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 デッキで夕風に吹かれながら、ワインと取りたての魚介を楽しむことも、エーゲ海ならではの極上の贅沢の一つだ。
 時にはスタッフ達も一緒になって、ミニパーティのような雰囲気になることもあるし、二人きりで、言葉少なに寄り添って降るような星を眺めて過ごす時もあった。
 くつろいでいるアビーに、彼が時折たまらないとばかりに触れてくる。だが、その触れ方も以前とは少し違っているような気がした。
 あれほど強引で、万事において支配的に接していた彼が、今は『自制的』と言ってよいくらいの態度になっている。
 どうしてそうなったのかは全くわからなかったが、今の彼の方が遥かに好ましいし、居心地がいい、と思う。
 結婚して初めて、と言えるほど親密な関係の中で、それまで強引さの影に潜んでいた意外にシャイな一面や、その気になればとても感じよくこちらの話に耳を傾け、何でも相談できる友達のように振舞うこともできる、そんな夫を発見しては、驚いたり親近感を持ったりした。

 クルーズに出てから、変化が一番大きかったのは夜の態度だった。執拗に自己所有を主張して求めてきた彼の愛し方が、抑制された穏やかなものに変わってきたことに、アビーは少なからず驚いていた。
 時には、まるでためらっているような時さえあった。彼女が疲れているのがわかると、無理には求めず、ただぴったりと抱き寄せられて、互いのぬくもりを感じながら眠るだけの夜もあった。
 彼が変わった理由は全く見当もつかなかったが、いつもこういう風に過ごせたら、館での暮らしもかなり楽しくなるだろう……。
 そんな夢を見ながら、アビー自身、夫の前で屈託なく笑い、海面を泳ぐいるかの親子に感動の声をあげたり、自然にのびのびと振舞っていることに気付く。

 通りかかった島々にも、彼女が見たいと言えば立ち寄ってくれた。ミロのヴィーナスで有名なミロス島にも行ったし、時には観光客のツアーに混じり、二人で手をつないでギリシャ正教のイコンで有名な寺院を見学したりもした。
 ギリシャ神話の酒の神、ディオニュソス神ゆかりの島では、神殿遺跡を回ってから、ブドウ畑の見学とワインの味見もさせてもらった。

 強い日差しの中、日よけのつば広帽を被り、エスニックな柄のリゾートウェアにキュロットパンツで歩きながら、興味をもったことは熱心に質問し、積極的に遺跡を訪ねて回った。
 彼女を守るように寄り添って歩くディミトリスも、キャップ帽にパーカー、そしてチノパンツやジーンズスタイルで、今二人は、ごく普通のカップルに見えているだろう。
 それも嬉しかった……。


*** *** ***


 キクラデス諸島から少し離れ、エーゲ海最大の島クレタ島に寄港してから二日目。
 クレタ文明の栄華を今に留めるクノッソス宮殿遺跡を目を輝かせて見学してから、夫の運転するレンタカーでイラクリオンの旧市街地に入っていった。
 タべルナでランチを摂った後、博物館を回った。宮殿壁画や出土品などの展示品を興味深げに眺める妻に、やや辟易したようにディミトリスが一足先に外に出て待っていた。アビーが出てくると呆れたように言う。

「君が、そんなに古代文明に関心があったとは知らなかったよ。まったく驚きだな」
 アビーはにっこりして帽子を被り直すと、夫にユーモラスな目を向けた。
「これでも昔は、学芸員になってもいいなって思ってたのよ。それに、今度いつ来れるかわからないでしょう? この目でじかに遺跡を見て触れられる、すごく貴重なチャンスだもの、たっぷり味わわなくっちゃ。あなたは、生まれたときから住んでいるから、文化遺産の宝庫にいる価値がわからないのよ。こうしていると、ギリシャにいるのも素敵だなって思えるわ」
「それは嬉しい、と言うべきなんだろうね。やれやれ……、オートクチュールのドレスより古代遺跡で喜ぶ女性は初めてだな」

 お手上げだ、とばかりに、大げさに天を仰いで苦笑する夫を見ながら、アビーもくすくす笑った。それから伸び上がって、彼の唇に優しくキスする。
 顔を離した後も、しばらく魅入られたように見つめ合っていた。広い胸に置いた手の下で、彼の心臓の鼓動が急に不規則になったのが感じられた。アイスブルーの目が翳り、どきりとするような表情が浮かんでいる。

 アビーの心臓も突然狂ったように打ち始めた。どうすればいいかわからなくなり、顔を赤らめ目を閉じてしまう。
 彼が少し乱暴にアビーの肩を抱き寄せ、耳に囁いた。
「アガーピ・ムー、セ・セロ……」(僕の愛する人、君が欲しい)

 え? と思う間もなく彼の唇が下りてきた。暖かな感情のこもった情熱的なキスだった。次第に更なる渇望と熱が加わりはじめ、アビーも夢中になって応える。周りから一切が消えていく……。
 ふいに、二人の周りからひゅーっと口笛が聞こえ、目を開けた。好意的な野次と喝采を浴びている。ぎょっとして夫から身を引き離したアビーは、自分達が博物館の前で衆目の的になっていることに気付き、真っ赤になった。そのまま、彼に引っ張られるようにして車に戻る。

 エンジンを掛けながら、夫が乱れた黒髪をかき上げ、何やらギリシャ語でぶつぶつと呟いているのを見て、思わずくすくす笑ってしまった。
「あなたって、意外にかわいいところもあるのね」
 むっとしたように、彼が素早く彼女の首筋を捕まえ、顔を上げさせた。
「誰のお陰だい? まったく……。この僕がそんなことを言われる日が来るとはね。君のせいでここのところ調子が狂いぱなしだ。今夜こそ、たっぷりとお返ししてやるから、覚悟しておくんだ」
「……ええ、喜んで受け止めるわ」 

 言葉の合間にも、ついばむように降りてくるキスをかわしながら、アビーも笑って応えた。言われた意味はよくわかったが、もう抵抗は感じない。
 むしろ、初めて夫と対等の立場に立てたような気がして嬉しかった。
 黙って見つめ合ううち、寄り添ったたくましい体から焦れったげな渇望が伝わってきて、ぶるっと身震いする。
 そんな彼女をじっと見ていた夫の口から、切なげな吐息が漏れた。再びたまらないとばかりに抱き寄せられ、唇を奪われる。アビーも彼の首に手をかけて、心から応えた。
「セ・セロ……(君が欲しい)」
 ディミトリスが唐突に顔を上げ、再びギリシャ語で呟いた。二人とも息使いが荒く、これ以上抑えきれないほど鼓動が激しくなっている。

「今すぐに君が欲しい、どうしても……。残りの観光は中止だ。ホテルに行こう」
 切羽詰った低い声で囁くと、ディミトリスは突然車を発進させた。

 折しも午後のシェスタ(昼寝)の時間で、街は静かだった。好都合とばかりに彼はホテルの部屋を取るや、性急に彼女を抱き上げ、室内を突っ切ってベッドに下ろした。すぐ様奪い取るようにのしかかり、唇を重ねてくる。
 その愛の営みは性急だった。これまで抑えていた分も、すぐ様自分のものにせずにはいられないとばかりに、服を脱ぐのももどかしげに彼女の中に入ってくる。そんな夫の動きに応えて、アビーも自ら腰を上げ、両足を彼の腰にからめて、もっともっと深みにまでいざなっていく。
 アビーの全てを自分のものにしてしまうと、安堵したように彼はゆっくりと上体を起こし、ようやく互いの残りの衣服をすべて取り去った。
 窓から入ってくる午後の溢れる陽光の中、露わになった白い裸身に目を細め、今度は丹念に飽きることなく彼女の全身を慈しむ。たゆたうような、二人だけの時間がゆっくりと流れていった。

「フィラ・メ、セ・フリアゾメ……」(キスしてくれ、僕には君が必要なんだ……)

 愛撫に応え、そして彼女からも愛し返す中、ギリシャ語で何度も囁く声が聞こえた。
 意味はわからなかったが、なぜかとても切なくなり、また涙が零れてしまう……。

 愛してるわ……、ディミトリス。いつの間にか、あなたをこんなに愛してる……。

 絶え間ないキスと愛撫を受けながら、アビーの胸に、愛の言葉が幾重にもこだましていた。
 だが、自分がその言葉を夫に向かって言う日は、決して来ないだろうと、わかってもいた。



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12/10/17 更新

あとがき少々、ブログにて。