PAGE 10
そう言い捨てるなり、彼女の内にいた彼自身が、ゆるやかに律動を刻み始めた。はっとして身を強張らせると、「体から力を抜いて」と促される。
流れるように、あるいは強く楔を打ち込むように、緩急をつけながら行為は果てしなく続いた。アビーの意思とは裏腹に、身体は容赦なく高められ、閉じた彼女の目から、とうとう涙が伝い落ち始める。
「オモルフィ イネカ(美しい人)、アガーピ ムー(マイラブ)……」
アビーには意味のわからないギリシャ語の囁きとともに、ふいに唇が優しく重ねられた。同時に力づくだった彼の動きが止まった。
今度は、二人が一つになった最も親密な部分に指を這わせ始めたので、またびくりと身じろいでしまう。それから彼女がすすり泣くまで、彼は丹念な愛撫を止めず、ついに目もくらむような恍惚感で、全身がさざなみ立ってくる。噛み締めていた唇から甲高い叫びがこぼれた。
妻の身体が硬直し、ついでぐったりと力が抜け落ちるのを見て、ディミトリスはようやく満足したように身体を離した。
だが、ほっとしたのも束の間、今度は隣に横たわると、すでに汗ばんでいる身体にぴったりと彼女を抱き寄せ、唇と舌と指で、顔から順に、昨夜以上に濃密な愛撫を加え始める。
これ以上、絶対に応えてはだめ……。
そう自分に言い聞かせるが、いつしか気の遠くなるような悦びの波に襲われ、嗚咽するようにむせび泣くばかりだった。
それでもなお、彼の唇は我が物顔に襲い掛かっては白い肌を味わい、さらに敏感な場所を発見しては弄び続ける。次第にたまらなくなって、意思とは裏腹に両腕を彼の首に回し、自分から夫にすがりついていた。
それはまさに男と女の闘いだった。だが夫に対抗するには、アビーには知識も経験もなさ過ぎた。所詮勝ち目などあるはずもない。
彼女の反応を計るように覗き込んでいた目が、潤んで開いたブルーグリーンの瞳をしっかりと捉えた。待っていたように、口元に皮肉な微笑が浮かぶ。
「そろそろ限界だろう? もう一度僕が欲しいか、マティア・ムー?」
「え、ええ……、いいえ」
「どっちなんだい?」
かすれた甘い声の誘惑に、たまらなくなってとうとう激しく答えてしまった。心得たとばかりに彼が再び彼女の腰を持ち上げ、滑らかに入ってくる。
二度目に奥深く彼を迎え入れた瞬間、アビーは激しく達した。さっきよりも一層激しい衝撃とともに、全身が浮き上がるような感覚を覚え、気が付くと夢中で夫にしがみつき、その名を叫んでいた。
「ああっ、ディミトリス! トリス!」
「そうだ、もっと僕の名前を呼ぶんだ!」
ディミトリスは勝ち誇ったように動き続け、一層激しい愛の渦の中に、容赦なく彼女を引きずり込み、溺れさせていった。
*** *** ***
『昼間は従順で美しい理想的な妻、夜は情熱の恋人』……。
それから彼は、まさにこの言葉どおりにアビーを扱った。
マダム・クリスタコスが二日ほどで、気紛れに飽きたように帰ってしまうと、今度は夫がアビーを連れて外出するようになった。
多忙なディミトリスは自家用ヘリでアテネに頻繁に赴いていたし、さらに近隣国企業や投資先との取引で国外に出る機会も多かった。
彼は妻となったアビーに美しいドレスやスーツ、それに合うジュエリーを買い与えては連れ回し、要人とのパーティやディナーに同伴させるようになった。
その様子はすぐ様、雑誌や新聞、インターネットに流れ始め、
『現代のシンデレラ、ディミトリス・クリスタコス夫人はイギリス生まれのチャーミングな妖精』
などと、ご丁寧に写真付きで書き立てられる。
最初のうちは、妻として紹介されることにすら抵抗を覚えたし、終始気を張っているせいで、ひどく疲れもした。
それでも何度かこなして次第に慣れてくると、表向きはそつなく優雅に微笑み、大物相手の商談でも、何とか接待役が勤まるようになってくる。
人前ではそれこそ『チャーミングなクリスタコス家の花嫁』として、いつも微笑の仮面をかぶっているようなものだった。
ディミトリスもそんな彼女に満足しているように見えた。そもそも一日の半分以上、会議や取引の現場に出ていて、くつろいだ二人きりの時間を過ごすこともない……。
夜になるとその関係はまた一変した。ホテルやペントハウスの部屋に入り、良き妻を演じる必要がなくなると、彼女は夫に対し、大抵素っ気無く振舞った。彼の方も何を考えているのかよくわからない態度を取っている。
だがベッドに入ると、夫はいつも乱暴なほど激しく彼女を求めてきた。セックスに関しても、彼は飽くことを知らないようだった。複雑な感情とは裏腹に、アビーの身体は激しい悦びを知れば知るほど、夫から愛されることを待ち望むようになっていた。
そうなればなるほど、心は自己嫌悪にさいなまれる。時には一晩に何度も、容赦のない力と技巧に屈しながら、朝目覚めると、まるで娼婦になったような惨めな思いに駆られることもあった……。
*** *** ***
日差しの中、島の入り江に、一艘の小型貨物船が着いたのが見えた。
アビーがこの島に連れてこられてから、すでにひと月以上が過ぎ去っていた。夏の早いギリシャでは、すでにバカンスの季節を迎えはじめている。
だが、ディミトリスは週初めに一人で出かけたまま、数日間戻ってきていなかった。照り付ける日差しの中、けだるい疲労感に包まれ何もする気になれず、テラスに出した椅子でぼんやりしていた時だった。
「奥様に、お届け物でございますよ」
ふいにダニエラの声がした。振り向くと、美しくリボンをかけられた帽子箱らしきものを手にしている。
「どなたからかしら?」
心当たりなどなかった。持ってきたのは、小型船で荷物を引き受けては小さな島々を回っている業者だという。
もしかすると、ディミトリスが? 内心、どきりとしながら箱を開けてみる。
その中身を見た途端、アビーはぎょっとして箱ごと床に払い落としてしまった。乾いた音を立てて地面に落ちたのは、無残に羽と四肢をばらばらにされた白鳩の死骸だった。白い羽がどす黒い血に染まっている。
ダニエラが大声を張り上げて、誰か来て、と叫んだので、男が二人、菜園から跳ぶように駆けつけてきた。
「お、奥様……、申し訳ございません、大丈夫ですか」
駆けつけた男達がすぐ様、それを片付けた後も、ダニエラはまだおろおろしていた。
「これまで、こんなことは一度もなかったのですが……」
ショックが和らぎ、少し落ち着いてくると、今の今まで忘れていたあの黒猫の死骸のことがよみがえってきて、さらにぞっとする。
「そう……、今まで何もなかったのなら、わたしへの嫌がらせなのかも知れないわね」
「そんな! 何かお心当たりでも……?」
「わからないわ。……わたしのことを嫌っている誰かじゃないかしら」
淡々と応じながら、ふとティラ島で会ったフィリスの顔を思い出したが、根拠は何もない、と頭を横に振る。
青い顔でふらりと立ち上がったはずみに、嘔き気がこみ上げてきた。口元を押さえ、化粧ルームに駆け込むと吐いてしまう。
「大丈夫でございますか? ドクターをお呼びしましょうか」
「少し横になっていれば平気よ、ありがとう」
寝室まで付き添ってくれたダニエラに、アビーはもう大丈夫だから、と小さく微笑んで見せた。
嫌な印象がようやく薄らいだその翌日の午後、ダニエラが再び含みのある表情で電話を取り次いだ。
「奥様に、国際電話でございます」
一瞬びくっとした。だが、気を取り直してサロンに入っていく。どうもあれ以来、少し神経過敏になっているのかもしれない。今度は誰だろう……。
だが、取り上げた受話器から聞こえてきたのは、予想外のひどく懐かしい声だった。
「アビー? 久し振りだね。元気に過ごしているかい?」
「アンソニー・パウエル! まぁ、本当にトニーなの? どうやってこの番号がわかったの?」
イギリスの会社の同僚の声に、たちまち緊張が解け、思わず涙声になってしまう。
「君のお父さんから聞いたんだ。電撃的に結婚したそうだね。最初は信じられなかったよ。相手はギリシャの大金持ちだって? 現代のシンデレラ・ストーリーだと新聞に書かれているのを見たよ」
とてもさびしそうな声に、返事に詰まった。
「詳しくは言えないけれど、そんなんじゃないのよ……。でも、トニー、わたしを忘れないでいてくれて、本当にありがとう。あなたとこうして話ができて、今どんなに嬉しいか、わかる?」
「まさか。君のことを簡単に忘れられるはずがないだろう? どうしたの、アビー? 泣いてるのかい?」
電話の向こうで驚いたように声が高くなった。すすり泣いていることに気付かれてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい……。声を聞いたら、とても懐かしくなって、つい……」
「アビー……、今、本当に幸せ?」
ひどく疑わしそうに問われ、慌てて元気そうに取り繕う。
「ええ、もちろんよ……」
また少し沈黙があり、彼がせいたように言った。
「やっぱり思い切って電話してよかったよ。 実は今、アテネに行こうとしているんだ。君にどうしても会いたくてね」
「本当に? 本当にアテネに来れるの?」
驚いて問い返す。
「君のお父さんから話を聞いて、数日休暇をもらったんだ」
「ああ、トニー……」
「明日には行けるよ。よければ午後からでも、ホテルに会いに来て欲しい。待っているから」
「必ず行くわ!」
トニーがホテル名と電話番号を告げて、通話が切れると、アビーは頭の中でめまぐるしく考え始めた。
明日、一人でアテネまで行けるだろうか。わたしには船も飛行機もないのに、どうやって……?
----------------------------------------------------------
12/10/10 更新