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 ユンソクが運転する白い車に乗って、二人は光の洪水のようにネオンが揺らめく夜のソウル市街地を走っていた。

 小さな店が大通りの両側にびっしりと立ち並ぶソウルの繁華街。ハングルや英語で書かれたブランド名に混じって、時折日本でも見慣れたスタバやサーティーワン、マクドナルドの看板などが見える。
 人通りの多い歩道には、おでんやトッポギ、ホットクなどを売るテントの屋台が軒を連ね、その下で仕事帰りらしい人々が楽しげにしゃべりながら、おいしそうにつまんでいる。また違う露店では、ぬいぐるみや帽子、ジグソーパズルなどがあまり脈絡もなさそうに並べられ、日焼けした労働者風の男達が道行く人々が立ち止まるのをじっと待っていた。

 奈美が珍しげに車の窓から、そんな活気に溢れた街の風景を眺めていると、ふいに隣から日本語で声がかかった。
「何を見てる?」
 え、と振り向いて彼を見た。いつの間にか気分がくつろいでいたので、素直に答える。
「実はわたしソウルに来るの、五年ぶりなんですよね。でもこうして見ると前とあまり変わらないなぁって……」
「五年前、というとハングルの語学留学のとき?」
「ええ、そうですよ。ソウル大学の語学堂に通っていましたから」
「ソウル大ね……。あそこじゃ、周りに何もなかっただろう?」
「あはは、かなり有名な山がキャンパスのすぐ傍にありますよね。登山に最適とかでよく授業が終わってから登らされたものです。韓国の人って登山好きな人が本当に多いんだもの。あの、パク本部長、ハングルで大丈夫ですよ。わたしももっと耳を慣らしておきたいですから」
『それじゃまずその呼び方、今すぐやめるんだ』
 突然の命令口調に面食らい、奈美は目をぱちくりさせた。
「え? で、ですが」
『ユンソクでいい。ここは会社じゃないし、今はプライベートな時間だ。第一、お互いそんな知らない仲でもないだろう?』
 ちらりと向けられた目が彼女の胸元を無造作に一瞥する。とたんに身体の奥がかっと火照った。思わず黙り込むと、彼はさらに畳み掛けるように言葉を継いだ。
『奈美、髪型を変えたんだな。そのほうが似合うよ。だけど前より少しやせたんじゃないか? だいたい君は、もとから少食だったからね。これからはもっとたくさん食べなくちゃだめだな。女性には子供を産むという何より大きな仕事があるんだから、身体は大事にしないと』
『な……、さ、さっきからいったい何をおっしゃってるんです? もしかして、わたしちゃんと聞き取れなかったのかしら。ああ、まずいわ、どうしよう。明日のプレゼン大丈夫かしら』
 混乱したように自信のない声でぼそぼそと呟く彼女を、ミラーの中から黒い瞳がからかうような笑いを帯びて見つめていた。
 やがて、車は『全州マウル』と太筆で大書された木の大きな看板のかかった韓式レストランの駐車場に入っていった。



*** *** ***



 本場だけに、出された料理はどれもとてもおいしかった。テーブルに所狭しと並ぶキムチやナムル、サラダといった副菜は、どれもお代わり自由。やがて具を山盛りに盛り上げたビビンバのどんぶりが奈美の前に置かれると、ユンソクがさっとそれを取り上げ、上手に混ぜ合わせてくれる。この切るように混ぜ合わせるスプーン使いは自分にはとても真似できない、と感心して眺めていた。
 食事をしながらユンソクから尋ねられるままに、日本本社での今の仕事のことや、自分の家族のことを話していた。父はごく平凡な市役所の職員、母は主婦、二歳違いの弟がいること……。さらに親戚のことまで聞かれ、内心驚いたほどだった。
 そうやって向かい合って話し込んでいるうちに、去年の春に戻ったと錯覚しそうなほど、彼は打ち解けて親密だった。ただ違うのは、ここが東京ではなくソウルだということ、そしてあの時案内していたのは奈美で、今はユンソクだということだ。

 ほとんど食事を終え、最後に出されたシッケという米で作られた白くて甘い冷たい飲み物を飲みながら、奈美はふと気付いたように彼を見つめた。
『わたしにばかりお聞きになるけれど、あなたの方は? わたしそういえばあなたのこと、何も知らないわ……』
 問いかけてから、脳裏に去年の春、上司から聞いた言葉が蘇った。

 ……彼は韓国有数の財閥の御曹司で……。

『そうかい? ……それは君が聞かないからさ。聞いてくれれば、いつでも答えるよ』
 彼はおや、と言うように眉を上げ、やや皮肉な口調になった。そのまま、まるで続きを促すように黙っている。
 口を開きかけて、奈美はためらった。

 何も知らなくたっていいのかもしれない……。どちらにしても、わたしには関係のないことよね。

 今、このひとときを彼と共に過ごしている。それだけで言葉にできないくらい幸せだと思う。こんなことで大切な時間を台無しにしたくない。
 奈美は無理に微笑を繕うと、何気なく韓国の観光の話題に話を戻そうとした。
 ふいに、見つめる黒い瞳に濃い影が差し、ユンソクはもどかしげに一瞬横を向いてしまった。その眼が再び彼女をまっすぐ捉えたとき、彼は真剣に何かを問おうとするかのように、口を開きかけた。


 その時だった。

 突然、二人の間に割り込むように若い女性の声が響いた。
『ちょっと、パク・ユンソクじゃない! あなたここでいったい何をしてるのよ?』

 彼が顔をしかめて振り返った。驚きに大きく見開いた奈美の目に、こちらのテーブルに勢いよく近付いてくる、ファッショナブルなショートコートとパンツスタイルの若い韓国女性の姿が映った。
『あなたったら、約束キャンセルしてきたと思ったら、わたしが目を離してる隙にこんな可愛い女の子ひっかけてるわけなの? まったくひどいじゃない? 油断も隙もあったものじゃないわね』
『よせよ。そんな言い方はないだろ。今日は一人で来たのか? ここに何しにきたんだ、うん?』
 親しげなその口ぶりと雰囲気から、二人が旧知以上の仲だということは一目瞭然だった。奈美はふいに胸がずきっと痛くなった。彼を見つめる女性の視線にいたたまれないものを感じ、やっとのことで軽く頭を下げて会釈する。
 その新参の相手は高慢とも言える視線で奈美を遠慮なく眺め回した後、またユンソクに向かって言った。
『まさか。わたし一人でこんな店に来るはずないでしょう。あなたが今日はだめだっていうから、パパとママを無理にお誘いしたのに、その理由がこれだったわけ?』
 だから、どうしてこの店に来るんだよ、と言いたげに口元をゆがめた彼の額を、その女性のきれいな指先がつついた。
『今日はわたしが先約だったはずなのにひどいと思わない? ああ、だけどここに来て正解ね。こうやって会えたんだから許してあげる。ちょうどいいわ。これからあなたも一緒にどう?』
 その会話を聞きながら、さっきホテルの廊下に立って携帯で話していたユンソクの姿が、まぶたの裏を通り過ぎた。

 ああ、何てことだろう。本当に気が利かない。やっぱり何が何でも遠慮するべきだったのに……。

 彼女があまり気乗りしないように奈美をちらりと見て、『もちろん、あなたもね』と付け足したとき、ユンソクは自分の背後をさっと振り返った。
『それじゃ社長ご夫妻もご一緒なのかい?』
 折しも開いた店の自動ドアに目を向け、入ってきた見るからに上品な年配の夫婦連れを認めると、彼は笑顔になって椅子から立ち上がった。
『おお、ユンソク君じゃないか。ミョンエが車を見るなり急にすっ飛んで行くから、何事かと思ったよ。まったくこの娘ときたら、君を見ると前後の見境なしだな』
 はっはっは、と豪快に笑いながら、その初老の紳士の視線は、次にユンソクの前で固まっていた奈美に注がれた。彼女も即座に立ち上がる。
『これは見かけない、随分きれいなお嬢さんがご一緒なのだね。ユンソク君、わしらに紹介してくれないのかな』
 彼がためらったのを感じた瞬間、奈美は反射的に顔を上げていた。
『こんばんは、社長。黒木奈美と申します。日本から来ました。お目にかかれまして、とても嬉しく思います』
『ほう、日本人……かね?』
 すらすら名乗ると、三人は驚いたようにユンソクと奈美を交互に見比べた。彼女はやっとの思いで口元に微笑を貼り付け、傍らのバッグとジャケットを取り上げた。
『はい、パク本部長の会社に今日、日本の企業から出張して来ました。少し案内していただいたんです。本部長に今夜お約束があったなんて知らなかったものですから、ついご好意に甘えてしまいまして……』
 そしてユンソクの方を向き、短く挨拶した。
『パク本部長、それじゃわたし、これで失礼します。今夜はご馳走様でした。とてもおいしかったです』
『奈美?』
『明日の朝、九時に貴社からの車をお待ちしています。ホテルには一人で帰れますから』
 それだけ言うと、その三人連れと驚いたように目を細めたユンソクに軽く頭を下げて、一人さっさと歩き出した。
『待てよ!』
 背後で叫ぶユンソクの声が聞こえたが、きっぱり無視して店を出た。店に面した通りまで来ると、折しも流れてきたタクシーを捕まえ、ただ闇雲に飛び乗っていた。



*** *** ***



 思いがけず胸に押し寄せてくる激しい痛みに支配され、頭の中まで空っぽになってしまっていた。
 すぐにホテルに帰る気もしない。走りながら『どちらまで?』と訊ねる無愛想なタクシードライバーに、考える余裕もないまま『少し行ってください』とだけ答えた。とにかくさっきの店から、そしてユンソクから遠ざかることさえできれば、どこでもかまわない。
 こんなに動揺しているなんて馬鹿みたいだ。彼には彼の生活がある。もちろんお付き合いしている良家のお嬢さんだっているに決まっている。そんなわかりきったことに、大ショックを受けている自分は、いったい何を期待していたんだろう。
 奈美は苦しそうに息を吐き出し、そっと目頭をぬぐった。

 しばらく行く宛もなく市内を走り、もう一度『こっちでいいんですかね』と聞かれたとき、にぎやかそうな繁華街の通りで適当にタクシーから降りた。
 ここはどこだろう? きょろきょろと周囲を見渡してみるが、先程と似たような雰囲気の商店が連なっているばかりで、さっぱりわからなかった。
 時刻は午後九時を過ぎたばかり。商店街のシャッターはまだ降りる気配も見えない。ショーウィンドウを飾るファッショナブルなマネキンを眺めながら、奈美は街角をゆっくりと歩いていった。
 何も考えていなかった。もう一度タクシーに乗って、宿泊先のホテルの名を言えばいつでも帰れることはわかっているから、別に慌てもしない。
 今はただ、この見知らぬどこか懐かしい街並みを存分に味わっていたかった。これがあの人の暮らす街なのだ。

 ふと屋台が目に留まった。
『オデン ひと串五〇〇ウォン』
 あら、六十円くらいじゃない。今でもすごく安いのね。
 そう思った途端、その屋台のテントの下に入っていた。
 数人の先客に混じって小銭を払い、手渡された異様に長い櫛の先に刺した熱いおでんを、ゆっくりと口に運んでみる。
 おいしい。これは日本から入ったものだわ、きっと。
 そんなことを考えていると、隣に立つ人の気配を感じた。
 顔を上げると、パク・ユンソクが息を切らせながら、怖い顔で威嚇するように立っている。
『まったく! 君は……』
「……!」
『君を見失うかと思って、ものすごく心配したんだぞ。いきなりあんなふうに飛び出す奴があるか? 罰として僕にもおごること』
 彼は早口の小声でこうまくしたてると、言葉も出せずに目を丸くしている奈美の横で、同じくおでんの櫛を取り上げ、むしゃむしゃと食べ始めた。
 屋台のおばさんが二人のために紙コップに注いでくれたおでんの熱いだし汁をすすりながら、奈美は胸の奥まで熱くなってくるのを感じていた。



*** *** ***



 タクシーでさっきの店まで戻り、それから有無を言わさず半ば連れ込まれるように、改めてユンソクの車の助手席に押し込まれてしまった。しばらく無言で車を走らせていた彼が、やがてぽつりと言った。
『さっきはどうして突然出て行ったりした? 僕が呼んだ声が聞こえなかったとは言わせないぞ』
『あの……、もしかしてわざわざ追いかけてくださったんですか? でも、いったいどうして……? ホテルくらい、わたし一人でも帰れます』
『まだそんなことを!』
 心底驚いて尋ねた奈美に一瞬目を向け、ユンソクは激しい苛立ちを押し殺すように思い切り険悪な声でこう呟くと、深く息を吐き出した。
『さっきタクシーに乗った君の後を追って、すぐさま路上でタクシーを拾った。君を見失ったらと思うと、本当に気が気じゃなかったんだぞ』
 奈美はますます目を見張って、彼の横顔を見つめた。
『そんな! それじゃ、あの方たちは? わたし、あれ以上あそこにいたらご迷惑になると思って先に。だってあのお嬢さん、あなたの……』
 恋人なんでしょう、と言いかけてはたと口をつぐんでしまった。また余計なことを……。するとユンソクがさらに皮肉な声で促した。
『続けろよ。彼女が僕の何なのか』
『……ごめんなさい。わたしにはまったく関係のないことでした』
 彼が口の中で激しく悪態をつくのが聞こえた。そして急にある角でハンドルを切ると、大通りから静かな住宅街へ続く坂道へと車を乗り入れてしまった。
 レンガ造りの教会の高い尖塔の脇を通り過ぎる。どう見てもホテルに向かっているわけではないようだ。奈美が、おそるおそるどこに行くのかと尋ねても、ユンソクは厳しい表情のまま、まっすぐ前を見て運転を続けるばかりだった。
 やがて車は滑るように、見るからに高級アパートメントの立ち並ぶ高台の区画へと入っていった……。



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07/02/12   再掲載