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PAGE 11



 でも、わたしは彼の妻であって奴隷ではない。
 もうそろそろ、一人で出かけてもいいはずだ。

 そう考えたとき、衝動的にベルを押し、ダニエラを呼んでいた。サロンのドアが開くや、性急に言う。
「明日のお昼前に、アテネに出かけたいの。ヘリか高速艇の手配をお願いできないかしら?」
 びっくりしたように、ダニエラが首を横に振った。
「旦那様のお許しが出ませんことには」
「それじゃ、わたしが旦那様に直接電話します!」
 そう言い張ると、そのままディミトリスの携帯に電話していた。数回のコールでつながった。

「君から電話とは珍しいな、いったいどうした?」
 深みのある声がからかうような響きを帯びている。どきりとしながらも、懸命に何気なさを装った。
「あなたは、まだ長くそちらにいらっしゃるつもり?」
「あと少しで一段落する。そうしたら戻れるよ。さびしいのかい?」
「いいえ、ただ、死にそうに退屈なだけよ……。それで、少しお願いがあるの。わたしをアテネまで連れて行ってくれる、船がヘリをお借りできないかしら? この小さな島から出て、たまには自由にショッピングでもしてみたいわ。閉じ込められているのはもうたくさん! 気が変になりそう!」

 わざとオーバーに訴えかけると、彼は僅かに沈黙した後、短く尋ねた。

「別に、閉じ込めておくつもりはない。それで、アテネに来たい訳か? いつだ?」
「気晴らしに、明日一日でもいいの。もちろん、そちらに着いたらわたし一人で大丈夫。あなたにご迷惑はかけないと約束するわ」
「わかった。では明日、君の希望する時間にヘリを飛ばせるよう、連絡しておこう」

 成功したわ、よかった!
 心からほっとして、明るい声で礼を言うと、電話は切れた。

 その夜は、興奮してなかなか寝付かれなかった。ベッドの中で、かつてのトニーとの懐かしい思い出を辿ってみる。彼への思いは恋ではなかった。友愛とでも呼べるものだったのだと今になって理解できる。
 では……、ディミトリスのことはどうなのだろう。だが、夫のことを考え始めると、アビーの感情はいつも堅い壁に突き当たってしまう。第一、彼がわたしに求めているのは、理想的な妻としての役割と、この身体だけなのだ。
 先の夜々のことを思い出し、頬がかぁっと熱くなった。思わずシーツを頭までかぶり、すでに全身に焼きつけられている彼の記憶を何とか締め出そうと、必死になって目を閉じる。

 彼にそれ以上の何かを期待しても無駄だと、わかっている。債務に対する人的保証の意味しか持たない妻に、夫の何を求めることができると言うのだろう……。


*** *** ***


 翌朝、食事を終えたアビーに、ダニエラが微妙な顔つきで、旦那様の御指示がありましたので、ご希望の時間にヘリが出せます、と告げた。
 にっこり頷くと急いで自室に戻り、身支度を整える。

 少し風のある日だったが、ヘリはエーゲ海を軽く越えて、いつも彼が使っているアテネ市郊外のエアポートに降り立った。すぐに迎えの車が来るそうですが、と言いかけたパイロットに手を振って断ると、感謝をこめて微笑んだ。
「わたしのわがままに、そんなに皆さんを付き合わせることはできないわ。ここまで来れば、もう一人で大丈夫よ。本当にありがとう!」
 さらに、帰りは旦那様に連絡するから、待っていなくても構わない、と言うと、パイロットも納得したように送り出してくれた。


 一人になるや、アビーは公衆電話にとびつき、トニーに連絡を入れた。電話の向こうからはずんだ声が聞こえ、嬉しくなる。
 タクシーに乗って、トニーの泊まっているホテル名と住所を告げてしまうとほっとした。意外に簡単だったわね……。

 遠くに、アクロポリスのパルテノン神殿が初夏の日差しを浴びて荘厳に建っている。
 アテネには、ディミトリスの会合のお供で何度か来ていた。中心街の大通りをしばらく走ると、夫から渡されていたカードで支払いタクシーを降りた。ホテルはすぐに見つかった。
 トニーはロビーのソファに座って待っていた。アビーが急いで近付くと、声をあげて立ち上がり、飛びついてきた彼女を両手でしっかりと抱きとめた。

「アビー、とても会いたかったよ。君が他の男と結婚したなんて、すぐには信じられなかったくらいだ……。どうしても君に直に会って、話したかったんだ」
「わたしも、あなたに直接会って謝りたかったの。裏切るようなことをして、本当にごめんなさい……。でも、もう状況は何もかも変わってしまったわ。わたしはもう、ディミトリス・クリスタコスの妻ですもの……」
 そう。たとえ、夫から全く愛されていなくても。

 トニーはアビーの顔をじっと見ていたが、やがて抱擁をとくと、彼女が何げなく着ている高級ブランドスーツに目を移し、深いため息をついた。
「急な話だったらしいけど、後悔してはいないのかい?」
「ええ、それは……」
「なら、いいんだが」
 彼は仕方ないな、と言うようにため息をつくと、アビーの隣にゆっくりと腰を落ち着け、彼女の手を強く握り締めた。そのとき、急にはっとしたように声を上げる。
「どうしたんだい? 泣いているじゃないか? やっぱり何か辛いことがあるんじゃ……」
 トニーに言われるまで、涙がこぼれていることに気付かなかった。アビーは慌てて指先で目元をぬぐい、力なく首を振った。
「あなたはいつも優しいのね、トニー。こんなときでも……」
 懐かしい彼の優しさに触れ、とうとう心の中で張り詰めていたものがぷつんと切れてしまったようだった。ギリシャに来てからというもの、色々なことがありすぎて、緊張の連続だったような気がする。
 とうとう我慢できなくなって、アビーは彼の胸に顔を隠すようにして嗚咽し始めた。震える肩を、トニーが再びぎゅっと抱き締める。

「アビー、いいんだ。僕でよければ、何でも話してくれよ」
「いいえ、ただ……、嬉しいの。一方的にお別れのメッセージだけを送ったわたしのために、こんな遠くまで来てくれるなんて……」

 トニーはしばらくの間、すすり泣く彼女の背をさすってくれていたが、やがて再びアビーの顔を心配そうに覗き込んだ。
「なら、どうしてまだ泣いているんだい? よければ僕の部屋へ行かないか? もっとゆっくり話を……」

 トニーが彼女の身体を抱えるようにして、そう言った時だった。

 ホテルのガラス張りの自動ドアの向こうに、一台のリムジンが停車したのが見えた。すぐに自動ドアが左右に開き、サングラスにスーツ姿の背の高い黒髪の男が、足早にロビーに入ってきた。
 男の姿が視界に入るや、トニーの腕の中で、アビーの全身が激しくこわばった。

 ディミトリス!
 
 濡れたブルーグリーンの瞳に、強い衝撃と動揺が走った。トニーもはっと気が付いたように振り向いて、たった今入ってきた男を睨みつける。

 二人が彼に気が付いたのとほとんど同時に、抱き合うように立っていた二人に、低い声がかかった。

「僕の妻から離れてもらおうか」

 その声は抑制されてはいたが、それだけに抑えた強い怒りが伝わってくるようだった。
 サングラスをはずした彼の視線に圧倒されたように、トニーがアビーからさっと手を離し、一歩後ずさっている。

 どうして彼がここに……? いったいどうやってこんなにも早く、わたしの居場所がわかったの?

 訳がわからず混乱したまま、アビーは咄嗟にトニーをかばうように前に進み出ると、夫を睨み返した。ショックと腹立ちで身体が震えてくるようだ。
 だが、彼はアビーの怒りなど物ともせずに、目を細めて二人を見据えながら、ゆっくりと近付いてきた。トニーに握手の手を差し伸べたかと思うと、ロビーによく通る声が響く。

「はじめまして。アテネへようこそ。アビゲイルの夫、ディミトリス・クリスタコスです。アビゲイル、今日のディナーには、こちらのご友人もお誘いするといい。はるばるイギリスからお越しいただいたのだからね。ギリシャ・ワインと料理を大いに堪能していただこうじゃないか」

 臆するように黙って握手に応じたトニーの手を力強く握り返すと、彼はアビーをちらりと見てから、愛想よくトニーを振り返った。
「では、また夕食前に。アビゲイル、今は失礼して、僕と一緒に来たまえ」

 ディミトリスが冷たい微笑みとともに彼女の方に腕を伸ばしてきた。振り返ったアビーは、咄嗟に周りの状況を見て取り、夫の態度に納得せざるを得なかった。
 その場の全耳目が、今三人を注視している。この中で断れば、彼に大恥をかかせるのは目に見えていた。

 仕方なく、アビーはトニーの耳に「夫の言う通り、また後で会いましょうね」と囁くと、伏し目がちに夫に歩み寄った。
 ぐずぐずしていれば、マスコミにパパラッチされかねない屈辱的な場面だった。遅ればせながらそのことに気付き、冷や汗が流れる。
 公衆の面前で、結婚早々に愛人との不倫現場を抑えられた妻、などという悪しきレッテルを貼られでもしたら、彼女自身ばかりでなく、クリスタコス家に与えるダメージも計り知れないだろう。
 それを避けるために、彼があえて穏便に事を収めようとしているのは明らかだった。

 アビーが傍に来ると、ディミトリスは彼女の肩を痛いほど引き寄せた。もはやトニーのことなどろくに見もせず、では失礼する、と言うなり、彼女をホテルから連れ出し、待たせていたリムジンに押し込んでしまう。
 彼も隣に乗り込んできて車が発進するなり、ディミトリスは硬い表情で座っている妻に、嘲りの目を向けた。

「珍しく自分からアテネに来たいと言うから、わざわざ迎えに出向いてみれば……、まったく、とんだお客人だったな」
「違うわ! あなたの誤解よ! 彼はただ、わたしのことを心配して……」
 密着した体から立ち上っている冷たい怒りの炎を感じ、萎えそうになりながらも、アビーはトニーを何とか弁護しようとした。
 だがその言葉も、嘲笑とともに一瞬でかき消されてしまう。
 彼はほとんど無理やりアビーの顔を上げさせると、まだ涙の痕の残る顔を探るように見つめ、こう言い放った。

「虫も殺せないような顔をして……、夫の留守中に昔の愛人を密かに呼び込み、会いに行くとは、大したものだな、ミセス・クリスタコス。その上、横暴な夫の手から助け出してくれとでも、泣いて頼んでいたのか?」



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12/10/12 更新