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 税関の係員に促され、奈美ははっとしたように思い出の淵から我に返った……。

 形式的なチェックが済むと、キャリーケースを引いて自動ドアから外に出る。個人名のカードやツアーのプラカードを手にした人が大勢、ざわめきながら出てくる客を待っていた。
 その中に立ってしばらく周囲をきょろきょろと見回していた橋本が、「お、あれかな」と呟いたので、奈美も機械的に顔をそちらに向けた。途端にチャコールグレーのスーツを着こなした長身のビジネスマンの姿が彼女の目に飛び込んできた。
 ぐらり、と視界がかしぐほどの衝撃を受け、思わずその場に立ちすくんでしまう。忘れようとこの一年四か月、あれほど努力してついに忘れることのできなかった男が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
 彼は自分に気付くだろうか。だが、落ち着き払ったその足取りにも表情にも、何ら特別な感情は窺えなかった。冷徹、とも言えそうな黒い瞳には、かつて胸をときめかせたあの優しい微笑のかけらも見えない。

 パク・ユンソクは二人の前まで来ると、まず橋本に握手の手を差し出し、流暢な日本語で声をかけた。
「コリアデジタルの理事・兼・事業促進部本部長、パク・ユンソクと申します。ようこそソウルへ。社から迎えに参りました」
「おお、これはこれは。わざわざおいでいただくとは恐れ入ります」
 橋本が恐縮したように丁重な挨拶を返している間、奈美の心臓は今にも破裂しそうになっていた。いよいよ、橋本がひとしきり自己紹介を終え、後方に立っていた奈美を紹介しようと振り返った。
 呆然と目を見開いていた彼女に視線を移すなり、ユンソクの眼差しは一転、ナイフのように鋭くなった。橋本が口を開くより先に、ユンソクはゆっくりとした動作で彼女の前に歩み寄った。
「ようこそソウルへ。黒木奈美さん」

 彼はわたしを覚えていた!

 息詰まる緊張がとけ、同時にめまいがするほどの安堵感を覚えたことに、自分でも驚いた。
 そっけないその一言とともに、何も言えずにいる奈美の前に、橋本のときと同じようにユンソクの手が差し出される。びくっとして、かつて誰よりもよく知っていたその大きな手を見つめた。
 ためらってからそっと一瞬だけ触れ、すぐに引っ込めようとする。だが、彼の掌は彼女の手をしっかりと捉え、握り締めた。
 彼を正視することはとてもできなかった。奈美は「お久し振りです」と消え入りそうな声で挨拶しながら、俯き加減のままお辞儀した。ユンソクはまだ自分を見ているようだ。ちりちりする視線を感じ、目をあげることもできない。
 哀れな子羊に助け舟はすぐ隣から出た。
「ああ、そうでしたな。パク理事、あなたは去年我が社に……」
 二人を見比べながら橋本が思い出したように言いかけたので、奈美はまたもや心臓がひっくり返るような気がした。思わず唇を噛んだとき、横から彼がさらりと応じた。
「本部長で結構ですよ。おっしゃるとおりです。去年の春、貴社に研修名目で出向した時は、大変お世話になりました」
「いや、それにしても通訳など必要もないくらい日本語がお上手ですな、パク本部長」
 納得したようにうなずきながら、橋本は怪訝な顔で奈美を見た。彼女はまだ唇を噛み締めたままだった。
「では、行きましょう」
 ユンソクはそう言って二人を促すと、先に立って歩き始めた。
「もっと愛想よくするべきだとは思わないかね? なんだかさっきからおかしいよ、君」
 とがめるようにひそひそ声で言う橋本に、奈美は硬い表情のまま答えた。
「まさかパク本部長にお目にかかるとは、思わなかったものですから」
 少し前方を歩いていたユンソクが、さっとこちらに目を向けたような気がした。

 車の後部シートにようやくの思いで座ると、押し黙ったまま窓から景色を見ている振りに徹した。隣では橋本が懸命に和気あいあいの雰囲気を作り出そうとするように、助手席に座るユンソクの日本語をほめながら、世間話に花を咲かせていた。



*** *** ***



 ソウル市街地はハングル文字で書かれた様々な店舗の看板と、赤レンガの建物の洪水だった。市の中央を流れる漢江沿いから車で込み合う市街路に入り、都心部に位置する高層オフィス街にたどり着いた時には、すでに夕刻にかかっていた。

 コリアデジタル本社ビルに直行かと思っていたが、到着したのは大きなホテルだった。それも重役でもない自分達にはゴージャスすぎるような立派なホテルだ。目を丸くしながら車から降りる。丁重に出迎えるポーターに案内されて、三人はロビーに入っていった。

「まずはチェック・インしてください。お二人の名前で部屋を予約してあります」
 その声にはっと気がつくと、ユンソクは奈美のすぐそばに立っていた。彼がまた自分を見ていることに気付き、さっと視線をそらせてしまう。
 フロントでキィカードを受け取ると、二人はユンソクを振り返った。彼がにこやかにこう告げた。
「会議は明日の午前九時半からになりました。今日はお疲れでしょうから、ごゆっくりなさってください。食事はこのホテルの中のバイキングでご自由にどうぞ。明日の朝九時に社から迎えの車をよこします」
 橋本が嬉しさを隠しきれない様子でうなずいたのを見て、ユンソクは背後のボーイにさっと合図を送った。
「それじゃ、黒木君、明日の朝七時半にここで最終打ち合わせだよ」
 ボーイが来ると橋本は奈美に確認するように言い置くなり、荷物と一緒にエレベーターに乗り込んでしまった。
 呆然とそれを見ていた彼女は、我に返るや「わたしも行きます!」と叫び、急いで後を追って乗り込もうとした。だがエレベーターは無情にも、駆け寄った彼女の目の前で閉まってしまう。
 慌てて上がりボタンを幾度も押していると、背後から手が伸び、ボタンを押し続ける彼女の手首をつかんだ。
「何をしてる? 君は僕が案内するから、心配いらないよ」
 捕まれた手首が、かっと熱を帯びる。一年前と少しも変らない男らしい体躯を背中に感じ、思わずごくりとつばを飲み込んだ。今彼は、全身が触れ合いそうなほどすぐ後ろにいる。

 こんなふうにわたしをいたぶるなんて、いったいどういうつもり?

 戸惑いがふいに腹立ちに変わった。かっとなって振り返ると、彼は皮肉な微笑を浮かべて立っていた。この表情には見覚えがある。
 言葉はたちまち喉の奥に引っ込んでしまい、唇を噛んでまた俯いてしまった。途端に顎を持ち上げられ、否応なく視線を捉えられる。
『どうして僕を見ない? 空港からずっとじゃないか』
 低いハングルで怒ったように問いかけられ、彼女は驚いて目を見開いた。
『そんなことは……ありません』
 硬い声でこう答えたとき、エレベーターが再び降りてきた。ユンソクは奈美の肩を抱くようにしながら中に乗り込んだ。
 大勢の人目のある中、抵抗するわけにもいかない。気まずい思いで、彼女は彼に寄り添うようにエレベーターに乗っていた。



*** *** ***



「ここまでしていただく必要はまったくありません! そのカードを返してくだされば部屋には自分で入れますから。パク本部長!」
 彼女が必死に訴える声も無視して、ユンソクはさっさとその部屋のドアを開いた。荷物はすでに届いている。
 彼に続いて中に入った途端、思わず眼が丸くなった。なんて素敵な部屋……。
 その広くてゴージャスなふた間続きのスイートに、奈美はまた呆然と呟いた。
「こんなの……何かの間違いだわ……」
「気に入った?」
 途端に気がついて、声がとげとげしくなる。
「あなたがしたことなの?」
「気に入らないですか?」
 おや、というように眉を上げたユンソクを、奈美は不審そうに見返した。
 だが、彼が皮肉な表情のままゆっくりと近付いてくるのに気付くと、一歩後ずさり、視線をさっと部屋に戻してしまった。
「もっ、もちろんそんなことはありませんけど……、でも、あなたの会社では、出張してきた平社員にまで、いちいちこんなお部屋を準備されるんですか?」
 困惑顔で尋ねる彼女を、ユンソクはしばらく黙って見つめていたが、ふいに、やれやれというように天井を見上げると、低い声でくっくと笑い出してしまった。
『だけど、この部屋は気に入ったんだね?』
 彼の言葉が突然ハングルに変わる。
『それは……、もちろんですけど』
『それなら別に問題はないわけだ』
『は、はい。それはそうですが……あれ?』
 何か違うような気がする。そう思いながら奈美が首をひねっていると、彼がふうと大きなため息をついて目を閉じ、小さく呟いた。
『まったく、君って人は……』
 急にユンソクの肩から力が抜けたようだった。空港で彼に会った瞬間からずっと感じていた強い緊張感が解け、リラックスしたように見えた。
 彼がふいに話題を変えた。
『その服は仕事用じゃないのか? 着替えは持ってきたのかい?』
『え? ええ、それは』
『じゃあもうちょっと軽い外出着に着替えて。いっしょに食事に行こう。君が好きだと言ってたビビンバのうまい店に案内するよ』
 突然変わった態度とまったく意外な誘いに、奈美はひどく面食らった。いったい何を考えているの? さっぱりわからない。
 つい先ほどまで、まるで怒っているような冷たい雰囲気だったのに、今度はかつてとほとんど変わらない穏やかな表情で、忍耐強く待っているようにさえ見える。
 彼女はあわててぐっと気持を引き締めた。そして日本人らしくぺこりとお辞儀をすると、あえて思い切り堅苦しい口調で答えた。
『パク本部長、ここまで送っていただきまして、本当にありがとうございました。ですがそんなお気遣いはまったくご無用です。お忙しいことでしょうし、あとはもうわたし一人で好きにやっていますので』
 どうぞもうお引取りください、というニュアンスを言外にはっきり込めたつもりだった。彼が自分を誘う理由はわからないが、彼を見ているだけでずっと眠らせておいた熱い思慕の情が呼び覚まされ、気持がひどく不安定になっていくのがよくわかる。
 その上、こんなふうにホテルの部屋に二人きりでいては……。
 あの春の夜をまざまざと思い出し、慌てて目をそらしてしまった。自分の弱さにうんざりし、奈美は目の前の男をどうにか追い払おうと、ますますやっきになった。
『本部長にはお疲れ様でした。明日のプレゼンもご期待に沿えるよう、精一杯努め……』

 彼の身体がさらに近付き、その言葉を最後まで言うことはできなかった。
 まるで怒ったように顔を強張らせたユンソクがいきなりぐいと背中に手を回し、次の瞬間、否応なしに彼女はその鍛えられた硬い身体に引き寄せられてしまっていた。
 驚いて顔を上げた途端、彼の顔が荒々しく覆いかぶさってきた。

 それは昔を懐かしむような軽い挨拶代わりのキスなどではなかった。熱情を帯びた男の口づけそのものだった。彼女の唇を難なく覆いつくし、開きかけた隙間をさらにこじあけるように舌が割り込んでくる。
 こんなふうにまるで飢えたように切羽詰ったキスをされたのは、かつて一度きりのことだった。そう、二人で過ごした最後のあの夜……。奈美はなすすべもなく、あっという間に彼の唇が巻き起こす激しい悦びの渦に飲み込まれてしまっていた。
 やがて、もぎ離すように顔をあげたユンソクは、何も言わずに両手で彼女の身体を押しやった。その矛盾した荒っぽい動作にまた愕然とし、今のキスに応えてしまった自分に嫌悪感を覚える。彼の方でもそうなのだろう。黒い瞳がいっそう黒ずみ、ぎらついて見えた。
 思わず彼に背を向けて大きく息を継いだとき、苛立ったような声が聞こえた。
『つまらないたわごとはいい加減にするんだね、奈美。僕はそれほど気が長いたちじゃない。それじゃ部屋の外で待っている。十五分以内だ。間違っても一人でどこかに行こうなんて考えないほうがいいな。無駄だよ』
 そう言い捨てるなり、彼は荒々しく部屋を出て行ってしまった。扉が閉まるや、奈美は傍らの椅子にへたるように座り込んでしまった。全身が震えている。

 本当に、どういうつもりで彼はこんなことをするのだろう? 全然わからない。

 少しの間そのままぼんやりしていたが、十五分という言葉を思い出し、ようやく立ち上がる。ゆっくりとケースを開き、持ってきたニットのシンプルだが洗練されたデザインのワンピースを取り出すと、のろのろと着替えた。さらに薄いジャケットを羽織り化粧を直すと、髪を軽くブラッシングする。
 五分超過してしまった。本当に待っているだろうか。半信半疑でバッグを手にそっと部屋のドアを開いて外を窺ってみた。
 果たしてユンソクは、人気のない廊下の少し離れたところで、壁にもたれて携帯電話で誰かと話していた。彼女を見るなり電話を切ると、笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
『やっぱり、君にはこういうやわらかいラインの服のほうがいいな。僕は好きだ。ほら、もっとリラックスして。こちこちになってる』
 そう言いながら、片方の腕をさりげなく腰に回してきた。彼女の身体を自分に寄りそわせるようにして、エレベーターに向かう。まるで自分の物だと言わんばかりに……。

 こういうところは、少しも変らないのね……。

 奈美は思わず小さなため息を漏らし、あきらめたように微笑を浮かべた。やっと身体から力を抜く。
 これもまた、彼が見せてくれる束の間の甘い夢の続きなのだろうか?
 何もかも承知の上で、この数時間だけそれに酔ってみるのも悪くないかもしれない。

 抗いがたい誘惑に、彼女はとうとう身を委ねることにした。



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07/02/11   再掲