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『着いたよ、降りて』
 短く促され、奈美はアパートメントの薄暗い地下駐車場に降り立った。
 ここまで来てしまったら、もう抵抗しても仕方がない。黙っていっしょにエレベーターに乗り、彼の長い指が11のボタンを押すのを見ていた。
 そのまま十一階に上がり部屋のドアを開く。入った途端、自動的に玄関先の照明がついた。奈美を促しまたもやほとんど有無を言わさず奥に引き入れると、彼は広いリビングの明かりをつけた。
 派手ではないがとても落ち着いた雰囲気のよい部屋だ。天井や壁紙などの内装も、配置された家具のセンスもとてもいい。奈美は感心したようにぐるりと見回しながら尋ねた。
「ここは、あなたのお部屋なんですね?」
『そうさ。そんなに広くはないけどね。上着を脱いでそこに座っていて。何か持ってくるよ』

 どうしてこういうことになるの? ホテルに送ってくれればいいだけなのに……。

 そう聞こうかと思ったがあきらめた。彼は言い出したら決して引かない。改めてそれを思い出す。
 腹を立ててもいいはずなのに、あべこべにとても気持が浮き立ち、口元に笑みさえ浮かんでくるほどだ。奈美はジャケットを脱ぐと、それを手にリビングの座り心地のよさそうなソファーに腰を下ろした。
 壁際には大型液晶テレビやDVDコンポが置かれている。ソファーの前のローテーブルには、いくつかのリモコンと一緒にミュージックCDのケースが数枚無造作にのっていた。その一枚を手にとってみる。
 あの人、こんな曲を聴くんだわ。思わずそのラベルを脳裏に刻み込む。帰る前に探してみよう。今日の思い出に……。
 こうしてユンソクのプライベート空間に立っていると、いつになく彼が身近に感じられる。なぜか深い喜びがこみ上げてきて、自分でも戸惑うほどだ。



 しばらくして、ユンソクがソフトドリンクの入った二つのグラスを手に戻ってきた。
 見るとTシャツと洗いざらしのジーンズに着替えている。こんなに砕けた服装の彼を見るのもはじめてで、思わずどきりとする。
 彼はグラスを置くなり彼女の膝からジャケットを取り上げ、さっさと隣の部屋に持っていってしまった。あきれ顔でちょっと睨む振りをすると、いたずらっ子のように少しすねた眼を向け、ローテーブルをはさんで向かい合わせに座った。
 手渡されたグラスを無言で口に運びながら、手頃な話題はないかと考えていると、彼が先に口を開いた。

『何を考えてる?』
『す、素敵なお部屋だなって……、思ってました』
『そう? 嬉しいな』
『でも、どうしてわざわざ? 話でしたら、もうさっき十分にしましたし』
『本当にそうかい?』
 彼はまた感情を押し殺すように目を細めた。だが、問いかける声はあくまで穏やかだった。やがて呑み差しのグラスをテーブルに置くと、彼女のグラスも取り上げ、その手を片手で包み込んだ。もう片方の手は奈美の顔の線を辿り、肩先ではねた髪をそっと直してくれる。
 彼女がまた驚いたように目を見張ったのを見て、彼は苦笑した。
『もう、そんな顔しなくてもいい頃合じゃないか?』
『何の……ことでしょう?』
『ここまで来て、まだそんなふうに言うんだな……君は』
 彼はまた大きなため息をついた。
『君の心はなかなか読めないな。一年前も今もそうだ。僕に応えてくれていると思った次の瞬間、まったく反対側に身を翻す。いつも君は本当の気持を笑顔で胸の奥にしまいこんで見えなくしてしまう。いったいどうしてなんだい? 僕らの国の人間は普通、一番親しい人間にそんな態度はとらない。まして愛する相手にならなおさらだ。それとも君達日本人は皆そうなのかい?』
『え……!?』
 しばらく沈黙した後、彼は静かにこう切り出した。

『奈美……。去年の最後の夜、僕は君にとてもひどいことをしたね』

 奈美ははっとしたように目を上げて、ユンソクをまじまじと見た。彼の黒い瞳の奥には確かに痛みがあった。
 思わず握られた手を引こうとしたが、彼はいっそうしっかりとつかんで離さなかった。

『……あの夜、僕はそれからのことを君と本気で話し合いたかったんだ。君と別れるつもりは毛頭なかったからね。なのに君はいきなりあんなふうに、最初から決まりきっていたようなことを言う。それも今の今まで僕の身体の下で燃えていたとは思えないくらいクールに、いともあっさりと。僕は逆上した……。君にも自分にもめちゃくちゃ腹が立ったんだ。君がもうこれで最後だと言うなら、こちらも思う存分、君の身体を堪能してやるまでだ……。衝動的にそんなふうに思ってしまった。完全にやけになっていたのかもしれない。そして何より、君のクールな仮面を引き剥がしてやりたかった。本当の君の気持を見たかったんだ。だけど……』
 彼は、そこで言葉を切って少し辛そうに目を細めた。
『あんなふうに無理やり君を抱きながらも、結局最後の最後まで、僕には君の本心がわからなかった』

『あ、あのことは……、少しも気にしてなんかいないわ。わたし……、わたしだって……』

 思わず声をあげて否定してから、また黙ってしまった。いったいわたしは何を言おうとしているのだろう? 自分で自分の気持を量りかねているのに、どうしたら彼に答えられるの?

 ユンソクは、そのまましばらく奈美の返事を待っているようだった。だが、彼女が黙り込んでしまったのを見ると、またゆっくりと続けた。

『君と離れていたこの一年以上の間、そう、仕事中とか、ふと一人になったとき、それから夜なんかに……、僕はよく君のことを思っていた。そしてそのたびに考えていた。僕が君に会いたいと思うこの百分の一でも、今君は僕に会いたいと思ってくれているんだろうか。それともあの最後の言葉どおり、僕のことなんか、もうきれいさっぱり忘れてしまったんだろうか、ってね。君の方はどうだったんだろうか?』
『そ、そんな……』
 心臓がどきどきと、ものすごい音を立てて打ち始めた。否定しようとしてまた言葉に詰まる。正直に言えば、彼を忘れたことなど一瞬たりともなかった。いつも恋しくて心にぽっかりと穴が開いたように空虚だった。だが、今素直に心のうちをさらけ出したら、いったいどうなるというのだろう。

 彼は返事を待っているようにじっと黙っていた。沈黙に耐え切れなくなり、おそるおそる目を上げると、誠実な真剣そのものの瞳とぶつかった。じっと自分を見つめるその眼を見ているうちに、この一年間味わってきた様々な思いが、心の中にまざまざとよみがえってくるのを感じた。夜寝床に入ってから、彼が恋しくてどれだけ涙で枕をぬらしたことか。
 もうこれ以上、自分も彼もごまかすべきではない。彼はこんなにも、まっすぐにわたしに向かってくれている。こんな取るに足りない一人の異国の女に……。せめて、今このときくらいは、勇気を出して率直にならなくては。
 奈美はついにこう答えていた。
『あなたを忘れたことなんて一度もないわ。わたしもとてもあなたが恋しかった。会いたくて会いたくて、どうにかなってしまいそうなくらいだったわ』

 彼の手がローテーブルを脇に押しやり、彼女の腕を引っ張ってゆっくりと自分の方に引き寄せた。
 気がつくと奈美は彼のひざの上に横座りに座っていた。彼の片方の手が彼女の顎を持ち上げ、今の言葉が真実かを確かめるようにその表情を覗き込む。
 次の瞬間、彼の両腕が彼女をかき抱いた。骨が砕けるのではないかと思うほどきつく抱き締められ、そのまま激しく唇が重なる。幾度も夢に見たとおりの、いや、それ以上に激しい抱擁にくらくらしながら、奈美は夢中で彼の首に腕を回してキスに応えていた。
 あっという間に抱き上げられ、寝室に運ばれていった。もう一瞬たりとも待てない。そんな気持をはっきり表すように唇をしっかりと重ねたままで……。
 彼女も思いは同じだった。二人して寝室の大きなベッドに倒れ込むなり、さらにむさぼるようにキスを繰り返し、お互いの服を引き剥がすように脱がせ合った。待ち焦がれていた二つの震える身体が出会ったとき、もう離れることなどできなくなってしまった……。



*** *** ***



 二重窓のガラス越しに、ぼんやりと夜半の月の輪郭が映っている。
 いつの間にかまどろんでいたらしい……。身じろぎして身体を起こしかけたとき、ベッド脇の常夜灯が点いた。ユンソクが黙って彼女を見つめている。

『ホテルに帰らないといけないわ。もうこんな時間だなんて……』
 ベッドの下に衣類と一緒に投げ出されていた携帯電話を拾い上げ、奈美はけだるく呟いた。途端にユンソクはそれを拒絶するように彼女に腕を回すと、ぐっと引き戻した。
『君って人は……、こうなった今でもまだそんなふうに、僕から離れていくつもり?』
『離れるも離れないもないわ……。だって、どうせ今夜だけなのよ。明日、わたしは日本に帰らなくちゃならないのに』
『帰らなければいい』
『まさか!』
『……本気だって言ったら、どうする?』
『ど、どういう意味? そんなことできるわけが……』
 彼の声に感じる何かに、奈美は思わず鋭く問い返した。だがその結果、彼女の身体を抱き寄せる腕にいっそう力がこもっただけだった。
『僕らの話はまだ終わっていない。頼むからもう少しここにいてくれ。後で必ずホテルに送っていく』
『いっそ、あの部屋に連れて帰ってくれればよかったんじゃない? 借りた部屋代がもったいないもの』
 無理に冗談めかしてこう言うと、彼も少しほぐれたようだ。
『同感。いっそ君の部屋は借りなければよかったな』

 失った時間を取り戻そうとするかのように、長い間激しく熱烈に愛し合った後、精根尽き果ててその胸に抱かれていながら、どうしたら彼の懇願に逆らえるだろう。
 少なくとも、今の奈美には到底できなかった。あきらめたように再び力を抜いてもたれかかった身体を抱き締めたまま、ユンソクは彼女の耳元に唇を近付け低い声で言った。
『本当はあの最後の夜、僕は君にこう言いたかったんだ。僕とこの国に来て、いっしょに暮らしてほしいってね』
 奈美の肩が、衝撃を受けたように大きく揺れた。その滑らかな曲線を彼の手がなだめるように優しく撫でる。
『そ、そんなこと、どうしたらできるのか……わからないわ』
 驚きのあまり、奈美は寝返りを打って彼に向き合った。その真摯な言葉には強く心動かされたが、提案に応えるにはまだまだ迷いもためらいも不安もあり過ぎる。
 あまりにも重大な決断で、とても即答できるとは思えなかった。
『大変だということは、もちろんわかっている。だが、できないことじゃないはずだ。君はすでに留学で一度経験しているんだし……。それともここで暮らすのはもう嫌かい? 君にとって、日本を離れるのはそんなに難しいこと?』
『簡単に言わないでよ!』
『奈美……』
『だ、だってそうじゃない? あなたにだって、あなたの暮らしがあるでしょう? コリアデジタルグループ会長のご令息としての……よ。そんなの、きっとわたしには想像もつかないような世界に違いないもの!』

 とうとう叫ぶようにこう言ってしまったとき、ユンソクの身体が緊張したのがわかった。はっとしたように奈美の顎に手をかけ、探るように瞳の中を覗き込んでくる。

 やがて、彼はポツリと呟いた。
『まだ怒ってる? それを君に黙っていたこと……』
 奈美は脱力感を覚え、力なく頭を振った。
『いいえ。わたしもその方がよかったと思ってるわ……』
 ああ、この人が愛しくて胸が苦しい。どうしてこんなふうに二人の糸がもつれているんだろう。
 思わず手を伸ばして彼の頬に触れながら、自分にも言い聞かせるように、でもね……、と続けた。
『あなたと一緒に暮らすって……、それはあなたが言うほど、簡単に行くとは思えない。あなたが住む世界はきっと、わたしなんかとは全然違うんじゃないかしら。それに、わたしも同じなの。ささやかだけど仕事もあるし、いろいろなお付き合いだってあるわ。もちろん、あなたよりはずっと、小さくて取るに足りないものでしょうけど』
『……随分あっさり言ってくれるんだな。それじゃ君はどうしたいんだい? まさか、またこれっきり、とか言い出すつもりじゃないだろうね?』
 表面は穏やかだが、奥に泡立つ緊張を隠しきれない声音……。奈美はさらになだめるように表情を和らげた。
『ユンソクさん、お願い、そんな顔しないで。お互いに地に足のついた現実の中で生活しているんだもの。あなただって、さっきのお嬢さんが……』
 ふいに眉をひそめ、彼は彼女の言葉を遮った。
『まだ誤解があるなら先に言っておくけど、彼女は単なる女友達に過ぎない。取引先の会社の社長の娘だよ。はっきり言うけど今僕には誰もいない。そんなことは当然だ。君の方こそ日本に誰かいるの? だとしたら聞き捨てならないね。君の上司からは、今君にどうという相手はいないと聞いていたが……』
『それ、どういう意味?』
 鋭く聞き返すと、彼は一瞬目を伏せ皮肉な微笑を浮かべた。
『……参った、どうやら墓穴を掘ったみたいだな』
『まさか、部長と何か……?』
『……そう。君の上司に、電話で折に触れて君の消息を聞いていた。君はどうして今回、この企画に抜擢されたと思っていた?』
『そ、そんなまさか……。だって、ハングルの通訳を、と言われたから』
 その言葉にショックを受け、今度こそ身を起こした彼女の肩を、同じく起き上がった彼の大きな両手がしっかりと押さえつけた。
『もちろん君の実力じゃないとは言っていないよ。ただ、これがちょうどいい機会だったのは否定しない。前から話があったこのプロジェクトに、僕がゴーサインを出した理由の一つでもある』
 彼はまるで自嘲するように、かすかな笑い声を上げた。
『時々、君に会いたくて気が変になりそうになることがあった……。その一方で、馬鹿げた君への執着はさっさと捨てろ、と叫んでいる自分もいた。もう一度日本に行ってみようと思ったよ。それこそ何度もね。だが僕のプライドが許さなかった。だから、自分なりに結論を出したんだ。今度は君をここに来させてやろう。そしてもう一度君に会ったとき自分がどう感じるか、それで決めよう、とね』
 声が次第にかすれ、ついにほとんど聞き取れないほど低くなった。
『そして今日、空港で君に会ってみて……』
 言葉はそこで途切れた。不安そうに目を上げた途端、自分を見つめる黒く燃えるような眼差しに絡め取られた。
 それ以上は何も言わずに、ユンソクはもう一度熱く唇を重ねてきた……。



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06/02/13  再掲載