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昇る曙光がエーゲ海を金色に染める頃、船は錨を上げ、クリスタコスの島に向かって滑るように走り始めた。
キャビンのダブルベッドは少し狭かったが、二人で十分に休むことができた。
シーツの下でアビーが身動きすると、寄り添って横たわっていたディミトリスも片肘を突いて身を起こし、シーツからはみ出した滑らかな肩に唇を寄せてきた。くすぐるような愛撫に、眠そうに微笑みながら目をしばたかせると、間近でじっと見つめるアイスブルーの瞳が見えた。その目は今、最初の頃のように冷たくも測りがたくもない。
「おはよう」
「トリス……、もう起きる時間なのかしら……?」
「いや、まだ夜が明けたところだ。もう一眠りして構わないよ」
「あなたは? もう起きるの?」
晴れやかな笑顔を向けたアビーにそっと口付けて、彼は深い吐息とともに呟いた。
「まったく……、君には完敗だな」
何が完敗なのか、さっぱりわからなかったが、アビーはそのまま両手を伸ばすと、夫の体を自分の方にもっと引き寄せた。
眠りに落ちる前にも、心行くまで愛し合ったはずなのに、触れ合った肌がまた熱を持ったようにほてり始める。
彼が、敏感に反応した胸の蕾の先端を舌でぬらすと、たまらなくなって、もっとねだるように甘い声を漏らした。そして、シーツの下に手を伸ばし、彼女もおそるおそる彼自身に触れてみる。彼がはっと身じろいだのがわかった。急いで手を引っ込めようとすると、「やめないでくれ」と呟き、さらに促すように自分の手を添える。
熱っぽく微笑みながら、そのままアビーの細い指がしばし自分を弄ぶのにまかせていたが、やがて、呻き声をあげて彼女を仰向けにすると、火がついたようにのしかかってきた。熱い口付けとともに一気に彼女を貫くと、今度は彼女の方が降参の声をあげるまで、力強い動きで全てを占領しつくした。
いくら触れても足りないくらい、彼の全てが愛しい……。
こんな風に感じられる日が来るなんて、思わなかった。
夢中になって夫の体を抱き締めながら、アビーは波に押し上げられるように再び達していった。
*** *** ***
クリスタコスの島の入り江が見えてきた。夢のように楽しかったエーゲ海クルーズも、とうとうお開きの時間だ。
彼女は傍らに立つ夫を見上げ、肩にそっと頭をもたせかけた。
「またいつか、こんな風にクルーズがしたいわ」
「いつでも来れるさ……。来年になれば、多分僕らの子供も一緒にね」
なんだ、というように笑って優しくそう言われたとき、アビーの胸にずきんと鋭い痛みが走った。クルーズの間中忘れていた現実が、再び目の前に迫ってくるようだ。
『一年以内に跡取りができなければ、ディミトリス様からご相続権がなくなるというのでは……』
ティラ島でのマリアの言葉を思い出し、思わずお腹に手を当ててしまう。
「そうだったわ……。ごめんなさい。わたしったら、クルージングの楽しさに任せて、一番大事なことを忘れていたわね」
「何のことだい?」
問い返したディミトリスに、一抹の寂しさを隠して笑顔を向ける。
「あの契約のことよ。もうここに居るといいわね……。これで、わたしのお腹に赤ちゃんができれば、わたし達が結婚した目的も、一応全部果たせることになるんでしょう?」
あのモンテカルロでの契約通りに……。
心の痛みを隠し、軽くそう口にした途端、彼の身体が強張った。そのまま、ぐっと手すりを握りしめ、じっと前方を見据えている。
「トリス? どうしたの?」
ややあって、ようやくこちらを振り向いた彼の目つきに驚いて、声を上げてしまう。
先ほどまでのくつろいだ表情が一変していた。彼のアイスブルーの目が、またもや不可解に凍えていくのを見て、慌ててしまう。
「ねぇ、どうしたっていうの? わたし今、何か悪いことでも?」
どうやら、知らないうちにまずいことを口にしてしまったようだ。子供のことだろうか? でも、何がいけなかったの?
その話を最初に持ち出したのは、彼の方なのに……。
無言のまま、しばらくじっとこちらを見ていた夫の顔に、ゆっくりと出会った頃と同じような表情が浮かんだ。やがて頭を軽く振り、アビーに皮肉な笑みを投げかける。
「いや、別に……。君はただ、ありのままの現実を正直に言ってくれただけのことさ。僕もすっかり忘れていたよ。ありがとう……」
そのとき船が接岸した。ディミトリスは虚しく伸ばしかけたアビーの手を払いのけるようにして、さっと埠頭に降り立つと、率先して指示を出しながら、もやい綱をかける作業を始めてしまった。
「トリス! 一体どうしたっていうの? 待ってちょうだい!」
慌てて高める声も聞こえないかのように、彼はオフィサーとともに船の点検作業を続けている。
アビーは急いで彼を追って船から降りようとした。だが、それまで立っていた張り出した日よけの陰から、強い日差しの中に踏み出した途端、かっと照りつける陽光を浴びて、くらりとする。
ふいに目の前がぐるぐると回りだし、ついで真っ暗になった。足から力が抜け落ちていく。
「アビゲイル!」
そのまま甲板にくずれるように倒れたアビーに気付き、ぎょっとしたようにディミトリスが大声で叫ぶと、跳ぶように戻ってきた。
波のように遠く近く感じられる意識の中で、自分の上にかがみこんだ夫の顔もひどく青ざめ、震えているような気がした……。
*** *** ***
ディミトリスに抱き上げられて、すぐさま車に乗せられて館に担ぎ込まれた。アビーを診るために、ティラ島から医師が呼ばれた。ディミトリスが送ったヘリに乗って文字通り飛んできた老医師は、アビーを丁寧に診察し、いくつか検査を済ませてから、二人にこう告げた。
「奥様はおめでたですな。少しお疲れのご様子も見られます。しばらくは大事を取って、安静にされるのがよいでしょう」
それから妊娠初期の注意事項をいくつか説明すると、立ち上がった。
アビーの傍らで、無言のまま聞いていたディミトリスが、こわばった表情で礼を述べている。
医師が部屋から出て行くと、彼は寝室のカーテンを引き、窓から差し込む日差しをさえぎってくれた。
しばらくそのまま黙っていたが、やがて疲れたように横たわるアビーの傍に戻ってくると、咎めるような口調で言った。
「いつからわかっていたんだ? 体調が悪いなら、何故もっと早く言わなかった? 知らせてくれれば、クルーズをもっと早めに切り上げて、戻ってきたものを」
非難めいた眼差しを向けられ、アビーは力なく目を伏せた。
「……心配させてごめんなさい。でも、わたしも本当に気が付かなかったの。今まで体調は申し分なくよかったし、特に変わったこともなかったから……」
「そうか。いや、僕の方こそ……。とにかく、これからは今まで以上に身体に気をつけてくれ。ダニエラにもくれぐれも伝えておこう。栄養があるものを十分に取って、よく休むんだ」
子供ができたことへの喜びの言葉も、熱い抱擁も優しいキスもない。ただの義務的な気遣いと、使用人達へのやり取りを聞きながら、ひどく切なくなってくる。
クルーズ中、あれほど近づいたと感じていた夫との距離が、また元のもくあみに戻っていくようだった。それともやはりあれは、一時的な気分の変化に過ぎなかったのだろうか……。
アビーは虚しさを覚え、一気に疲れが出るのを感じた。クルーズ中に見せてくれた優しさはやっぱりただの気まぐれに過ぎず、子どもができた以上、もはや妻の存在などどうでもよくなってしまうのだろうか?
考えたくはなかったが、彼の態度から言わずもがなの答えを思い知らされているようで、惨めになった。
あの素晴らしい思い出を、こんな風に奪われたくない。アビーはそれ以上言い訳をするのをやめた。それに、ディミトリスの腹立ちにも少しは頷けるような気がして、そっと呟く。
「そうよね。あなたにとって、何よりも大切なべビーですもの……」
彼の強い視線を感じながら、アビーはそのまま眠りに落ちていった。
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12/10/20 更新
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