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 クリスタコス家の屋敷に向かうと思っていたが、彼女を乗せたリムジンが着いた先は、結婚式の後に泊まった白壁の美しいホテルだった。
 あの日と同じスイートに案内され、ひどく複雑な気持になる。

 少し張ってきたお腹のせいで、身体にぴったりしたドレスやスーツが着られなくなってきていた。今も、ウェストのややゆったりしたデザインのサンドレスにボレロをはおり、長い金髪はいつものようにゆるく結い上げている。やや疲れやすくなっているようだが、それ以外は健康で順調だった。


 アビーの緊張とは裏腹に、午後の時間はひどく緩慢に過ぎて行った。ルームサービスで届けられたお茶や軽食をゆっくりと摂りながら、夫を待っていたが、一向に現れる気配がない。
 以前のことを思い出し、また夜中になるのかもしれない、とちょっと笑ってしまった。彼は相変わらず忙しいようだ。
 アビーは部屋で待つのをやめ、ホテルから続く浜辺に一人降りて行ってみた。折しも、金色の夕陽が西の空に沈んでいくところだった。雄大なエーゲ海の情景に魅せられ、しばらく浜辺にじっと佇む。

 潮が少しずつ満ちてきているようだった。履いているサンダルを脱いで、ひたひたと果てしなく寄せては返す波に素足を浸しているうちに、頬を涙が伝い落ちた。彼に弱さを見せたくないけれど、もう限界かもしれない。
 彼の方から別れ話を切り出されても、泣いてしまわないように、今から気持をしっかりと持っていなければ……。


「マティア・ムー……」

 ふと、背後から懐かしい低い声が聞こえ、はっとして立ち止まった。
 彼がそこに来ている! おそるおそる振り向いたアビーは、我が目を疑うように大きく見開いた。

 ホテルの建つフィラが見える浜辺に、たった今着いたばかりと言うように、カッターシャツの袖を半ばまでまくり上げ、ビジネススーツのジャケットを手にしたディミトリスが立っていた。急いで来たのか呼吸が荒い。アイスブルーの瞳は食い入るように自分を見つめている。
 久し振りに見る彼は少し痩せたような気がした。そして明らかに疲れていた。伸びかけた髪が風に乱れ、目の下には隈ができているようだ。
 だが、一番驚いたのはその目だった。今まで傲然と自分を見据えていた目に、これまで見たこともなかった表情が滲んで見える。

 そこに浮かんでいるのは『恐怖』に近い何かだった。所有を誇り自信に満ちていた彼の瞳に、今、紛れもない怖れの感情と、それから何だろう……、信じるのが怖いような何かが見え隠れしている。

 アビーは黙ってその場に立ちすくんだまま、愛する夫をまじまじと見つめていた。
 自分の目にも、隠しようのない愛が溢れていることに気付かれるだろうか。でも、もう構わない。

「……トリス」

 やがて、彼女の唇から愛しい夫の名がこぼれ出た。ふいに、やみくもな衝動にかられ、もう一度、「トリス!」と叫ぶと、夫に向かって駆け出した。だがあと少しで彼に届くという所で、砂地に足を取られ、転びそうになる。
 あっと思った刹那、力強い腕にしっかりと抱きとめられた。気が付くと、アビーは彼の懐かしい腕の中にすっぽりと収まっていた。高級スーツのジャケットが砂地に落ちたが、どちらも全く気にかけなかった。
 夫をよく見ようと顔を上げた途端、嵐のようなキスが襲い掛かってきて、しばらく息もつけなかった。その激しいキスに、今の今まで感じていた悩みも憂いも全てが、きれいに洗い流されていく。


「アガーピ・ムー、僕の愛しい人! どんなに君に会いたかったか……」

 キスの合間に、心の底から搾り出すような声が聞こえた。彼の体も震えている。それに気付いて、アビーも両腕を夫の背中に回すと、その体をしっかりと抱き締めた。

 それからようやく目を開けて、愛情のこもった眼差しで少し咎めるように夫を見返した。

「それなら……、どうしてひと月以上も島に帰ってこなかったの? それにあの書類も……。わたし、てっきりあなたが、もうわたしに飽きて、別れたがっているんだと思ったわ。だから、イギリスに帰った方がいいと思ったの……」
「まさか……! 何て事を考えるんだ! 僕が君をあっさり手放すと思うのか? まして君は今、僕の子を身ごもっているのに!」

 冗談じゃない、とばかりに声を高め、腕を痛いほどぐっと掴むと、アビーの顔を覗き込んだ。

「君の近くにいたら……、必ず君が欲しくなってしまう。医者から、今は不安定な時期だから気を付けるよう言われていてもだ! だからいっそ、物理的に距離を置いた方がいいと思った。それに君から離れれば、この厄介極まるやみくもな感情も収まるかと思ったんだ……」
 そこまで一息に言うと、彼は自嘲するように笑った。
「……だが、本当に苦しかったよ。こんな風になるとは、自分でも信じられなかった……」

 最後は囁くような声だった。そして、日焼けした手を少し膨らんだアビーのお腹に当て、感慨深げに辿っていく。
 その言葉と掌のぬくもりが同時に心に沁み込み、アビーの唇からようやく安堵の吐息がもれた。

「……でも、あなたはアテネで、フィリスさんと一緒だったんでしょう?」
「フィリス? ああ、確かに先日、財団のパーティで会ったよ。どうしてそれを……?」
 彼が意外そうに眉をひそめたので、思わず微笑んでしまう。そっと手を伸ばすと、乱れた黒髪を撫で付けた。
「新聞記者さん達を、あまり甘く見ない方がいいと思うわ。あなたは何しろ、ギリシャでトップクラスの有名人なんですもの」
 やれやれ……、と言うように、彼が小さくため息をついた。
「それで、何か余計な心配でもしていたのかな? フィリスとは偶然同じパーティに招待されていただけさ。会ったついでに、これ以上君につまらない悪さをしないよう、しっかりと釘を指しておいた」
「フィリスさんがわたしに悪さ……? それってもしかして、あの素敵な鳩のプレゼントのこと……? でも、あなたがどうして知っているの?」
「もちろん、ダニエラから聞いていたさ。悪趣味極まりないいたずらだよ、まったく」


 それから彼もようやく安堵したように、アビーを抱き締めていた手を緩めると、潤んだブルーグリーンの瞳を覗き込んだ。
 暮れてゆく光の中で、彼女の金髪を解いて潮風に流れるにまかせ、もう一度彼女の唇を心行くまで味わう。やがて、顔を上げると低い声で言った。

「サガポー、アビゲイル。アガーピ・ムー」
 サガポー……。『愛している』

 そのギリシャ語は知っていた。聞くなり、アビーの目に熱い涙が溢れてきた。すぐには言葉が出てこない。
 彼が指先で、再び妻の頬をぬらし始めた涙をぬぐうと、額をこつりと寄せて囁いた。

「君に会ったら、まず伝えたいと思っていた。そして許しを請おうと……」
「……許し?」
「君には随分酷いことをしてしまった。君と出会うまで、僕は女性のことを、自分の都合のいいときに欲望を満たす対象、くらいにしか考えていなかったんだ。情事の相手の機嫌を取ったり、ましてや生活のペースを乱されるのは絶対にご免だと思っていた。君と結婚した後も、最初はそのペースで続けようとしたんだが……」

「そうよね……。最初の頃のあなたは、確かに褒められた夫じゃなかったわ」
 思い出して、ふふっと微笑むと、彼も苦笑を浮かべた。
「ああ、まったくその通りだ。だが、君を切実に求めるたびに、他ならぬ君自身が、僕らの仲は契約関係に過ぎないと、ご丁寧に何度も思い出させてくれたからね。その度にぴしゃりと頬を殴られたような気分になったよ。だが、それでも、もっと強く君を求めてしまう。結局、自分で自分のかけた罠にはまって、もがいているようなものだったんだ……」
「そう、だったの」
「覚えているかい? カジノで僕が最初に君に声をかけた……あの時から、多分君に惹かれていたんだと思う。賭けの結果は偶然だった。だがその後、僕の部屋を訪れた君を見ているうちに、何としても手に入れたいと思うようになった」
「……でもそれは、あなたのお父様の相続条件の問題があったからでしょう? お互いの利害関係が一致したから……」
「違う! そうじゃないんだ!」

 ディミトリスは激しく否定すると、アビーをもう一度きつく抱き締めた。そうせずにはいられないと言うように……。

「相続条件なんか、僕にはどうでもよかった。あれは、僕の本心を隠してくれる絶好の隠れ蓑だったんだ。だが、それがそもそもの元凶だった。僕が君を求めれば求めるほど、最初の契約が僕らの間に立ちふさがって、邪魔しているように思えてね。事実、そうだっただろう……? だから、破棄した」
「ああ、トリス……」
「君をここに呼んだのは、もう一度最初から全部やり直せたらと思ったからだよ、マティア・ムー……」

 一旦言葉を切ると、彼はアビーを痛いほど見つめた。真剣な目の奥に、ひどく自信のなさそうな色が浮かんで消える。

「愛しているよ、アビゲイル。僕もこれから、良き夫、そして良き父親になれるように努力してみようと思う。そうすれば、君もいつか僕にこの言葉を言ってくれるだろうか?」

「お馬鹿さんね、トリス……、まだわからないの? わたしもとっくにあなたを愛しているのに……」

 彼の瞳が驚いたように見開かれた。確かめるように彼女に触れ、そしてもう離さないとばかりに力いっぱい抱き締める。

 アビーは深い吐息とともに、しばらく熱い抱擁に身を任せていた。彼の率直な言葉は、偽らざる思いに満ちていた。ようやく自分達二人も、真実の愛の中に解き放たれたようだ。

 やがて顔を上げると、アビーは夫の頬に優しく手を触れて告げた。

「サガポー、ディミトリス。あなたを愛しているわ、だから、あなたの赤ちゃんを産みたいと思ったのよ」
「それなら……これからもずっと、僕とギリシャで暮らしてくれるね?」
 彼がもう一度確かめるようにアビーの顔を見つめたとき、ブルーグリーンの瞳が、彼と暮れ行くエーゲ海を映し、嬉しそうに輝いた。

「あなたがそう望む限り、もちろんよ。だって、わたしはもうとっくに、あなたとエーゲ海の虜ですもの」


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12/10/25 更新
お付き合い、本当にありがとうございました!
あとがき、今後の予定はまたブログにて。