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〜〜  side  パク・ユンソク  〜〜


前  編


− Tokyo −

 タラップから降り立つと、空港の剥き出しのコンクリートに初夏の日差しが降り注いでいた。多湿のせいか、韓国よりも少し蒸し暑く感じられる。
 初めての日本だ。とにかく有効に貪欲に過ごそうと決めていた。学生時代から日本語を学びながら、ずっと親しく訪れ触れてみたいと思いつつ、なかなか叶わなかった国。
 28歳になり、コリアデジタル・グループからのこの初の海外研修でそれが叶うとは、まったく運がいい。


 空港に、日本の会社から迎えが来ると聞いていた。
 ターミナルに入ると周囲の会話が日本語に変る。日本に来たのだとさらに実感が湧いてくる。
 入国審査を済ませスーツケースを引いて外に出た。人待ち顔の大勢に混じって、ゲート付近に立っている一人の女性が目にとまる。

 ……これはいい女だな。

 彼女を見た瞬間そう思った。24、5歳くらいか? 自分よりもいくつか下だろう。
 ごく平凡なオフィス用の黒っぽいタイトスーツという目立たない服装なのに、彼女はどこか違っていた。すらりとした女性的なスタイルから、優しい上品な顔立ちにもかかわらず、芯の強そうな大きな瞳まで。

 彼女も誰かを待っているらしい。真剣な顔でゲートが開くたびに出てくる人をじっと見つめている。自分の迎えを探すのも忘れ、彼女を眺めているうちに、その胸元のネームプレートが目に留まった。

 【ジャパンエレクトロニクス株式会社 ・総務部  黒木奈美 】

 これは、幸先がよさそうだ……。



*** *** ***



「それじゃあなたが、パク・ユンソクさん……ですか? コリアデジタル・グループからお越しの……」
 すっと近付いて日本語で声をかけてみると、彼女はいかにも驚いた、というように僕の名を口にした。やはりそうだった。
 語学院で勉強していたときにも日本人と話した経験はあるが、本場日本で使うのは初めてだ。自分の日本語がすんなり通じたのが嬉しかった。彼女は初めぽかんとこちらを見上げ、ついでじろじろと品定めするように眺めていたが、やがてくすくす笑い出してしまった。
 どうやらチェックにパスしたようだ。そう思った途端つい余計なセリフが口をつき、睨まれてしまう。
 改めて互いに自己紹介をしながら、彼女の車に同乗する。黒木奈美、と言う名も気に入った。発音しやすい名前だ。


 東京は、ソウルより数倍大きく見えた。豊かさを示す街通りと彼女の優しい横顔を交互に見比べながら、思いつくまま色々尋ねてみる。
 運転しながらてきぱき応えているのに、耳に優しく響いてくるのは彼女の落ち着いた滑らかなアルトの声のおかげだろうか。
 この人がハングルを話せるとは、ダブルでラッキーだ。

 そう。最初、彼女のことは、単なる好奇心で見ていただけのはずだった……。


*** *** ***



 研修の期間中、会社内の会議や経済界の関係者と懇談する傍ら、空いた時間は出来る限り、都内の施設や名所、デパートから有名通りまで見て回ることにした。
 彼女が案内役としてドライバーも引き受けてくれたので、必然的に行動を共にすることになる。
 会って二日目には、面倒な苗字をやめて名前で呼びかけることにした。気まぐれとも取られかねない突然の思いつきや呼び出しも多かったが、彼女は割合、従順についてきてくれた。
 次第に、実に仕事熱心な真面目な人だとわかってくる。
 つい、からかいたくなって『奈美さん!』と用もないのに呼びかけ、振り向いた彼女に韓国のジョークでごまかすと、「ふっ」と鼻先であしらわれたりした。こういう反応は可愛いとは言い難い。
 だがそれでいて、たおやかな雰囲気を併せ持っている。やはり自国の女性とは違うな、と思った。


 六月も近くなると、日本は初夏まっ盛りになる。それこそ、外に出るだけで汗ばんでしまうほどだ。
 にもかかわらず、彼女は仕事中は大抵、堅物秘書のようなパンツスーツかタイトスーツ・スタイルだった。
 ある午後の懇談の後、車の中でスーツのジャケットを脱ぎながら、
『ちょっと暑くないか? 君も脱いだらいいのに……』と彼女のジャケットに手をかけたところ、ぴしゃりと手を叩かれてしまった。
 あなたに悪気がないのはわかるけれど、女にそれはマナー違反だ、と母親のように説教される。それは確かにそうかもしれない。殊勝に頷きつつも、しっかり彼女の胸元に目が行ってしまい、また睨まれた。
 たとえスーツで身を固めていても、ストレートの黒髪をいつも大きなバレッタで一まとめにして機能的にみせているせいで、彼女の白いうなじが嫌でも目に入る。
 きめ細かい肌と漂う仄かな甘い香りに、こちらがぞくぞくしているとは、思ってもみないのだろう。



 彼女のプライベートがやたらと気にかかってきた。独身らしいが、付き合っている男はいるだろうか。
 移動の車中でそう尋ねると、プッと噴き出されてしまった。
「それはご想像にお任せしますよ」
 ならばいないと思うことにして、見学にかこつけ浅草からお台場あたりまで、観光スポットもせいぜい引っ張りまわす。

 夕食を共にしながら、体よくデートを楽しんだ。彼女がまったく自覚していないのも微笑ましい。だが、時の経過と共に、次第にそんな彼女に苛立ちを感じるようになった。
 日本人は勤勉だと聞いてはいたが、それを絵に描いたような女性だな、と皮肉に思ったりする。こちらの個人的興味に全く気付かないのか、あるいは気付いても関心すら持たれていないのか……?
 そんな馬鹿な! と腹立ち紛れに呟いてから、その思考の愚かしさに苦笑してしまう。
 まったく、こんな気持になったのは、中学の頃以来だ。夜、バーで一人酒を飲んでいれば、いや、銀座や六本木をただ歩いていてさえ、女達が挑発的な姿態で近付いてくるというのに……。
 だが、彼女だけはいくら傍にいても、よくあるような誘いのそぶりも見せず、ひたすら『案内役』に徹していた。ため息が出るほど、寸分の狂いもなく。

 そういう彼女の全てが、僕の炎をあれほどあおったのかもしれない……。



*** *** ***



 そのままいけば、二人の関係は純粋に楽しかった思い出、で終わるはずだった。
 だが、運命は時に皮肉な方向へ人を導くこともあるものだ。


 いよいよ帰国まであと数日になったある夕べ。有力企業主催のパーティに出席することが急きょ決まった。
 当然同伴するものと思っていると、彼女が珍しく断わってくる。
『準備ができないんですよね、本当にごめんなさい』
 申し訳なさそうに応える彼女を引っ張って、一流ブティックに案内させた。ドレスがないなら買えばいい。そう言うと、ひどく驚いた顔で片手を顔の前でぶんぶん振っている。
 もう無視してさっさと入った。なかなか趣味がよさそうな店だ。彼女がどう変るのか、純粋に興味があるだけだ。そう自分に言い聞かせながら、必要なものを片端から整えさせていく。
 それは、自分でも説明のつかない強い衝動だった。金がいくらかかろうが構わない、とさえ思えたほど。

 胸元と背中に優雅なドレープの入った、淡いローズカラーのシルクのイブニング。女らしさを最大限に引き出すようにデザインされたそれを身につけて出てきた彼女は、いつになく恥ずかしそうに頬を染め、僕に向かってそっと微笑みかけた。
 その瞬間、身体の中で何かが弾け飛んだ。股間を強烈な痛みが直撃する。それでも目の前に立つ女性から目を逸らすことさえできなかった。

 欲しい。

 ふいに襲われた原始的で強烈な欲望に、眩暈すら覚えていた。
 彼女が全く気付いていないのが、救いだった。

 そのパーティで、さらに数人の日本経済界の有力者と懇意になる機会を得た。実務面では、この研修は総じて上出来と言えるだろう。
 だが懇談の合間も、いつも眼の端で彼女を見つめていた。周囲の男達の視線がやけに気にかかり、できる限り自分の傍から離さなかった。彼女は文字通りあでやかな薔薇のようだ。朝露を抱いて、匂うばかりに咲いている。



 ホテルに戻った後、気分が悪い、と言いながら彼女を部屋に誘ってみた。案の定、心配そうな顔で律儀に付いてきてくれる。
 とうとう彼女がこちらの意図に気付いたとき、手折りたくてたまらなかった華を、出来る限り優しく腕の中に引き寄せてみた。
『これもマナー違反になるかもしれないな。それとも君も認めてくれる?』
 いつかの彼女の言葉を思い出し、からかうように尋ねる声もかすれて震えた。信じられないほど緊張していた。
 彼女はひどく困った顔をした。だがためらったあと、無言で僅かに微笑んだ。それを同意と見なし、抱き上げてベッドルームへ運んでいく。
 ローズ色のドレスを丁寧に脱がせながら、露になっていく白い肌のいたるところに口付け、秘蔵のワインを味わうソムリエのようにゆっくりと味わっていった。その芳醇さに酔いしれるうち、自制のタガが完全に消し飛んでいた。
 とうとう我を忘れるほどのめりこんだ挙句、これまでどの女にも言ったことのなかった言葉が、意識するより先に口からほとばしっていた……。



 こんなふうになったのは初めてだ。
 戸惑いながらも、これをただの刹那的な関係で終わらせたくない、と真剣に考えている自分に気付く……。
 仕事上の立場や互いの事情も考えてみろ、と何度も自分に言い聞かせてみる。この女性と深い関係になったことだけでも、社内に明るみに出れば充分厄介事の種なのだから……。

 だが、帰国が近づくにつれ、説明すらつかないその衝動はいっそう胸を吹き荒れて、ついに肝心の業務さえなおざりになるほど縛られていた。
 彼女の方は、表面的にはいたって明るく落ち着いていて、恋人になる前も後もことさら態度に変化は見られない。
 それがまた無性に癪に障り、ほとんど朝まで一緒に過ごすプライベートタイムがいっそう濃密さを増した。腕の中で身悶えしながら懇願し、最後に昏倒するように眠りに落ちる、そんな彼女をずっと見ていたかった。
 そのときだけは、彼女も完全に無防備になり、日頃見せているどんな表情よりも、素の彼女に近くなるように思えた。

 今後のことを話し合いたかった。彼女にもその気があればこそ、自分に身を任せたのだと、信じて疑わなかった。
 帰国の前夜、愛し合った後に彼女の方からあんなふうに言い出すまでは……。



*** *** ***



『それだけだったのか? 君にとって今までのことは?』
 声がかすれた。自分の耳を疑っていた。
 たった今絶頂に達したばかりのベッドで、プロポーズしようとした矢先、女の方からいともあっさりと別れを告げられる……。
 これ以上始末に負えないことはない。それはまさに想像を絶する負のエネルギーを体内に生み出した。行き場を失った激しい情念はゆがんだ渇望に変り、凶暴なまでの衝動へと瞬時に変化する。
 彼女のあげた驚きの声も抵抗も一切をねじ伏せ、彼女をベッドに押さえつけると、再びのしかかっていった。身体を開かせ、文字通り力づくで分け入る。
 たった今受けた衝撃が薄らぎ、完全に己が肉体が満足しきるまで、彼女の事情など一切斟酌することなく、果てしない行為を繰り返した……。
 彼女がその謎めいた心の奥を、目の前にさらけ出すまで何度でも……。

 半ば狂ったような時間の果て、ようやく身体を起こしたとき、彼女は精根尽き果てたというように、ただぐったりと横たわり、目を閉じて泣いていた。
 声も立てずに流している涙を目にし、頭を殴られたよりも強い衝撃を受ける。

 今何をした? これではまるで……レイプだ……。

 泣き続ける彼女に声をかけることさえできなかった。怒りとやり切れなさとが、鋭い刃のように胸を刺し貫く。
 とにかく服を身につけると、急いで部屋を出た。
 外を歩き回り、夜の外気にあたっているうち、次第に頭が冷えてきても、目の前にかかった濃い霧は一向に晴れそうもなかった。夜明け方、再び部屋に戻ったとき、彼女の姿はすでに跡形もなかった。
 すぐ様、ホテルをチェックアウトし、空港に向かっていた。



 終わった……。何もかも。

 日本滞在の日々の果て、残されたものは、強烈な虚脱感と苦さ、そしてとうに終局を迎えたにも関わらず、なおも心臓をたまらなく刺し続ける、焼けるような恋慕の情だけだった。
 とってつけようとする百もの理屈を越えて、それは昼夜の別なく予告なしに顔を覗かせ、彼女の面影を目の前にちらつかせていくことになった……。



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12/01/05  再掲