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PAGE 15



 妊娠……。
 それは彼にとって、待ちに待った知らせのはずなのに。嬉しくないのだろうか?
 
 元の生活に戻ってからというもの、アビーが疑問に思うほど、ディミトリスの態度は再び硬化していった。
 いや、正確には船を下りたとき以来かもしれない。
 もしかすると、二週間も休んだせいで仕事が溜まってしまい、彼の頭の中はまたもや取引や為替の問題でいっぱいになってしまったのだろうか。仕事に入ると、妻子のことなど顧みない男性も多いというから……。

 そうあきらめようとしても、アテネ市内や国外での滞在が続けば、戻ってこない夫をいつまで待っていなければならないのかと、悲しくなってくる。
 一,二週間の出張の予定が、結局一か月以上も長引き、電話をしても、必要最低限の返事が二言三言返ってくるだけだった。
 あれほど夫を身近に感じ、ともに過ごした時間の後で、館の寝室の大きなベッドでぽつんと一人過ごす夜は、あまりにもわびしく、アビーは部屋を変えてしまった。

 幾度も寝返りを打ち、ようやくうとうとしたかと思うと、クルーズの日々を夢に見る。短い間だったが、時間を共にしながら、互いに分かり合えたと思ったのは、どうやらアビーの一方的な思い過ごしだったらしい。
 またしても島に閉じ込められたに等しい状態のまま、虚しい時が過ぎていくばかりだった。


*** *** ***


 つわりも治まり、体調がよくなってきてからは、閉じこもっているのも嫌で、少しずつ島内を散策したりしていた。
 日中は暑いので、風通しのよいテラスで本を読んだり、シェスタ(昼寝)の時間を摂った後、帽子をかぶって館の裏手にある葡萄園やあぜ道を軽く歩いて見る。

 そんなある日、屋敷に戻ってみると、アビーの父の弁護士から手紙が届いていた。

 何かしら? 急いで開封して読んだ途端、顔色が変わった。
 驚きというより衝撃を感じる。見間違いではないかと、幾度も読み返したほどだ。

 薄い紙片には、ディミトリスが、モナコで得たアビーの父コートニーに対する、資産上の一切の権利を放棄してきた、と書かれていた。
 さらに、その放棄された権利は、無条件に奥様に付与されます、とも記されている。

 これは、どういうことなの?
 混乱し、咄嗟に夫に電話で問い質そうと部屋を出る。急いで階段を下りていくと、メイドや庭係の男が数人、何やら話をしているのに出くわした。

『いやだ、ディミトリス様ったら、最近全然お帰りにならないと思ったら! このせいなの? あんなにお可愛らしい奥様の一体何がご不満なんだろうね?』
『まぁ、あの方のなさることは、わしらにはさっぱりわからないからな』
『けど、よりにもよって、フィリス様とはねぇ……』

「旦那様に、何かあったの?」

 ギリシャ語の会話に混じって聞こえた、ディミトリスとフィリスの名を聞くや、黙っていられなくなって、アビーは居住まいを正すと、彼らに近づいた。
 メイドの一人が見ていた新聞を、さっとスカートの後ろに隠したのを見て、思わず命令口調になる。
「どうしたの? 何かあったの? わたしにも見せてちょうだい」
「お、奥様……、わたしらは別に、その……」
「見せて!」
 半ば無理に新聞を取り上げると、夫とフィリスが並んで、どこかのパーティらしき場所にいる写真が目に飛び込んできた。
 ギリシャ語で書かれた記事はひとつも読めなかったが、着飾った人々に混じって、スーツ姿のディミトリスと艶めかしいドレスをまとったフィリスが、確かにツーショットで写っている。二人で何やら話しているようだ。

「……そう。こういうことだったの」
「お、奥様、旦那様はきっと何かお話があって……」
「いいのよ、わかったわ。ありがとう」
 怒りは何も沸いてこなかった。ただ、あきらめたように一つ大きくため息をつくと、アビーはその新聞を彼らに返し、館のパティオに出ていった。

 赤ん坊は順調だった。4か月も半ばを過ぎて、お腹も胸も少し膨らみを増してきている。
 だが、夫が自分の顔を見に帰ってこようともしない今、それに何の意味があるだろう。

 結婚式の前日、ティラ島で出会ったときのフィリスの執念めいた言葉が、今アビーの脳裏を駆け巡っていた。

 ――彼はあなたの金髪がちょっと珍しいだけよ。すぐにわたしのところに帰ってくるわ!――

 そうね。そうかもしれないと、わかっていたわ……。
 だけど……、やっと彼を愛していると気が付いたのに。せめて、もう少しだけでも……。

 その夜、すすまない気分で食事をしているとき、急に嘔吐に見舞われ、口を押さえて化粧室に駆け込んでしまった。
 様子を見ていたダニエラが、青い顔で出てきた彼女を見るなり、励ますように満面の笑みを浮かべて言った。
「赤ん坊が元気に育っている証拠ですよ! 一度、旦那様にお帰りいただいた方がいいですわ、ぜひともお電話なさいませ」
「もう……いいの!」
 咄嗟に激しく答えてしまい、驚いたようにダニエラが問い返す。
「奥様……、もしやあの記事を気になさっておいでですか?」
 メイド達から話を聞いたのだろう。はっと押し黙ったアビーに、ダニエラは落ち着き払った笑顔を見せている。
「あんなのはいつものことです。これっぽっちもお気になさることはございませんよ」
「そう……かしら」
「もちろんです。旦那様はいつもお電話で、奥様のことをそれはお気にかけておいでですよ」
「……だったら、どうしてわたしに直接そう言ってくれないの? ここに帰って来ようとしないの?」
 我知らず、ダニエラを問い詰めるような物言いになってしまった。それに気が付いて、慌てて言い添える。
「ごめんなさい……。そうよね。一度彼と話した方がいいわね、きっと」
 ダニエラも同情するように微笑むと、今夜は早めに休むように勧めてくれた。

 その夜、数週間振りに二人の寝室に入ってみた。その中央を占めるキングサイズのベッド。一人で使うには、やはり広すぎる部屋……。
 アビーはしばらくその場にじっと立っていたが、やがて力が抜けたようにベッドに腰を下ろした。
 まぶたの裏には、今もあの新聞の写真が焼きついている。輝くように美しいフィリスと、彼女に話しかけているディミトリス……。

 そして、彼女名義で返還されてきた父の資産。一か月以上も帰ってこない夫……。

 これら全てが意味するものは明白だった。
 今更ながら、夫は自分より、やはりフィリスの方がよかったと気が付いたのだろう。
 プロポーズされたモンテカルロの夜に「君も僕も、しばらくの間は十分に楽しめる」と言った彼の言葉が、まざまざとよみがえり、意志に反して身体が震え出す。

 彼はもうわたしに飽きたのだ。財産を清算したのも、きれいさっぱり別れたいと思っているからに違いない。
 それとも……とお腹に手を当て、さらに悲しくなる。この子のために、無意味に等しい結婚生活を、今後も続けるつもりなのだろうか?
 わたしと子供を、エーゲ海のこの島に閉じ込めたまま……?

 そんな生活に我慢できるとは到底思えなかった。それくらいなら、イギリスに帰って、一人でこの子を産んで育てる方が遥かにましだ。
 だが、そう思っても周囲は海で、自分一人では身動きすら取れない……。
 やはり夫と話し合うしかないだろう。彼がそう望むなら、二人の邪魔をするつもりなどさらさらない。自分はイギリスに帰りたいと伝えなくては……。

 翌朝目が覚めたとき、アビーはそう心に決めていた。

 思えば、電話をするのも久し振りだった。心臓が破裂しそうに打ち付ける中、夫の低い声を聞いた途端、懐かしさと愛しさが同時にこみ上げてきて、涙が出そうになる。

「……アビゲイルです。お久し振りね。今お電話してもよかったかしら」
「別にかまわないさ。どうした?」
 彼の声は素っ気無く、少しかすれて響いた。
「昨日、父の弁護士から、財産に関する通知が送られて来たのだけれど……」
 かすかにため息が聞こえたような気がした。やがて、静かな声が応じた。
「……ああ、その話か。それで満足したか?」
「いいえ」
 きっぱり応えた彼女に、沈黙があった。ゆっくりと問い返される。
「まだ他に、何か要求でもあるのか?」
 心なしか、ひどく疲れた声だった。大丈夫? ちゃんと休んでいるの? 思わず胸が痛くなる。
 だが、どう言おうかと考えるより先に、言葉がほとばしっていた。

「わたしを、イギリスに帰らせて欲しいの。でも、その前に……、一度だけあなたに会って話がしたいわ……」

 電話の向こうで再び間があった。今度の沈黙は前よりもはるかに長かった。
 アビーは言葉少なに重ねて「あなたに会って話がしたい」と伝えた。内心、祈るような気持だった。
 しばらくして、ようやく返事があった。
「身体は……大丈夫なのか?」
「ええ、問題ないわ」
「……わかった。島にヘリを送ろう。午後まで待っていてくれ」

 まるで、無理に唇から押し出しているような声だった。それだけ言うと、彼は電話を切った。


*** *** ***


 眼下に広がる青いエーゲ海を眺めているうち、日差しの中に、雪のように白い建物の群と青い屋根が見えてきた。思わず驚きの声を上げてしまう。
 アビーを乗せたヘリは、二人が結婚式を挙げたティラ島上空に差し掛かっていた。

 どうしてここに……?
 あの人は今、アテネに居るのではないの?

 だが、行き先の間違いではなく、確かにディミトリスから、彼女をこの島に送り届けるよう指示されたらしい。
 それでは彼も今、この島に来ているのだろうか?



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patipati
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12/10/23 更新
次回でラストです。
ちょっとじれったい所かもですが、もう1、2日ほどお待ちくださいです〜。