが、引きずっているこの不毛な心の惑いを祓うには、それだけあれば十分かもしれない。あるいは彼がわたしに気付くことさえなく会社のロビーをすれ違っていく、そのたった一瞬さえあれば……。
 まもなく自分も二十七歳になろうとしている。先日も電話で、故郷の伯母から見合い話を聞かされたばかり。こちらの意思に任せてくれている両親ですら、やんわりと薦めてくるほどだ。
 でも、新しい第一歩を踏み出す前にどうしてもしなくてはならないことがある。だから今、わたしはこの国に来た。
 そう。去年の春からずっと、心に住みついてしまったあの人に、本当の別れを告げるために……。



*** *** ***



「黒木君、韓国語のできる君を見込んでぜひ頼みたい仕事があるんだが……」
 それは一年と四か月前、ゴールデンウィークが明けたばかりのうららかな春の午後のことだった。
 突然奈美は、勤め先であるジャパンエレクトロニクス社の社長からじきじきに呼び出された。
 これから提携していく韓国の大手電機メーカー、コリアデジタル社から出向してくる一人の研修員の通訳を頼みたいとの用件だった。外語大でハングルを履修し、現地留学経験もある彼女が、高レベルのハングルを理解しかつ話すことができるためだ。
「ホテルは池袋のクラリオンホテル。期間は明後日から約一か月。そう緊張しなくても大丈夫だよ。電話で少し話したが、向こうも日常会話はほとんど問題ないくらい日本語が達者だからね。じゃあよろしく頼むよ、黒木君。大野部長にも協力するよう言っておくから」
 こうして押し付けられた『通訳 兼 世話役』に、奈美は何の不服もなかった。久し振りに韓国の人を相手にハングルで話せるのは嬉しかったし、何よりも抜擢されたのはとても名誉なことだと思った。
「大丈夫だな? 君を推薦した以上、俺にも責任がかかるんだぞ」
 オフィスに戻ると少し心配そうに確認する上司に、奈美はにっこり笑ってうなずいた。
「もちろんです。今日から、語感をしっかり取り戻しておきますね」



 それから二日後の午前十一時。

 彼女は羽田空港に、コリアデジアルから研修員として来る二十八歳の『パク・ユンソク』を迎えに出ていた。
 ソウルから羽田への直行便はとうに着いている。電光案内掲示板と、たくさんの荷物やスーツケースをカートにのせた人々が三々五々出てくる出口を交互に見比べながら、彼女はため息をついた。
 まだ来ないのかしら。首から社名と自分の名前入のカードをぶら下げてはいるが、向こうに自分がわかるかどうか疑問だ。こちらが見つけなければ。

 その時またゲートが開き、カジュアルな半袖シャツとスラックスのひときわ目立つ長身の男が、大きなスーツケースを引いて現れた。片腕に麻の白いジャケットを引っ掛けている。
 この人は違うわ、きっとテレビ関係者よ。奈美が再び出口に視線を戻し、次に出てきたスーツの眼鏡男の年齢を推し量っているときだった。
「アンニョンハシムニカ(こんにちは)。あなたはジャパンエレクトロニクスの方ですか?」
 いきなり横から響きのよい声がかかり、驚いて振り向いた彼女の目に、さっきのひどく目立つ男が映った。
「パ、パク・ユンソクさんですか? コリアデジタル社の?」
 思わず声が上ずった。
 東京の街角にすらあまり見かけないような優しげな甘いルックス。奈美よりも二十センチは背が高い。二十八と聞いていたが、堂々としたその物腰は自分と三つ違いにはとても見えなかった。どうやらかなり育ちのよい男のようだ。
 ラフな服装にもかかわらず、上に立つものの風格がどことなく感じられた。少し微笑した口元からのぞく歯並びのよい白い歯、さりげなくしている腕時計はロレックス。さらに奈美の目はシャツの下の肉体が鍛えられ引き締まっているらしい、というところまで、しっかりと見て取っていた。
 ちょっと、何を考えているのよ……。
 自分が品定めするようにじろじろ見ていたことに気付き、慌てて相手の顔に視線を戻すと、男は面白そうに口元をゆがめて笑いを噛み殺している。目が合った途端、彼女を揶揄するようにソフトな声が響いた。
「それで、僕はあなたの目に合格ですか?」
 嫌味な男ね! かちんときたので、さりげなくこう返してやった。
「あなた、職業の選択をお間違えになったのじゃありません? テレビのタレントさんかと思いました」
「ええ、よくそう言われますね」
 からかうようなまじめくさった口調。くやしいが、思わずうなずいてしまう。そのとき社長命令を思い出し、咄嗟に口から飛び出してしまった失礼な言葉に慌てた。
 だが、実際この男なら、初対面の相手に芸能人です、と紹介しても十分通用するに違いない。急にとても不愉快になった。こんな男を引き連れて歩いていたら、平凡な自分の方が悪目立ちしてしまう。
 でも仕事は仕事。一度引き受けた以上、感情を逆撫でされるなどという馬鹿げた理由で断ることなど、できるはずもない。
 気を取り直し制服のえり元を正すと、改めて口を開きかけた。だが、それより早く男がすっと名刺を差し出した。
「ソウルのコリアデジタルから来ました、パク・ユンソクと言います。一か月間世話になります」
 イントネーションが少し違うが、この日本語なら上出来だと思った。奈美はやっと微笑を浮かべて、それを受け取った。
「失礼いたしました。事業部の黒木奈美と申します。こちらこそよろしくお願いします」



*** *** ***



 奈美に与えられた新業務、すなわち『パク・ユンソクの世話役』とは、早い話が彼の通訳兼秘書兼ドライバーだった。
 彼は精力的に仕事をこなすビジネスマンで、一見穏やかに見えるが、日本の男達に比べ主体性が非常に強い。すぐに奈美はそれを実感させられた。彼は彼女の都合を聞くこともなく、どんどん物事を進めようとする。
 個人的な癖なのか韓国の男は皆そうなのか、ソフトにではあるが一方的に命じるように言われ、カチンときて「できません」と言い返してやりたくなったことが何度もあった。それでも数日するとそんな彼にも次第に慣れて、案内を楽しめるようにさえなってくる。

 少し時間があったので、ユンソクの希望で初めてスーパーマーケットに行った日。ずらりと売り場に並んだ商品の膨大な数に、彼は目を細めていた。やはり日本は本当に豊かな国だ、とスーパーの袋を手にしみじみと呟く声が聞こえた。
 日本と韓国はアジアの一番近い国同士で、生活習慣などにも大きな違いはない。とはいえ、彼が初めての日本滞在で細かい点にとまどっていたことが、次第にわかってきた。ずっと我慢していたのだろう。何も言わなかったから、ついに彼がどうしても納得できないというように、口にした日まで気付かなかった。



 その日、都内の商工会議所会長達との懇談会と会席料理の昼食会を済ませたあと、料亭から出ながら奈美は感心したようにユンソクを見上げていた。
『日本語が本当におできになるんですね。通訳しなくても半分くらいはおわかりになるみたいですが』
 二人きりのときは、極力ハングルを用いるようにしている。その方が彼もリラックスできるだろうから。
『ハングルと日本語はとてもよく似ているから、この程度なら習得するのはさほど難しくないよ。だけどね……』
 ユンソクは眉をひそめて奈美を見返した。
『どうも日本人は、本音をはっきり言わない傾向があるようだね。肝心なところまでくると検討してみましょう、と言ってそれ以上突っ込んで話ができなくなってしまう。もっと思うところをはっきり言えばいいものを。それに……』
『はい』
 次に何を言われるのかと思わず緊張する奈美に、彼は真顔でこう続けた。
『日本食はどうも好きになれないな。どうしてなんだろう? 味がほとんど付いていないじゃないか。そのうえほんの一口ずつしかないときている。韓国ではもっとご飯も茶碗いっぱい山盛りに盛るし、おかずも大きな皿の真ん中に一つだけぽつんと載ってるってことはありえないよ。あれでいったいどうやったら満腹になるんだ? しかもさ』
 しかめ面で付け加える。
『どうして箸と一緒にスプーンがついてこないのかな?』
 奈美はぷっと吹き出した。大まじめの彼の前で、思わず声をあげてひとしきり笑い転げてしまった。無理もない。毎日キムチなど辛いものばかり食べつけている韓国人の舌には、極めて上品なあの料理の味付けはとても合わなかっただろう。
『わ、笑ったりして大変失礼しました。ですが……』
 苦虫を噛みつぶしたような表情で立っている彼を見て、ようやく笑いを収めると奈美は改めて説明し始めた。
『あれが日本の伝統的な味と言うことで、ご理解いただくしかないですね。ああいう日本料理は素材の持ち味や香りを大切にしますから、濃い味付けはしないんです。それにスプーンのことは気付かずに、本当に申し訳ありませんでした。あなた方は必ずスプーンとお箸の両方が必要でしたね。日本人は普通お箸だけなんです。ですからご飯とお汁類は器ごと手で持ち上げて食べるんですよ。だから持ちやすいようにあの食器の形になっています』
『……なるほど』
 彼は興味深そうに至極真面目な顔で聞いていたが、車の近くまで来て腕時計をちらりと見やった。
『それじゃ、もう一度食事に行こうよ』
 え? 会社へ戻るのが先じゃ……。
『あの、本当にまたお食事をなさりたいんですか?』
 少しあきれたように奈美が問うと、彼は再び渋い表情になった。腕組みして、わざと横柄な口調になる。
『奈美さん。昨日も言ったと思うけど僕と話すとき、いちいちそんな堅苦しい丁寧語を使う必要はないからね。今度そんな言い方をしたら返事しないよ。それにあれじゃ食べた気がしない。もう少し食べてから帰ろう』
「あのぅ、申し訳ありませんが、わたしはまず会社に戻りたいんです。ちょっと次の予定がありまして」
 日本語でぼそぼそ呟いていると、いきなり片手を取られた。奈美を引っ張るようにどんどん歩き始めたユンソクは、驚く奈美にいたずらっぽい微笑を向けた。
「ユ、ユンソクさん? ちょっと……」
「少しくらい遅れても大丈夫です。さあ、行きましょう」
 何が『大丈夫です』なのよ! わたしの都合なんかまったく考えないわけなのね?
 ムッとしたが、そのとき留学中のことを思い出した。韓国人にとって『食事しましたか』という言葉は標準的な挨拶文句だし、そうなるくらい食事は日常生活の優先事項なのだ。
 それに『大丈夫(ケンチャナ)』と相手を煙に巻くのも、しょっちゅう聞いた覚えがある。
「わかりました。行きますから」
 ため息をついて観念したように答え、手を引こうとするが彼はまだ離さない。結局二人は少し先のレストランまでそのまま歩いていった。
 大きな男らしい手に包まれた自分の手を見ているうちに、なぜか奈美はひどく落ち着かない気分になっていた。



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07/02/07   更新