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 とんでもない言葉を浴びせられ、驚いて瞬きすると、冷たい怒りに満ちたアイスブルーの瞳が、蔑むように見下ろしていた。
 それは酷すぎる誤解だわ……。慌ててアビーも言い返す。

「な、何を言っているの? とんでもない誤解だわ! 彼はわたしを心配して、友情からわざわざ駆けつけてくれただけよ!」
「友情だと?」
 だが、彼は鼻先で笑い飛ばすと、わざとらしく冷笑を浮かべて見せた。
「それでイギリスから『わざわざ駆けつけて』、一緒に駆け落ちでもしようと誘ってきたわけか?」
「馬鹿なことばかり言わないでちょうだい! 単に話をしていただけよ! わたしが急にギリシャに来てしまったせいで、お別れもろくに言えなかったのよ!」
「ふん、昨日屋敷に電話してきた男、というのもあいつだろう。道理で……」
 納得したように呟いた夫を、愕然と見返す。
「……どうして、あなたがそんなことまで知っているの?」
「ダニエラから報告は受けている。君が毎日何をしているか、いつもチェックさせているんだ。アテネに逃げて来たところで同じことさ。タクシーを使おうが、電話一本ですぐに調べられる。僕を甘く見るなよ!」

 チェック……。眩暈とともにその言葉が無機質に響いた。それじゃやっぱりわたしは、妻と言うより囚人のようなものなのね……。
 激しいショックを受けたが、まだ終わりではなかった。
 次の瞬間、伸びてきた手に押さえつけられ、身動きすらできなくなってしまう。そのまま唇を奪われて、彼の怒りに任せたキスに翻弄されることになった。
 己の所有を誇示し、罰を与えるための獰猛なキスが続き、アビーは息もできなかった。口の中が切れたらしく、舌に血の味がする……。


 彼女の唇をしばらくむさぼった後、ようやくディミトリスは顔を上げた。涙を浮かべて苦しげに息を乱しているアビーに負けず、彼も息遣いが荒くなっている。
 涙に曇った目で夫をにらみつけていたアビーの唇がわななき、これ以上抑え切れず震える声がほとばしった。

「こんな……、こんなにしてまで、あなたはわたしを支配しておきたいの? そんなに父の財産が欲しい? お金がそんなに大事なの? 大嫌いよ、あなたなんか!」

「何だと?」
 聞くなり、今度はディミトリスが衝撃を受けたようにそう口走ると、彼女をまじまじと見つめた。
 屈辱の涙を流し、ぎゅっと目を閉じてしまった妻に目を細め、そっと頬に手を伸ばす。今度の触れ方は優しいと言うより、恐る恐る、と言ってもいい程だった。だがアビーは邪険にその手を振り払うと、ふいと顔を背けてしまった。

「もちろん……、金のためなんかじゃない……」

 やがて、アビーの耳に困惑したような呟きが聞こえたが、もう振り向きもせず、じっと窓の外を見据えていた。


*** *** ***


「君が幸せだとわかれば、それでいいんだ。どうか元気で、幸せになってくれ」

 翌日の夕刻、トニーは何度もそう言いながら、悲しそうな中にもようやく踏ん切りがついたように、イギリスに帰っていった。
 夫とともに空港に立ち、去っていく友人を見送りながら、アビーの心は大きく揺れていた。


 昨夜、ディミトリスはホテルで言った言葉どおりに、トニーを自分が経営するギリシャ有数のレストランに招待すると、アビーとともにディナーの時間を持ってくれた。
 彼がアビーの言葉をそのまま信じてくれたのかどうかはわからなかったが、とにかく昼間の車中での怒りとは打って変わって、如才なく話し、昨今のヨーロッパの景気や事業の話題まで提供しながら、申し分のないホストぶりを発揮してくれたので、アビー自身も驚いたほどだ。
 その翌日はさらに、アビーも交えて、アテネの市内観光までさせてくれ、夕方の飛行機に乗る彼を送るために、空港まで付き添ってくれていた。

 忙しい夫が、いったいどういう風の吹き回しだろう。それに今日、仕事は休みなのだろうか?
 不思議に思ったが、トニーを見送ってしまうまでは何も聞かなかった。

 二人きりになると、しばし沈黙が流れた。何はともあれ、今日の御礼を彼に言うべきだろうか。
 迷いながら車に戻ってきたとき、彼は運転手を先に帰してしまい、アビーを隣に乗せると、自分が運転席に座った。
「あなたも、運転できたのね」
 つい茶化すように声をかけると、こちらをちらりと見て、「そんなこと、当たり前だろう……」と苦笑している。
 しばらく、彼は市街地を黙って走っていたが、やがて前方を見たままこう言った。

「今日から二週間ほど休暇を取ったんだ。それで……、よければ一緒に、エーゲ海クルーズに出ないか? 少し遅くなったが、その……ハネムーンの代わりにでも……」
「えっ?」

 アビーは驚きに目を見張って夫を見た。
 トニーの件も、最初こそ屈辱的だったが、その後は強情な彼が、精一杯の妥協を示して歩み寄ろうとしてくれているのを感じていた。
 事業やお金のことしか頭にないと思っていた夫が、険悪になりかけている自分達の関係を、なんとか修復したいと思ってくれているのだろうか?
 だとしたら、自分はどうすればいいのだろう?

「……ええ、行きたいわ」

 やがて、アビーはシートに体を伸ばすと、微笑んでこう答えていた。


*** *** ***


 エーゲ海は、今日も陽光を浴びて穏やかに凪いでいた。
 二人を乗せた快速艇は、十八ノットの速度で青い海原に波しぶきをあげながら、悠然と進んでいく。

 今、この小型クルーザーに乗っているのは、ディミトリスとアビー、それから2人の調理、操縦スタッフ達だけだ。
 船室はゆったりとした間取りのダブルキャビンと、シングルキャビンに分かれていて、白木の壁板を張ったとても落ち着いたつくりだった。
 航行しながら立ち入る島々で新鮮な海鮮素材を仕入れては、調理スタッフがキッチンで調理してテーブルに出してくれる。
 スカートの付いた上品なビキニの水着にパーカーを羽織り、風に吹かれながら滑るように走っている船の甲板に出て日光浴をしたりする。
 ただ青い海を見ている時間は、現実のしがらみとは一切切り離された特別な時のようだった。

 ふと、操舵席にいる夫が手を上げたのが見えた。どうやら、自分を呼んでいるらしい。
 少しためらったが、操舵室に入ってみた。いくつも並ぶ計器類を見ても何もわからなかったが、舵を握っている夫の隣に立ってみる。
 ブルーのTシャツに、ベージュのチノパンツ、そしてラフな白いパーカーを羽織っただけの彼は、いつものスーツ姿とは打って変わって、身近な存在に感じられた。
 アビーは、何気なく彼に寄り添い、同じ目線から海を眺めた。

「船まで操縦できるなんて、あなたって本当に何でもできるのね」
「おやおや、少しはこの夫を見直す気になったかな?」
 冗談ぽくウィンクされ、頬にやさしいキスを受けて、戸惑ったように呟く。
「……もともと、そう思っていたわ」
 赤くなったアビーに、ディミトリスは伸びやかな笑顔を見せると、ふいに彼女を操舵幹の前に立たせた。
「君もやってみろよ」
 えっ!? というようにアビーは夫を見上げ、尻込みした。
「無理よ。わたし、船の操縦なんかしたことないもの」
「車なら道路があり、道路標識やカーブもあるがね」
 彼は手を添えてアビーの手に操舵桿を握らせながら、穏やかに言った。
「ここは四方が海なんだ。対向する船もない。陸のような難しい定めは何もないよ。ただ、向かうべき方向を定めて舵をそちらに向けていればいいだけさ。スピードは固定してね」
「……やってみるわ」

 好奇心をそそられ、思い切って操舵桿を握って見た。夫がスピードをやや落とし、時折手を添えて方向を直してくれる。言われたとおり、操縦はさほど難しくなかった。船は滑るように進んでいく。
 今まで単に乗せてもらう立場だったのが、自分が乗せる立場に変わることで、また違う視野が広がってくるようだった。
 海風が彼の黒髪をなぶり、男らしい顔に乱れてかかっている。どきりとするほどハンサムだ。思わず目を奪われて、頬を赤らめると、それに気付いたように彼のアイスブルーの瞳も色濃くなった。
 続く彼の声が、少しかすれたような気がする。

「海は……、色んな表情を持っているからね。いつもは穏やかで御しやすくても、ひとたび嵐に見舞われれば、たちまち方向を見失い、走行不能にさえなってしまう。だが、そうなる前に、必ず予兆が見える。それが見えたら早いうちに手を打つことだ。そうすれば、被害は少なくて済むし、完全に回避できることさえある」

 その話は、単なる船の操縦にとどまらないような気がした。おそらく、この広い海原の上に自分の事業帝国を重ねて見ているのかもしれない。
 こうして二人きりで話していると、不思議な感覚を覚える。ギリシャに来てからずっと、心にわだかまってしまっていた夫への敵愾心や自分への自己憐憫めいた感情までが、白い波に洗われて消えていくような気さえしていた。
 自分のプライドなど、この海の大きさに比べれば、ごくささいなものだ。

「あなたは……、ずっとこんなふうに、海と向き合って生きてきたのね」

 アビーが初めて気付いたようにしみじみと呟くと、彼は微笑んで彼女の顔を上げさせた。
 唇が降りてきてゆっくりと唇を覆われる。それはとても自然で心のこもったキスだった。アビーも抵抗なく心から応える。
 互いに何度も求め合ううち、いつしかキスは深く激しくなっていった。

 急に船が揺れたかと思うと、航路が大きくカーブし始めた。それに気付き、ディミトリスが慌ててアビーを離すと、両手で舵を元に戻している。
 やがて二人はほっとしたように顔を見合わせ、それから思わず噴き出してしまった。

「今のはちょっとまずかったな。操舵を代わった後、デッキで存分に……」

 耳元でそう囁かれ、アビーはまたぱっと赤くなった。だが同時に心が弾むような楽しい気分も、初めて味わっていた。



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patipati
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12/10/15 更新
やっと親密なムードになってきた二人…。
さて、このまま無事にゴールに到達できますかどうか…?
エーゲ海クルーズ、もう少し続きます。